本文は、科学的な部分を除いて超スピードで流し読みをしたことがあったのだが、今回、訳者でもあり、ホッブズの専門家でもある渡部秀和氏に
「訳者注解」
を読め!
と直接厳命厳命さらた(笑)ので、それを読みはじめた。
これは、メチャメチャ面白い!
このなんというか、即物的というか唯物的というか、17世紀においてキリスト教神学から解き放たれたリアルな自然像や人間像を渇望している、とでもいうか、時代の息吹を感じずにはいられない。
同じ時代というだけでは足りない。
前にもちょっと触れたが、スピノザの政治論の基本は、明らかにホッブズに多くを負っているのではないかなあ、と分かる。
上野修氏が指摘しているようなホッブズとスピノザの「自然権」とかについての違い、国家における「権力」の「発生」する現場とそのメカニズムの違いについては、これからゆっくり勉強していくんですけど、17世紀の哲学書はとにかく「読める」のです。
(國分功一郎先生に、ホッブズとスピノザの関係についてお尋ねしたら、「それはもう少しあとでね」と言われました。)
まあ、普通に勉強するならロックとかルソーとかって流れになるんだろうけれど、そういうのはあんまり興味の中心ではない(お勉強としては必要なんだろうけれど)。
ルソーについては東浩紀の『一般意志2.0』でちょっと出てきましたから、少しだけ勉強しましたが。
神様から解き放たれた17世紀をもう少し、読んで行きたいのだ。
ホッブズの神様の説明とか、面白いですよ。
盲目の人が、炎について知らなくても暖かさがわかるようなものだ
みたいなことを言ってます。まあ、一応第一動者(根本原因?)とかいろいろ言ってるけど、そんなものはどうせ分からん、と。
だから、みたいなね。
訳者注解にもあるように、とっても唯物的なあられもない捉え方をしています。
この「あられもない」感じってとっても気持ちがよくて、ホッブズを読んでいるとそこが奇妙に爽快になる。
訳がいいのかな。
ただ、「恐怖」が最も本質的な感情だとか、人がどうやって「集う」のか?また統一的な権力がどうやって生じるのか?
については、こちらの実感と直ちには一致しないものもあるので、この辺りは注意深く読む必要あり、かも。
スピノザを脇に並べて考えろってことになるのでしょう、私にとっての課題はね。
「訳者注解」
を読め!
と直接厳命厳命さらた(笑)ので、それを読みはじめた。
これは、メチャメチャ面白い!
このなんというか、即物的というか唯物的というか、17世紀においてキリスト教神学から解き放たれたリアルな自然像や人間像を渇望している、とでもいうか、時代の息吹を感じずにはいられない。
同じ時代というだけでは足りない。
前にもちょっと触れたが、スピノザの政治論の基本は、明らかにホッブズに多くを負っているのではないかなあ、と分かる。
上野修氏が指摘しているようなホッブズとスピノザの「自然権」とかについての違い、国家における「権力」の「発生」する現場とそのメカニズムの違いについては、これからゆっくり勉強していくんですけど、17世紀の哲学書はとにかく「読める」のです。
(國分功一郎先生に、ホッブズとスピノザの関係についてお尋ねしたら、「それはもう少しあとでね」と言われました。)
まあ、普通に勉強するならロックとかルソーとかって流れになるんだろうけれど、そういうのはあんまり興味の中心ではない(お勉強としては必要なんだろうけれど)。
ルソーについては東浩紀の『一般意志2.0』でちょっと出てきましたから、少しだけ勉強しましたが。
神様から解き放たれた17世紀をもう少し、読んで行きたいのだ。
ホッブズの神様の説明とか、面白いですよ。
盲目の人が、炎について知らなくても暖かさがわかるようなものだ
みたいなことを言ってます。まあ、一応第一動者(根本原因?)とかいろいろ言ってるけど、そんなものはどうせ分からん、と。
だから、みたいなね。
訳者注解にもあるように、とっても唯物的なあられもない捉え方をしています。
この「あられもない」感じってとっても気持ちがよくて、ホッブズを読んでいるとそこが奇妙に爽快になる。
訳がいいのかな。
ただ、「恐怖」が最も本質的な感情だとか、人がどうやって「集う」のか?また統一的な権力がどうやって生じるのか?
については、こちらの実感と直ちには一致しないものもあるので、この辺りは注意深く読む必要あり、かも。
スピノザを脇に並べて考えろってことになるのでしょう、私にとっての課題はね。