龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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(再掲載)千葉雅也×國分功一郎『動きすぎてはいけない』出版記念トークイベントのメモ

2015年03月02日 12時12分09秒 | メディア日記

國分×千葉のペアでは参照必須?のイベントメモのリンクが切れていたので以下に再掲載します。


ブログを乗り換えるといろいろ面倒てす。
(ちなみに國分さんのスピノザ講座全12回の詳細メモもバラバラになってしまっ手読みにくいので、後で再アップしますね)

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千葉雅也×國分功一郎『動きすぎてはいけない』出版記念トークイベントのメモです
foxydog
スピノザ
2013/11/10 22:35:00

JUGEMテーマ:読書
千葉雅也×國分功一郎
『動きすぎてはいけない』出版記念対談
のメモです。例によって話を聞きながらメモと記憶を頼りに再構成していますから、間違いとか抜けとか「ダマ」とかだらけだと思います。ご承知ください。でも、メモ書いて載っけておく、と思わないと全部忘れちゃうんですよね。
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☆千葉
今回博士論文をベースとして『動きすぎてはいけない』という本を出版することになった。
ここで國分さんとやるのは二回目。

前回は國分さんの『暇と退屈の倫理学』出版のときだった。

國分さんは『スピノザの方法』で博士論文、そして『暇と退屈の倫理学』という人生に直結する本で大ブレイクしたが、そこでは、人生を生き生きとさせていく技法が語られている。

他方、僕は常に怠惰さや人間が弱ってしまうところに注目している。

ある種の不思議なユニット。
積極性・スーツの國分、微妙ににだるそうにしている・ジャージの千葉というコンビ。

もともと博士論文がベースだがかなり書き直している。
学位論文だからガチガチに硬かった。
まだ硬いところは残っているが、広くみなさんに読んでもらいたいな、という思いから書き直した。
序論はほぼ完全に新しく書いた。

その書き直しの過程で、もともとはっきしていなかったテーマ、「非意味的切断」とかをはっきりさせたり、人生論的な意味みたいなものも少しずつきわだたせるかたちにもなった。
國分さんがまとまったプレゼンを作ってきてくださっているらしい。全く内容を聞いていないので楽しみだ。

が、その前にまず基本的な本の内容を説明したい。

まず一点目-----------------------------------
この本はジル・ドゥルーズという20世紀の哲学者についての研究書。
大きくいうと「関係」ということを問題にしている。
コップとテーブルとか、人と人との関係。

20世紀後半、すべてのものは実は潜在的に関係しているという考えが大流行した時期があった。
いろんなレベルで、自然科学でも意味のレベルでも。

それを「関係主義」という。

日本の仏教でも古来から「縁起説」というものがあった。
要するに「みなさんのおかげです」みたいな(笑)

ドゥルーズの哲学には、わーっと、四方八方に関係性が広がっているといっている、そういうところも確かにいっぱいあって、日本では仏教的な世界観とも近いものとして受容されたところがある(80年代かな?)。

確かにドゥルーズにはそういうところもある。

でも、本当にそうなのか、と一度疑ってみたい。
実はいろんな意味で部分的に関係から降りる状態が当たり前だし、僕たちにとって大事なんじゃないか、と。

「あちこちにちっちゃな孔(あな)がある」
という感じ。

ひととかモノとかとやりとりするのに、相手の全てではなくある側面に関わっている。
だからあちこちで切れている。
見えていないところが世界にはいっぱいあって、それが重要なんじゃないか、それをドゥルーズの哲学から読み取っている。

次に二点目-----------------------------------

「関係しすぎる」、というのが世の中に蔓延している。
そういう(社会的)会的現実がある。
2000年代後半降、SNSが普及して、LINE、Facebook、Twitterとか、誰かとずーっとつながっている、スマホ見てるってことがある。自分一人で孤独に考えたりすることが困難になり、人からどう見られているか気にしないでは生きられなくなった。

強迫観念にとらわれる状態がソフトにソフトに進行している。

だからたまにはネット見んのやめろ、ってことになる(笑)

それが大事で、「限定された紙とペンだけで考える」って必要なんです。
そういうことが最近切実。

「つながることが大事」、と昔ドゥルーズは読まれてきていたけれど、今はある程度切らなきゃいけないんじゃないか。
コラボとか80年代とかやってたが(たしかにミュージシャンとかかっこよかったけどね)
、今は当たり前。でも、それでなんかになるのか?本当の創造ってそんなんでできるのか?

そこでそういう実践的な関心から「切断」を考えている。

三点目。-----------------------------------
ある研究対象について、王道の研究もある。
ドゥルーズについていえば「多種多様な関係」についてとか、「差異について」とか。
これはオーソドックス。

でも、そうじゃなくて、むしろ縁遠いところから(搦め手から)アプローチし、すべてをひっくり返すやり方が面白い。

テーマ主義とかいわれるのがその典型。
蓮實重彦の『夏目漱石論』がそれ。
「人が横たわるシーンで何かが起こる」
みたいな。

そういうことを参考にしていてドゥルーズで「切断・分離」ってあんまり目立たないけれど、面白い。

「~しすぎてはいけない」というドゥルーズのフレーズもそう。

ところどころ出てくるが、誰もふれていない。

つまり、方法の問題として正面突破ではなく、天の邪鬼な視点、マイナーなテーマからドゥルーズ像を明らかにしたい、と。

三点を紹介しました。以上イントロでした。

☆國分

千葉雅也の方法はなんなんだろう?ちょっとこんなものをつくったので我慢して聞いてください(笑)

METHODOS MASAYAE(雅也の方法)
國分先生、プレゼンソフトで<ジャック・デリダのものまね>をしつつ、つかみをしてます。(省略)
会場は「笑い」

この本は本っ当に素晴らしい本です。今日はそのうちの一万分の一ぐらいお話ししたい。
まず私的なことから。

この本を読んで
Francis Baconの絵(の画像をHEADⅣを提示)
を思い出した。
この絵は個人的に大切な絵です。
大学二年生のとき、初めてドゥルーズについてサークルの雑誌にこの絵のことを書いた。

この絵は当時(一般に)いわれていたことに対する解決であるように思われた。
僕が大学生だった90年代前半は、アイデンティティ・共同性・(政治的な発展形態としての)ナショナリズムなどはとにかく全然ダメという思想が強かった。

閉じられたものは×
開かれたものが○

そういうイデオロギーがとっても強~力にあった。

僕はその頃そういう本をよく読んでいたが、しかし、どこか違和感があった。


千葉君の本でも触れられているが、

ジジェクは、ジャクソン・ポロックをドゥルーズ的画家と考えた。
出来事だけがある、みたいな。アクションペインティングですからね。

でも(本にもあるように)千葉君は違うという。

むしろベーコンの絵が、全面的には抽象化されていないところに注目し、
<ベーコンの絵は輪郭を失っていない。そこをドゥルーズは評価している>
、と述べている。ベーコンをポロックとは区別しているわけだ。

「輪郭を救うこと」ってことをベーコンは大切にしている、と。

形が崩れ、ゆがみ、ボロボロになっているが、そこからなんとか輪郭線を引っ張り出してくる。

私も絵だけをみて、なんとなーくそんなことを考えていた。
何かが全部ポロックの絵のように雲散霧消してしまうってことはないし、望ましくもないんじゃないか、と。

たしかに私たちのアイデンティティやフィギューは弱いしぼやけているし、はかないが、しかしこういう輪郭があるんじゃないか、というこのベーコンの絵にベーコンの絵に惹かれた。

メチャクチャになりすぎるのはよくない。
めちゃくちゃになるのと生成変化とは違うでしょう。
輪郭はあるでしょう。

そういう問題意識が、僭越ながら千葉君と共通している。

「輪郭を消せ」、とかおかしいでしょう、と。

「形象の輪郭線は表象からの逃走線だ」
「狂わせ過ぎないこと」

これって常識派?

☆千葉
まあ。

☆國分
そういうところが響き合っていることに感動した。
私的な思い出の中で私的にドゥルーズを経由して考えていたことと、千葉君がこの本で言おうとしていることが響いてきてとっても感動しました。
これが私の私的な話です。

さてまず、この本は基本的に非常にメチャクチャ難しい。僕も相当力を入れて読んだが、分からないところもある。

でも、この本は既に話題になっているし、読まれているし、これはなんかおもしろそうだぞ、ということになっている。

これが大切。

難しくては分からないところはあるけど、だけど何か人に訴えかけるところがある。
それを通じて人は学んで、次第に理解していくようになっていく。読めるようになってくる。

そこから、この本の新しさは、いったいどうやって体験されるのだろうか、
という問いが出てくる。

内容だけの問題ではない。

この新しさはなんなのか、とかんがえると、

それは

「あたらしい論述水準の創造」

だ。
今までの論述水準には大きく考えて二つあった。

1,禁欲的な哲学論文

2,哲学のポップな応用

でも、単なるポップな哲学の応用は、あまりおもしろくない。なぜなら、禁欲的な哲学論文に対するなんの攻撃にもならないから。

しかし、千葉君の本はちがう。

たとえば、千葉君は

P 92「ヒュームの連合説は解離説でもある」

と書く。

別にポップに応用していることでもないし、こう読むと面白いよ、ということでもない。

ヒュームの連合説はたしかに解離説でもあるんですね。
つまり、ヒュームはそうはいっていないが、ヒュームの哲学に潜在的に含まれている説が、あらわれてくる。

次の例。
P125「観想=縮約する」

ドゥルーズは

物質はなんでもギュッと「縮約」することで生きている。

という。同時にまた

疲労とは、「観想」はできるが(受け取ることはできるが)、「縮約」できないのが疲労だ
「観想できるが縮約できないものが疲労だ」

ともドゥルーズは言っている。

そこから千葉君は、
「あらゆるものが縮約をするなら、あらゆるモノは疲労するよね。」

と読んでいく。
これは読み替え、でもない。顕在的ではないかもしれないけれど、ドゥルーズのテキストに潜在的に含まれている。

さらにそれを進めて、
要素を吸収して縮約して何かを創造するというのが、そしてそこから概念を生み出すのが哲学だとするならば、

「ある意味で固有の仕方で哲学していないような存在者は存在しない、すべてのものは花だって麦だって全部、哲学してるよね、」

ということになる。

確かにいえる。
千葉君が勝手なことを言ってるんじゃなく、ドゥルーズからこういえる。

ドゥルーズの哲学の定義はこうで「も」ある、ということですね。

今までとは全く違った、応用でも変奏でもなく、読み替えでもない、新たな論理水準。
突拍子もないんだが実はそうじゃなくて、それを作り出しているのが千葉雅也の本の新しさであり、(繰り返すが)ポップな読み替えではないよ、ということ。

これが一つ目の方法。

さらに、千葉君は
自由間接話法「的」にドゥルーズを読んでいる。

直接話法と間接話法の間にあるようなもの。

要するに間接話法は、語っている側と語られている側の区別がなくなっちゃう話法。

僕は、『ドゥルーズの哲学原理』で、これを多用することがドゥルーズの方法だ、と書いた。
誰かがこういっているっていうんじゃなくて、論理そのものの中に入って行って、匿名な論理そのものから結論が導かれるように書く方法。

もしかしたら千葉君の文章はある瞬間そう「も」読める。

しかし、今日のポイントはあくまで「的」である、というところ。

僕がはっとしたのはp15に「私」出てくること。

千葉君の本文中に全部で数えたら369ページの中で11回出てくる(笑)

わざとですよね、千葉君だから。
(そう、わざとです<千葉>)

私は「私」が出てくるのにドキッとした。というのは、ドゥルーズは「私」が無くなっていく哲学だから。

でも千葉君は違う!
それは千葉君が選択している。
そしてその選択が隠されずに「私」として示されている!

この11回出てくる「私」はまるで小麦粉を水で溶いたときにできてしまうダマのようなもの。

つまり、溶けきらないものがある。匿名の流れのようなものがあるかに見えて、実はとけきらないものがあるんだ。

『動きすぎてはいけない』の中で、僕(國分)が研究者として最も重視したいのは

ドゥルーズ哲学は全てを大いなる匿名の流れの中にとかし込んでしまう哲学「ではない」、
生成変化とは自他を一緒くたにすること「ではない」、ということです。

こういうことを千葉君は非常に繊細に描く。
きちんと自分の「ダマ」を残している。

つまり、言ってることと書きっぷりが完全にきちんと一致している。

逆にいうとですね、突き詰めると、ドゥルーズの本って、「私」が全然出てこない。
ちなみにそれを物まねしている僕の本(『ドゥルーズの哲学原理』も「私」って一回も出てこない。

これはつまり(私が出てこないのはある種)、ごまかしなんじゃないのか?
(哲学論文では基本「私」はもちろんご法度だが、それを前提としてもなお)

そういうのって、ホントはダマがあるのに、匿名の中の流れに全てがあるかのように書いているんじゃないのか。

千葉君の本は正直に、書いてある。
千葉君の哲学は正直な哲学だ、と思う。

むしろ、ドゥルーズや僕の本は、カッコ付けなんじゃないのか?

そこが誤解されやすいんじゃないか、と思われる。

なるほど一見、千葉君の文章はレトリックが凝っているから、装飾的な文章といわれるかもしれない。けれど、カッコ付けとは正反対。

むしろカッコつけているのはこういうの(『ドゥルーズの哲学原理』)を言う(笑)

これが千葉雅也の方法論の二つ目。
「正直」ということ。

これは、千葉君のエクリチュールだけの問題だけではない。
これは千葉君が、あるいは千葉君を離れても我々が、実は普段実践していることを隠さないということ。

ありもしない理想じゃなくて、ふだんしていることを隠さないで正直に隠さないで論じる。

そうすると『動きすぎてはいけない』の本のテーマと直結してくる。

ここで三つ目のポイント

「うまくやっていくこと」
Savoir y faire
を挙げる。

P175「欲望の純化を回避するような仮のマネージメントをしていないだろうか(しているだろう)」
ってこと。

精神分析では

最初に「欠如」があって、その後はそれを追い求めて、「対象a」をただひたすら追い続けていくようになる

とか、そういうことが書いてある。が
「ちょっと待て」
と。
別に「対象a」を追い求めてその彼方にある「欠如」なんて求めていったりしないよ、と。

普通に、いい加減にごまかす、適当なところでやめてごまかす。
これは非常に千葉哲学をよく示しているのではないか、と。

これが3つ目の千葉哲学の方法ではないか。
たとえば

「ツイッターのタイムラインに流された不完全な情報によってふるまいを左右されかねない」

これは、よくある。
つまり、はっきりいうと私もよく「エゴサーチ」するわけで、それを腹を立てて「ふざけんなよ」とかなったりしている。

反論したくなるけど反論しないように我慢するのに大変な精神力を使っている。
でももしかするとよく調べてみるとそんなことじゃないかもしれない。
でも、そうはしない。

「SNSのメッセージを一つ見逃していて、ある会合への参加を選択できなかったことで、別の行動が可能になる」

こういうことがある。つまり、
「それは分かっているんだかわかっていないんだかわかんない」
ってことがある
「悪気があるし、ない」
みたいな。

千葉君はこれを「有限性を善用する」という。

全部調べて確証をもってからじゃなきゃリツイートしない、なんてことはない。リツイートしちゃうわけです。

そういうのがあるわけです。そういのを逆に善用していこうよと。

そのために千葉君が取ったのは、
「接続ばかりが強調されるドゥルーズではなくて、切断を強調する」
ということですね。
つまり「接続の原理」ではなく「非意味的切断」を再検討する。

その際に、千葉君がもってきたのが「リゾーム」っていうドゥルーズ=ガタリ豊崎光一訳の本です。

昔はあんなに論じられていたのに、今は触れられていない。
ドゥルーズ=ガタリが「非意味的切断の原理」をこの本で強調していたのに、誰も触れていなかった。

ここで千葉君の本が学問的に面白いのは、
『リゾーム』といういささかいかがわしいものと、デイヴィット・ヒュームという非常に硬い経験論の哲学の「関係の外在性定理」というものとを、繋げちゃったわけです。
これは驚きです。
これも新しい論述水準の創造によって、全く違和感なく読めるわけです。

池田剛介さんはこの本を「インスタレーション的」といっている。
あちこににいろいろ飛ぶようにできている。
僕の本は直線的なんだけれども、ある種この本はネットワーク的。


ここで4つ目の方法論。
論述の仕方においてもつながったり外したりしていて、既存の接続を絶対視しないということをいろんな形で行っている。
この論述は独特。

P248「レトリックの『位置価』」
というところがポイント。これが千葉君の論述の仕方をよく表している。

もちろんどういう意味かとか、歴史的にどうかとかは押さえるが、それだけではなくて、
ある論述のレトリックにおいてどういう位置にそれがあって、どういう意味を持つか、を注目して考えている。
この部分だけの話ではなくて、この文章全体のこととして読めるかな、と。

☆千葉
いやいやありがとうございます。ちょっと感動してしまって。
その通りですねえ。
「私」、11回ですか。数えてないですけど。

☆國分
ある程度意識的?

☆千葉
そうですね。自分の責任で断言するしかない。しかもちょっと浮いた断言をしなければならないときに「私」を使っている。
本全体が中立的なものにならないように、自分の立場というかたより=ダマがあるってことを示している。
もう一つ、英米語圏の論文は比較的最近「I(アイ)」を使う。
フランス語圏でも「私たち」(一般的)と「私」(個人的主張)を使い分けるってのもある。
それを念頭に置いていた。

☆國分
本を書くとこの人称がとても気になる。『暇倫』でも意識して、私たちをなるべく使わないようにした。
気にしてみると、上野千鶴子さんとかすごく一人称の使い方は精密。

☆千葉
そうでしょうね、フェミニズムの文脈とかではそこがすごく重要ですから。

☆國分
それを精密にこの本で千葉君がやっているっていうのはドゥルーズが「我々」でだけ考えていることを踏まえると重要。
っていうかドゥルーズの論点の中にも「ダマ」っていろいろあるよね。

「子供が悪口を言ったら父親はおこらなければならない」

とか。こんなの全然ドゥルーズ本人の判断なのに、あたかも今まで論じていたことから出てくるかのように書かれている。だけど、千葉君はここで立ち止まって、ここではある価値をドゥルーズが「密輸入している」と。

☆千葉
僕の方法を自分でどうとらえているかというと、
「イディオム分析」(固有語法)
なんです。
いろいろ本を読んでいたりインタビュー調査でも重要なんだけれど、本人が口癖みたいにに繰り返すキーワードがある。でも本人がその意味を本当によくは分かっていない、というのがあるじゃないですか。だからそういうところに着目してやっていく、というのがある。

逆に自分が書く場合もできる限り変なイディオムは使わないようにして書くというのが書くことの作法なんだけど、そうはいっても、「関係」でも「存在」でも、普通の言葉をイディオム的につかっちゃったりしている。だから自分の言葉の中で言葉をイディオム的に使っちゃうことって避けられないと思う。

だったらせめて意識的にその位置をコントロールしよう、と。

ドゥルーズ自身コントロールしきれているのか?っていう疑問がある。

☆國分
[Trop]英語でいえば[too]ですが、それを、言われてみればあそこにもあったな、と。
ま、わかるでしょ、みたいにドゥルーズが書いていて、それが意外に議論が成立していて、この[trop]についてのイディオム分析が新鮮だった。

この「動きすぎてはいけない」のタイトルは早くから決まってたんだよね。

☆千葉
そうそう。最初の最初から決まっていて、
「生成変化を乱したくなければ動きすぎてはいけない」

これは何をいっているんだ、と。
確かにドゥルーズは旅行が嫌いだった。ここにいてもイマジネーションを働かせればいろいろなれる、という意味だろうとは思ったけれどもね。

これ勘違いする人がいるかもしれないんだけれども、(そしてあえて勘違いさせているわけですけれども)何か「人生訓」のようにね、僕がいってるかのようにパッと見、勘違いして買ってくれる人がいるのはいいんだけれども、これは実はドゥルーズの固有語法である。と同時にそれが人生のヒントとして役に立ったりするという二重の機能があったら(いいな)と。

☆國分
というかみんな「動きすぎてはいけない」じゃなくて「働きすぎてはいけない」って読んだりして。

☆千葉
そうそう、それで買っちゃっても全然いっしょですから。そういうことです。

☆國分
これ動かないってことじゃないですから。

☆千葉
すぎないほどに働く。

☆國分
さて、では次いきましょう。

「うまくやっていくこと」
Savoir y faire
これが本当に面白いなと思って。

これについてちょっと。

(この本では)ラカンの純粋欲望と対象aの話をしているんですね。
簡単にいうと、人間は生まれ落ちたあとで心に大きな傷を負う。それが大文字の「欠如」。それを埋めたいんだけれども、埋められないから、それを埋め合わせになるもの「対象a」を追い求める。それが人生だ。というのがラカンの考え方。

☆千葉
赤ちゃんは周りに親とか支えてもらわないと生きていけないですよね。
不安でさびしくて。何かが欠けているといつも思う。
その穴、それを埋めるのにたとえばとんかつが食いたいというところまで繋がっているというが精神分析。この場合とんかつが「対象a」ってことになります。

☆國分
そうですね。ま、(ラカンのこんな考えは)どうかと思うわけですけれども(笑)。

☆千葉
まあね(笑)。

☆國分
その場その場で追いかけているものが対象a。

☆千葉
とんかつとかね(笑)
「Savoir y faire」自体は後期ラカンの話ですよ。

☆國分
で、ラカンは早い時期には
ほんとは「対象a」は全部「欠如」につながっていくんだと言っていたけれど、

そうじゃなくて、「対象a」は、実は純粋欲望をごまかすために役立ってるんじゃないか、という読みを60年代以降、後期ラカンは出してくる。

このやり方で今ここで対象aとうまく付き合っていくことが

Savoir y faire

それを重視している。

ラカンの考えの最初の段階は、「対象a」はあくまで欲望の対象で、原因は「欠如」だった。
(寂しいから手近なものでとりあえずは間に合わせるけど、根源的な寂しさに人は常に向かおうとするって感じ?)

けれど
後期ラカンは、「対象a」が原因なんだと、定義しなおしている。

これは僕も知っていたけれど、どうしてそうするのかが分からなかった。
千葉君の本を読んでそれが分かった。

『暇倫』でも同じ展開がある。

パスカルが言ってる。
キツネ狩りとか、ほんとはウサギがほしいんじゃないだろ?「対象a」にすぎないんだろ、と。
本当は暇だからなんだろ、と。ウサギは原因じゃないんだろ、と。
(パスカルは)いやな奴(笑)。

☆千葉
で、ラカンはさびしんだろ?と(笑)

☆國分
ところが、私の後半では、
ハイデガーの退屈の第二形式に触れていて、これが
Savoir y faire
と通じているんじゃないかと。

日常生活って、そんなもんじゃね?それが人間らしい生活だよとね。

「対象a」と楽しんでいこうよってことだから、共通してるんじゃないかな。

ドゥルーズにもそういう「ダマ」があって、たとえば結婚の問題を当然視している。
「フィアンセ」、とかすぐ使うんですよ。

アリアドネはディオニュソス的なものと不可分=「婚約」
ドゥルーズはすぐ結婚させたがる。「美味しんぼ」か!

☆千葉
多いんですよ、結婚のレトリック。
要するに言いたいのはその二つは不可分であるとか、本質的に関係があるとか、とかいうときに「結婚」とか「フィアンセ」とか言っちゃう。

☆國分
これは完全に好み(イデオロギー)だよね。

非対称的総合とかいうところの例として子供の叱り方が出てくる。
こんなのも「ダマ」だよね。

でも、個人史とドゥルーズの思想を繋げているでしょう。これ非常に面白かった。自民党っぽい(笑)

独身→ヒューム
結婚する→ベルグソン
子供ができる→ニーチェ

さて、論点をいくつかだしておきたい。

最後、第9章が動物論で終わっている。
僕は動物論に非常に関心がある(飼うのはすきじゃないが)。

ハイデガーは
動物は
とりさらされていて(虜になっている)→餌に気を取られているみたいな感じ。
かつ、
さらにとらわれている(麻痺状態)→その動物にふさわしい環世界で生きている。
しかし人間は取りさらわれてはいるがとらわれてはいない(マヒ状態にはなっていない)。人間には「環世界はない」、といっている。

これはユクスキュルの『環世界』の論と密接に関連している。

ハイデガーはユクスキュルに反対してこう言う。
動物は「環世界」を持っているが、人間は「環世界」を生きていない。
だが人間は世界を創っていくんだ。人間はとらわれてはいない。動物はとらわれている、と。

千葉君の文章にはこのハイデガーの「とらわれ」と「とりさらわれ」の区別が論じられていなかったから、この「位置価」を考えると、もっと面白くなるんじゃないか。

また、千葉君の本では、「世界をもっと貧しくする」ってことを書いている。
そこで
1、要素を少なくする
2、要素に対する反省を削ぐこと
と指摘している。一個目はけっこういえるけど、二個目はなかなかいえない。

この二個目が面白かった。

もう一つ、「負の人間中心主義」が面白かった。

「負の人間主義」というのは、動物は「愚かさ」から守られている。動物は「賢い」と。人間だけが「愚かになれる」つまり「負の人間中心主義」。それを反転すると創造的になれる、と千葉君がいっている。

で、僕の質問は、最後に出てくる「死を知る」動物ってことですね。
ドゥルーズは実は動物こそが死を知っている、という話をする。

ハイデガーは人間だけが死を知る、という。死ぬのは人間だけだ、と。
でも千葉君はドゥルーズを読みながら、あるいはドゥルーズが「動物こそが死をしっている」ってね。

僕も、ドゥルーズに教わる前から考えてた。
野生の動物はいっつも命を狙われている。むしろ死ぬことを予期しているのではないか。

それと、「負の人間中心主義」はどう関係してるの?

僕(國分)は、動物のとらわれについていえば、動物が別にとらわれているわけじゃない、と考えている。

人間も動物も「とりさらわれているだけだ」と考える。
人間も動物も「環世界」を生きているんだと。
で、千葉君と同じように、その「環世界」を貧しくする、つまりは没頭するってことが大事だと。何か没頭しているときには明らかに世界は貧しくなってるわけです。
あるものにエネルギーが集中的に注がれていて、それがある種「動物になる」ことじゃないか、と僕は書いた。

☆千葉
ちょっと明日の学会が始まっちゃってるみたいで(笑)。
でもありがとうございます。それだけ國分さんの思考を揺り動かすことができた、ということでありがたい。

まず、「動物になる」ということから。ここでは

「有限になることが大事だ」

という話をしている。
僕はもともと美術的なものをやっていた。
作品を創ることから批評を考え始めて、そのためには哲学が必要だってことで哲学に進んだ。だから、モノを創ることがベースにある。
そのときある種のアーティストは空の青にだけ集中してひたすら空の青を写真に撮り続けるみたいなこと、「青人間」のこだわり、みたいになることがある。

それはある種「ダニ」になるみたいなこと。

もう一つは作品をいつ完成させるか。
これ、追求しようと思ったらきりがない。
だから、適当なところで終わるしかない。
絵を描いていても、「ま、こんなもんだ」ってところで止めるしかない。
これが「非意味的切断」ってこと。
ご飯を食べててもういいや、っていうのも、胃袋の大きさとかはあるけど、どこで終わりにするか、あるいは何時から仕事を始めるかっていうのもたいした意味はない。これが

「非意味的切断」

実際にものを創って、一個一個の作業をやって、進めていって、完遂させる。
これが僕の基本的なテーマ。

それが「有限性と切断」ということを考えること。「動物」ってことです。

ハイデガーの「人間論」とか、ドゥルーズの「負の人間中心主義」とか、いずれも人間は一つの定まったことだけをするのではない、むしろ「おろか」だからいろいろ可能性があるってこと。
無限の可能性とか、人間しか言わないけど、それが人間の愚かさでもあり、創造性でもある。
何をやったらいいか分からないから無限の可能性がある。

でもね、現実にモノを創る場合、そういうのじゃだめだしね。それじゃ作品は作れない。

☆國分
「環世界」をぷらぷら移動してしまうってのが退屈の根拠だってオレも書いてるんだけど、いろいろな可能性があるから、結局何もできないってことになる。

☆千葉
そうだね。
☆國分
そうすると、非意味的切断の、どこで切るかってのはやっぱ適当なの?

☆千葉
適当でしょう。ある程度の理由はあるだろうけど、根源的には無意味(非意味?)

デリダが言ってるけど、「決断の瞬間は狂気だ」、と。
「これだっ!」て決めるときには、ある意味狂わないと決められない。
いろんなことを考慮しようと思ったら無理。
最後のジャンプは狂気(とデリダはややロマンチックに言うけど)

彫刻なんてのはよく分かる。
ノミで削り込んでいく。
ただ考えてても丸太のままだから、とにかく削ってかなきゃならないですからね。

☆國分
オレが関心あるのは
どうやったら「環世界」貧しくできんのかなってこと。
オレはそれでスピノザ主義になっていく。
スピノザは人間の体が多くの仕方で刺激されるようになっていくのがいいことだ、と。

刺激されるのとされないのとあるじゃん。
勉強すると刺激の可能性が増える。これがいい。
千葉君の本でいうと実験の可能性が増えていって、体質が分かってくる、っていう言い方をスピノザはする。
こうやると貧しい「環世界」の中に没頭することができる、と。
その辺りどう?

☆千葉
國分んさんの考えは、何かを楽しむためには「楽しみ方」を学ばねばならないってことなんだよね。
その学習するっていう動機付けっていうのが國分さんの話のいいところですよね。
ドゥルーズを読んで学習意欲を高めるとか(笑)。

僕の話だと、なんかどっちかっていうと自分自身に対してこだわりポイントをイディオム分析してみて、こだわっちゃうスタイルとかこだわりを核としてなんか作れない?ってことになる。

学習はする方がいいけど、まず「イディオム分析」してみようよ、って学生にはアドバイスしてみる。
その上で可能性を広げる上で勉強しようと。
 
☆國分
なるほど常に既に、刺激を受け止める体質を当然個体は持っているわけだから、つまり「ダマ」をもっているってことね。

☆千葉
そう「ダマ」を見つけるんですよね。だからそれはある種精神分析的介入ですよね。

☆國分
それが『動きすぎてはいけない』の中でどうすれば
Savoir y faire
の根拠となるようなポイントが形成されるか

☆千葉
そうですね。
自己自身をテーマ批評をするということかな。

☆國分
あと、スピノザのこともちょっといいたいな。
やっぱ今言ったようなのは非常にスピノザ的。
刺激される可能性を増やしていく。さらに体質を学んでいく。
自分の中の身体の必然性・法則を知って、それに従って生きることが重要だ、という。
で、必然性と自由が対立しないというのがスピノザ。
☆千葉
それって、自分の体にできることとできないことって人によって違っていて、無理しないでやれることをやろうよ、ということですよね。

☆國分
そう。ある意味常識的。

☆千葉
それは逆に言えば、無理して他人の基準に合わせるなってことにもなる。

☆國分
そうだね。

☆千葉
そこがいいところだと思う。

☆國分
え、それいいところなの?

☆千葉
ただ、スピノザは共通概念を形成しようということになるじゃないですか。
自分の体質のポイントと組み合わせて似た相手を選んで「いい感じ」になる。
仲良くなれそう。それを広めていって、という共通概念があるでしょう?

☆國分
千葉君としてはそれ、どう?

☆千葉
んー僕は生き方としてはスピノザ的に生きるんだろうなと思うよ。
でも、どうしても共通概念を見つけられないとか、ドロップアウトするとか、共同性に乗れないというのを、どう考えるか?

☆國分
千葉君がスピノザに言及したところで紹介したいのは
P148にエチカが言及されている。これはこの通り。

簡単には反論できなかった。

でも、ちょっと言っておくと、僕が博論でやったのは『知性改善論』という失敗作。

この『知性改善論』という本の冒頭(失敗した方法論なんだけれど)、自分は名誉欲・金銭欲・性欲から抜け出したいと思った、という。
でも、やろうと思ったけど、日常生活を大変革しなきゃならないから、無理だと。
もう一回やろうと思って、考えを変えて、それを捨てて絶対善を求めようとした、と。
そのとき、名誉欲・金銭欲・性欲は本性上不確かだけど、「絶対善」は本性上確かだ。あるとすればね。
だから前者を捨てて後者を取るんだ、と。

でも、やっぱりうまくいかなかった。スピノザは二回挫折している。
しかしながら、その挫折の中からそこを抜け出せる考えを見いだした。

「どうやって名誉欲・金銭欲・性欲から抜け出そうかを考えているときだけは自由だった」

つまり、スピノザにも「ダマ」はあるわけ。

ところが、『エチカ』になると、そんなことはなかったかのように話が進行する。

☆千葉
哲学はダマを押しつぶすものですよ。
でも、『エチカ』も「備考」の中にちょっとダマがあるんじゃないかな。

☆國分
そうそう。ダマを押しつぶすんだけど、ちょこっと「備考」とかに出てくるんだよね。
ドゥルーズは「『エチカ』の定理は大河だが、『備考』は地下水脈だ」
なんていってる。
今日はあんまり反論できなかったけど、『エチカ』の中のダマを読んでいくってことが僕の課題だね。

☆千葉
まとめると、一冊の本は決して均質にはできていないんですよね。
一般的な語りのどこに「我」が出るか。
もう一ついうと、社会の常識に完全に合わせようとしないで、乗れない部分、社会的抵抗がある。ダマがある。こだわりの再発見、イヤのものはイヤという。

☆國分
でもね、社会の中でダマになるのはなかなか大変だと思います(会場笑)。
僕はすすんでやるけどね。

☆千葉
やってますよねぇ(笑)

☆國分
大変ですよ(笑)
☆千葉
でもダマになりすぎちゃだめなんですよね。

☆國分
適当に溶け合ってないとね(笑)。
そこがやっぱり

「ダマになりすぎてはいけない」という……。

☆千葉
話聞いてもらえないからね。
これもまたSavoir y faire「うまくやっていくこと」
 
でも、「ダマになるな」っていう圧力、管理社会の圧力がひどくなって、無難に無難にやらなきゃならない、というところでは、(それに対応するのに)自分のイディオム分析をして、自分の体質にはこういうこだわりがあるんだってことを再発見して、それで
「この社会のここはヤだ、イヤなものはイヤだ」

っていうダマの部分を大切にするのは大事だな、と。

☆國分
社会の中でダマになるってことでいえば、序章が一番変わったよね。
千葉くんが、スキゾってのは、よそ見寄り道、気が散ってしまう、という受動的惰性的なものだと言っていて、でもあの頃(80年代には)こういう視点がなくてね。
あのころは、主体性から主体的に逃げろっていう主意主義的な、意志に強い価値をおく(強迫的な)ものだったね。

「おまえは世界のダマになれ」

みたいなね。
この本(『動きすぎてはいけない』は)、そういう風なダマになれ、とかいう話じゃないんだよね。

あくまで混ぜてるとダマができちゃうっていう話で。

そこでSavoir y faireを出したっていうのはすごく大きなメッセージですね。

(以上)
於:リブロ池袋2013年11月7日(金)


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