龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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『存在の一義性を求めて』山内志朗著 岩波書店を読了。

2016年02月23日 16時57分12秒 | 評論
何度か「つまみ食い」はしていたのだが、今回ようやく最初のページから最後のページまで読み通した。

中世キリスト教哲学の巨人?の一人であるヨハネス・ドゥンス・スコトゥスという人が唱えた「存在の一義性」について実に執拗に「分からなさ」を強調しながら迫っていく本である。まあ、スコラ哲学といえば煩瑣な「神学論争」に終始していたというステレオタイプのイメージがあって、そこに身を投じるのだからこの山内志朗さんという人もまあ物好きなのかなあ、という印象があった。

この人の『普遍論争』(平凡社ライブラリー)を読んで、単なる中世キリスト教神学における「普遍」についての論争の早わかりかと思ったら、見事に書いてあることが分からないのにびっくりたまげたことがある。
よその国よその地域よその時代のよその言語でかかれたテキストを研究するということは、まあそういうことなのだろうけれど、実にリアルに「分からなさ」が繰り返し表現されていて、あきれ果てると同時に感心してしまった。

つまりは、「別のOS」が起動している中で動いているプログラムは、現代の私たちの思考の基盤ではほとんど無意味に見えてしまうけれどそうではない、という当たり前といえば当たり前だが、私たちが無意識に、そして絶望的に踏み越してしまう断絶を、丁寧に書いてくれているはなはだ教育的な書物だった。

その山内志朗が書くスコトゥス論なのだから、分からなさは最初から覚悟の上である。

だが、それにしてもほとんど分からないのには参った。というかむしろいっそ笑いがこみ上げてくる。

早わかり的に存在の一義性とは神と被造物が出会うための枠組みを準備するものだとか言おうとしても、山内ロック(鍵)がかかっていてとうてい早わかりをつぶやくことができない。

でも、神様と被造物(人間)がアナロジー的に関係づけられるのではなく、神を直接「愛」するということが人間に可能なのか、という「感じ」 の問いがそこにあるとするなら、5%程度しか理解できていないとしても、興味は持ち続けていたいものだと思う。

私は

スピノザ←ドゥルーズ←國分功一郎

という「視角」でしか読めないから、ほんのたまに「ふーん」と思うだけなのだが、それでもおもしろい。スピノザの『エチカ』の上巻を読むためには、基本的な教養として中世キリスト教哲学を読んでおくことは必要でもあり、興味深いことでもあるわけだし。

一度読んだ

八木雄二の『中世哲学への招待』

を読み直したら、忘れないうちに

『「誤読」の哲学』山内志朗 青土社

を平らげておきたい。

まあ、山内志朗節が全開なんですけどね、『普遍論争』以上に。
これ、たぶん著者の性格ですかね。もちろん現代日本で西洋中世のキリスト教哲学なんていうものに手を染めるというだけでそりゃまあスゴいことなわけですが。

まるで大江健三郎の長編を1冊読んだような充実感がありました(笑)。

誰にお勧めしたらいいのか皆目検討がつかないけれど、それでもかなりのおすすめです。

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