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龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCの応援、ソロキャンプ、それに読書、そしてコペンな日々をメモしています。

ユニクロの「限定正社員」とIKEAのパート全員無期雇用

2014年04月16日 23時20分43秒 | 大震災の中で
とにかく、雇い止めを前提にした非正規雇用ばかりでは生活の展望が全く持てない。

そういう意味で、IKEAの、パートの全員無期雇用と、ユニクロの限定正社員の動きは注目していきたい。

非正規雇用の改善につながる可能性もある、という意見と同時に、場合によっては限定的縛り付けに利用されて、最後に放り出される危険も孕むとの指摘も。

結局は運用次第、ということだろうが、将来に向かってある程度の「計算」が立つかどうかは、(無論程度問題だが)給料の多寡以上に重要だ。少なくてもその一点では歓迎しつつ様子を注視したい。


「震災を語る本当の言葉を捜して」

2014年04月15日 10時21分04秒 | 大震災の中で
今、福島県を代表する「語り手」の中の2人、開沼博と和合亮一が、この(福島の)震災を語る言葉について考えていくトークが4/14からJFNで始まった。

http://www.jfn.jp/News/view/place_thu/11733

非常に興味深い。

私自身、 誰に頼まれたわけでも期待されたわけでもないのに、大震災と原発事故を契機として福島の中に住む住民として、発信を続けていきたいと思うようになった。

それは震災から一年半ぐらい経ってからのことだ。

震災直後は、語る言葉を持たなかった。
語ることの困難とかいったこじゃれたことをかんがえる隙間もなかった、ということかもしれない。

メモは残そう、と思っていたが、それは単なる忘備録程度の意味だったと思う。

だって、社会的な意味付けを自分の語りに背負わせるなんてことは考えられるはずもないわけで、震災前も震災以後も、私たちは与えられた環境条件を生きていく外はないわけだし。

ただ、それでも考えるようになったことはある。

日常生活をしていくなかで、あたかも放射性物質が私たちの身近な山や林・森などに蓄積されて寄り添いつつ存在しているのと同じように、私たちの日常生活の中に、ある種の「自覚」が生まれてしまっていて、その「自覚」と共に生きていくことになるのだな、という予感というか、「自覚」を「自覚」する、という感覚と共に生きるようになった、ということを考える。

べつにそんなことを考えてみてもしょうがないのかもしれないけれど。

人は、環境に対する根底的な信頼を損なうと、ある種の「裂け目」を感じて生きていくことになる、ととりあえずは言ってもいいのかもしれないが、そういう言い方を前提にしてしまうと、この二人の「語り手」の言葉のような場所にたってしまうような気がして、それはチョット、とも思う。

原発という産業に「依存」しているのは震災以前も以後も変わらない、ともいえる。過疎の問題も、地方の雇用の課題も、事故以前から存在していて、事件以後に「顕在化」しただけ、とも言ってみることだってできる。

個人的な感覚で言うと、声高に言えば顰蹙を買うのを承知でいうなら、矛盾を抱えるというよりもむしろ、世界の前提であった「底」が抜けてしまったような感覚が、この大震災と原発事故には伴っているような気がしてしまうのだ。

「人為」の底が抜けて、その結果として立ち現れる「自然」と向き合わされてしまった感じ、とでもいおうか。それはいわゆる
人間/自然
という対立項としての自然ではなく、人間の営みがある種の限界を見せたその挙句に現れてしまった不可視の自然とでも言うべきもの、だろうか。

まあ、そんなものは「不可視」なのだから、所詮レトリックに過ぎない、とも言える。


とはいえ、仮に「環境とはそこで生活をしていく私たちの「可能性条件」を支えるものである」、とするならば、大震災と原発事故は、私たちが日常生活を営んできたその「可能性条件」を根底から変えてしまった。

「語り得ないもの/語り得ないもの」

という二分法には収まらない、何か得体の知れないものと向き合わされてしまった、あるいはなにかよく分からない領域とすれ違ったような気がする体験、とでも言えばいいだろうか。

ただし、それは単に震災が究極の「非常時」であり「未曽有の巨大な体験だった」ということではない。

私たちの体験の多様さは、常に変わることがない。災害の中であっても日常の中であっても、私たちの体験は常に意識されるものよりずっと多様であり、豊かでもある。

私たちはいつも、その多様な環境の中で小さな眼鏡で世界を覗き、かぎられた範囲の合理性に則って思考し、語りあっている。

得体の知れないものとは、その意識された範囲内で思考するその仕方そのものが傷を負ってしまった感じ、でもあるのかもしれない。

個人的な体験としては、忘れていくこと、語らないことも選択肢のひとつではあるのかもしれない、とも思う。黙っていられるのなら、忘却できるのなら、それが良く生きることにつながるのなら、忘却する力もあながち捨てたものではないとさえ思う。

だが、どこかでその「人為の裂け目から顔を覗かせた自然」と出会ってしまった以上、そのことをなしにして何かを考えることはもう考えられなくなってしまった。

どこかで?

もちろんとりあえずは福島で出会ったにはちがいない。
だが、それは福島という檻に閉じ込めておける種類のものでもないだろうと感じる。

いささか逆説めくけれど、ことばが「開かれてしまった」といってもいいのかもしれない。


この二人が「語りだす」ことはだから、私にとっても非常に興味深いのだ。

一方は詩=文学というところから、他方は社会学というところから出かけてきて、この福島でフィールドワークをしながらことばを捜していってくれるとしたら、おそらく彼らの意図を裏切る形で「それ」と出会った痕跡を共有しできるかもしれない、と思うから。

彼ら自身の専門の仕事の貴重さとは別の可能性が、これからみえてくるかもしない。そういうことを期待している。

まあ、もしかすると、おじいちゃん予備軍で(も)ある私の思考には、宗教的な香りがどうしても漂ってきてしまう、ということだって考えられるんだけどね(笑)







『精神看護』に連載している國分功一郎氏の「中動態の世界」(1)(2)が面白い!

2014年04月10日 01時28分08秒 | 大震災の中で
『精神看護』という業界専門誌に連載している國分功一郎氏の、

「中動態の世界」が面白い。

第1回は2014年1月号、第2回は2014年3月号に掲載されています。


昔インド=ヨーロッパ言語には中動態という文法的カテゴリーがあったのに、それがなぜ「消えてしまった」のか。能動/受動というカテゴリーは少しも普遍的ではなかったのだ……

ってところから説き起こしていく。

ターゲットの一つは「意志」の見直しだ。

意志は少しも行為の源泉ではないむしろ、行為の準備が整った後で意志は立ち上げられているという最近の脳科学研究を踏まえながら、文法問題から、思考の可能性条件をさぐりつつ、

「人が何ごとかをなす」とはどういうことなのか、を丁寧に解き明かしてくれる。

どこまでも思考の線が伸び、かつ広がり、深まっていく心地よさを、ぜひ味わってみてほしい。

自身でも認めているように、國分氏は大の文法好きだ。
この研究のためにギリシャ語を習い始めた、と去年漏れ聞いた。

この文法問題から世界の可能な「条件」を示していく思考の歩みは、私たちを見慣れた風景から、少しずつ別の「世界」にずらしつつ誘ってくれる。この書き手と同時代を生きることができる悦びを、よろしかったら、ぜひ。

ちなみに、以前その文章を読むことが私にとって無上に楽しかった書き手が、かつての緊張感を失った語りを漏らしているのを読んで、切ない気持ちになった。

浅田彰と蓮實重彦である。
浅田彰はSPA!で福田和也氏と対談していた。
蓮實重彦は、文藝で千葉雅也氏と対談している。
どちらも、かつて(35年前)貪るようにその文章を読んだ書き手だった。

詳しいことはまた後日ここに書くけれど、二人には、昨年11月に表象文化学会で行われた(表象8号に掲載予定?)國分×千葉の対話に比して、全く緊張感もなければ、共に時代を生きる覚悟も感じられない。

まあ、浅田彰も蓮實重彦も、彼ら自身にとってはそれでいいのかもしれない。
ただ、私は、私たちはもう少しこの世界で思考をつづけて行かねばならない。たとえ微力・無力ではあっても、ね。

私は國分功一郎氏のこの「中動態の世界」に、つよい「教育性」を感じている。
それは『ドゥルーズの哲学原理』でも感じたことだし、『スピノザの方法』でも感じたことだ。
「教育性」というのが、雑駁な感想だということは分かっている。
今はメモ書きとして書き留めることしかできないが、ここのところはもう少し自分で思考しながら詰めて行かなければならない。

「教育性」ということばで考えて見たいのはたとえば
精神看護2014年1月号p82の

「本稿はむしろ、様々な分野が既に明らかにしていたことの総合のようなものである。だから、「そんなことは分かっている」と思われる論点も多々あろう。だが、そのような総合が
試みられなかったが故に、ある一つの世界が垣間見られつつも、像を結ばなかったのである。その世界は失われた世界ではないし、未知の世界でもない。ある意味では身近であるが、しかし、手をかざしていつもの日の光を遮るか、別の光を当ててみなければ見えてこない、そんな世界である。」

のような身振りである。
スピノザの研究者である國分先生の姿勢が垣間見える、ともいえるかも知れない。
それを「教育性」というのはおかしな話だろうか。

まあ、その辺りをもう少し、ゆっくり考えていきたいのです。





Broachのブログ終了に伴い、gooにブログを移設しました。

2014年04月05日 23時12分19秒 | 大震災の中で
一部移植できなかったものもあるようですが、まあ仕方がありません。

2ヶ月ほどブログ更新をしなかったので、ほとんど一から書いていくのに等しいのでしょう。

いろいろ事情があって滞っていましたが、こちらでまた始めます。
どうぞよろしくお願いします。

フランツ・ノイマンの『ヒビモス』を読み出した。面白い。そして恐ろしい。

2014年02月02日 00時38分38秒 | 大震災の中で
 今フランツ・ノイマンという人の書いた『ビヒモス』という本を読んでいる。
「師匠」の國分先生がFBで紹介していた本。
 といっても序論を終えてようやく第1編の第1章にさしかかったところ。
 これがすこぶる面白い。
 表紙カバーには、「ビヒモスは旧約聖書の中で、恐怖の支配を行う怪物の名」、とある。
 ビヒモスは大地を、リヴァイアサンは海洋を支配し、世界の終末の間近に出現するという。ノイマンという人は、ワイマール体制下のベルリンで弁護士をしていた人。ナチ政権成立と同時にアメリカに亡命し、1944年にこの本を出版(増補版。初版は1942年)した。この人はかつて社会民主党員で、かつ著名な法学者ジンツハイマーという人の助手だったそうで、ナチが成立する前のドイツのオリジナルな内部事情に精通している理論的な書き手として「残る」と、出版当時当時から言われていたらしい。

 このワイマール体制が崩壊して全体主義独裁に追い込まれていった様子を冷静かつ論理的に書いていく文体がきわめてクリアなのに驚く。
 私たちが直面しているのは、萱野稔人センセが言うように(1/28日経ビジネスオンライン参照)、冷戦後の中・韓・日本・ロシア・アメリカ諸国の東アジアをめぐっての問題だ。

週刊読書人1/31の論潮でも中島一夫氏がそこを指摘している。

だから、当然のことだけれど、単純にワイマール体制下から起こってきた全体主義独裁と重ねることはできない。

しかしたとえば、

「プラトンやアリストテレス、トマス・アクィナスやパドヴァのマルシリウス、ホッブズやルソー、カントやヘーゲル、などを読むときは、われわれは、彼らの教説が、社会・政治的書現実にぴったり一致している点にはもちろん、彼らの思想の内的な美しさ、すなわちその論旨の一貫性や高雅さにも魅了される。哲学的分析と社会学的分析が手を携えて並行して行われているからである。国民社会主義(ナチスのことです:foxydog注)のイデオロギーには内的な美しさがまったく欠如している。その現在活躍している著作かの文章はまったくひどいもので、その構成は混乱し論旨の一貫性が全くない。どの発言も目前の情勢から出たものであり、情勢が変化すれば直ちにそれは放棄される」P40

なんてところを読むと、ああ、この冷戦後の世界でなおも経済成長に頼ろうとする困難な課題をかかえて道を進もうとして「答え」を求める私たちの「今」と、他人のそら似以上の共鳴があるなあ、と感じざるを得ない。

情勢に翻弄されている自分をひしひしと感じます、最近特に……sigh……。

あるいは、
ワイマール体制下で、議会が空洞化していく様子が、序論では詳細に当時の政党や政治家の動きを踏まえてリアルに描かれている。

そしてその議会軽視、議会の空洞化というポイントは、2014年2月1日現在の日本の政治の課題と重なってくる。

たとえば昨日大阪市長(橋下徹氏)が議会の反対を受けて出直し市長選をやる、と宣言して、党内の人たちさえびびびびっくりになっている様子。
あるいは国政においても「ねじれ解消」をマスコミも政治家も声高に叫んだ結果「ねじれ解消」がなされたわけだけれど、それは「決めて前に進める政治」というよりは、単なる「熟議の放棄」になっているのではないか、と疑問を抱く現実。

この『ビヒモス』によって分析されているワイマール体制の崩壊の分析には、「今」日本にいても学ぶべき事がたくさんある、そう感じる。

もちろん、私たちは21世紀固有のグローバリゼーションを前提とした冷戦後の課題を生きているのであって、いわゆる誰かがサヨクだったりだれかがウヨクだったり、誰かが「ファシスト」だったりするとかいうラベリングで住むほど簡単なわけではない。

ちょうど90年代に、CDを買った人以外にはその曲を知らないのに、ミリオンセラーが頻発した、という現象があったように記憶している。
それまでは国民的歌手の歌を国民全体が聞いているという前提の下に私たちは流行歌を享受していたのに、どんどん「みんな」が単なる100万枚CDを買った人に縮減していくのを経験してきた。

前回の衆議院選挙で大勝した自民党が、実は得票率では前回の衆議院選とたいして変わりがない、という分析も聞く。
日本という全体の顔がつかめなくなっている中で、「日本」は以前よりも息苦しいほどの縛りを私たちに求めるようになってきている。

一つには、冷戦後、日本もついに「国家」という暴力装置の存在をスルーしては思考を進めることができなくなったということなのだろうが、それにしてもセシウムまみれの愛郷精神だけでは生きていけないし、まさかいまさらグローバルな人材とやらに自分がなろうという気にもなれない。

東西冷戦後→パックス・アメリカーナ以後の世界秩序を、私たちはまだ安定したものとして手にしていない。

その冷戦後のグローバリゼーションを前提とした国家戦略をどう描くか。

その中で利用できる「反日」が中国と韓国によって使われているのだとしたら、それは単なる対日カードでもなければ、単に「反日」で国内政治を有利に展開しようとするドメスティックな動機のみでもない、ということだろう。

だから、それを単なる中国・韓国の「国内問題」だとして、日本の国内の「問題」を乗り越えようとする人たちの言説には、そういう意味で簡単には賛成できないんだよね。

本質的には中国国内の朝鮮民族の人数を考えると、中韓問題の方が、対日問題よりも深刻になるだろう、と萱野氏はいう。また、中国は北朝鮮のコントロールで利用しようとしていた政治家が粛正されてびびびびっくりしている、とも。

東アジアのバランスは、ことほどさように一筋縄ではいかない話なのだ。
では、日本はどうすればいいのか。

だからこそ「靖国参拝」は高すぎるコストだ、と萱野稔人先生は見ている。相変わらず鋭い指摘だ。

さて、また『ビヒモス』に戻ります。

アーレントももうちょっと読まなきゃならないし、ウィトゲンシュタインの『論考』読書会も近いし、それよりなによりラテン語はどうした?!という2月のはじめのドサクサでした。

そういえば最近、読み応えのある小説を読んでいないなあ。

『「論理哲学論考」を読む』を読む、というイベント

2014年01月28日 21時41分54秒 | 大震災の中で
内輪で

『「論理哲学論考」を読む』を読む

というイベントをやることになった。
誰がおもしろいと思うのか分からないようなイベントだが、個人的にはたいそう楽しみだ。
さらに面白いことに、私が声を掛けたのではなくなんと誘われたのだからびっくりする。

ウィトゲンシュタインの、しかも後期ならいざしらず、本人も否定している前期の
「テキストを読むテキスト」
である。世の中にはモノ好きがいるものだ(笑)

この本には、誰もがどこかで聴いたことのあるような「殺し文句」というか「決めぜりふ」が満載だ。


「主体は世界に属さない。それは世界の限界である」
「およそ考えられうることはすべて明晰に考えられうる」
「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」
「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」

とか言われると、若い頃は「ほ~」とかなったものだ。
が、年をとってくるとそう感心ばかりもしていられない。

「語りえない」ものがあるのはわかる。
そしてそれは定義上というか枠組み上「語りえない」ことは同意すするとしても、そういうものがそこに「ある」ということは、天才的な頭脳の持ち主であったであろう自閉症スペクトラムの若きウィトゲンシュタインに言われなくても、肌で感じるようになってくる。
ウィトゲンシュタインが必死に小さな器を磨ききって、そこに映るものを「語りえぬが示されうるもの」として指し示したことは、天才ではなくてもよく分かる。いや、むしろなんとなく惹かれるという意味では、大変魅力的ですらある。

だがそれと同時に、ウィトゲンシュタインがかっちり作ろうとした彼自身の「哲学」の器は、正直小さすぎて食べたいモノが盛りつけられない感じもする。

また、本人が後年うまく行かなかった、としている著作の中には、完成したとされる書物よりもその当人の核となる「思考」がそのまま埋め込まれていたりもするし、興味は尽きない。


ウィトゲンシュタインがどんな形でそれを成し遂げたのか、野矢茂樹先生の導きでゆっくり味わってみたい。

永井均先生のジワジワ攻めてくる本格的「独我論」の息苦しさ(タイトでこれも興味深いんですがね)とは違った楽しい読みができそうである。


とにかく、私にとってこの本は、子供の頃の哲学の香りを与えてくれる、きわめて「懐かしい風景」なのだ。



このBroachブログが閉鎖?

2014年01月28日 20時34分42秒 | 大震災の中で
久しぶりにこのブログ管理画面を出したら、冒頭部分に「重要なお知らせ」の文字が。クリックすると、なんと

この度、「ぷらら」ではお客さま向けオプションサービスのひとつである、Broach(ブログ)サービスの提供を終了させていただくことになりました。

だって!

ビビビびっくりですがな。
6月には閉鎖になるらしい……。

最初、停止されるのは何か別のサービスかと思いましたよ。

ところが、


「弊社では、本サービスを継続して提供できるよう、検討を重ねてまいりましたが、インターネット上の様々なサービスの急速な発展によりお客さまの利用機会も大幅に減少していることから終了させていただきます」

という文面をみるとどうもいわゆるホームページにブログを書き込むという行為は、SNSのサービスに席巻されてその場を失った、ということらしい。

ネット上のデータは、ずっと残るってわけではないのですねぇ。
プロパイダのサービスだから、まさか終わるとは思っていなかったのに。


やはり何らかの意味で本当に伝えたい・残したい情報については書籍化を進めないといかん、と実感。

電子データでアップしても、いつまで残っているという保証はないんだなあ。


エチカ福島第3回セミナー 佐藤和夫先生講演メモ

2013年12月27日 14時30分33秒 | 大震災の中で



福島第3回セミナー 佐藤和夫先生講演メモをアップしました。

http://kits
uneinu.jugem.jp/?eid=533

メチャメチャ面白かったんですが、特にアーレントを参照しつつ、
propertyとwealthの違いから、近代を考え直す、という視点がすばらしい。
エネルギッシュで、自由で、「肯定感」に満ちた佐藤和夫先生のスタンスからその言葉がでるから、なお一層説得力が増す。
ストイックな高橋哲哉先生との対照性も
おふたりの講義を輝かせたのかもしれません。
忘れられない一日になりました。



「福島の食と農の話をしよう」國分功一郎×石井秀樹

2013年12月24日 19時31分57秒 | 大震災の中で
2014年1月11日(土)14:00~ 郡山市中央図書館3F視聴覚ホールにて

イメージ.福島Vol.11「福島の食と農の話をしよう」が開催されます(入場無料)

福島の食と農をテーマとした、ドキュメンタリー映画の上映とトークイベント。

映画は『天に栄える村』と『哲学者・國分功一郎が福島の食の生産者に聞く』
トークは

國分功一郎さん(哲学者・高崎経済大学准教授・報道ステーションコメンテーター)
と石井秀樹さん(福島大学うつくしまふくしま未来支援センター・農業復興支援担当 特任准教授)
のお二人です。
よろしかったらぜひおいでください。






エチカ福島第3回セミナー 高橋哲哉先生講演のメモ

2013年12月23日 14時21分55秒 | 大震災の中で
エチカ福島の第3回セミナーを、12月21日(土)、桜の聖母短期大学で実施した。

テーマは
「原発事故は日本社会をかえたか」

副題を
社会を変えること/社会が変わることについての哲学的探究

とし、高橋哲哉先生(東京大学教授)、佐藤和夫先生(千葉第名誉教授)をお迎えして実施した。

総勢100人近くの人の参加をいただいたことがなによりが嬉しかった。
震災から三年が経とうとしているいまの福島で、エチカ福島という「場所」が、機能する可能性がある、と感じられたからだ。

講演・対談の概要はいずれまとめていくが、私たち福島に住むという属性以外に共通点を持たないモノたちが、なおもこのエチカ福島という場所で
「共に考え続けていく」
ことをつづけたい、と勇気づけられた。
取り急ぎそのことをかきとめておきたい。


まずは高橋哲哉先生の講演メモを忘れないうちに書き留めたのでupした。
よろしかったら一読を。

エチカ福島第3回セミナー 高橋哲哉先生講演部分のメモ

http://blog.foxydog.pepper.jp/?eid=980456

12月21日(土)エチカ福島第3回セミナー開催のお知らせ

2013年12月19日 23時28分00秒 | 大震災の中で
時:2013年12月21日(土13時~
場所:桜の聖母短期大学五百番教室
内容:「原発事故は日本社会を変えたか?-社会を変える/社会が変わることについての哲学的探究-」
講師:佐藤和夫先生(千葉大名誉教授)/高橋哲哉先生(東京大学教授)
資料代:500円
駐車場有り・予約不要・定員150人

主催:エチカ福島

講演・対談・会場との討論の三部にわたり、じっくり考える機会を持つことができると思います。会場との討論にもたっぷり時間をとっています。

ぜひご参加ください。



2013年12月21日 エチカ福島第3回セミナーの開催について

2013年12月19日 23時15分43秒 | 大震災の中で
いよいよ今週末は、エチカ福島の第3回セミナーが開催されます。

「エチカ福島第3回セミナー」
<原発事故は日本社会を変えたか?-社会を変える・社会が変わることについての哲学的探究->
日時:2013年12月21日(土)午後1時~午後5時まで(予約不要)
場所:桜の聖母短期大学5F500番教室(駐車場あり)
資料代:500円
講師:高橋哲哉先生・佐藤和夫先生
お二人の講演に加えて対論、そして会場との討論もたっぷり時間をとってあります。
エキサイティングなひとときを過ごせることと思います。
よろしかったらぜひおいでください。



國分ゼミのキルケゴールワークショップのこと(その2)

2013年11月30日 08時59分52秒 | 大震災の中で
倫理について
ぜんぜん脈絡は分からないのだけれど、忘れてしまうからメモをしておく。

1964年パリで行われたキルケゴールのシンポジウムに招待されたハイデガーは、出席する代わりに
『哲学の終わりと思考の使命』
という文章を送っただけだった。
しかもその中にキルケゴールへの言及はいっさいない。ではハイデガーは何を「語っていない」のか?
というのが串田先生の問題提起。
その『使命』のポイントは2点。
1点目は、
「哲学は現在どのようにしてその終わりへとさしかかっているのか」
2点目は
「哲学の終わりに際し、なおいかなる使命が思考に残されているのか」

1点目については形而上学は「基礎づけつつ表象するという仕方で存在者としての存在者を思考する」のだが、今や存在者の各領域(自然、歴史、法、芸術)の存在論の提示を、固有の課題として引き受けているのは諸科学」だ、という。
2点目については、「明け開き(Lichtung)」、「非隠匿性こそが真理の可能性を授ける」のだ、という。

☆foxydog注 このあたりからハイデガーはよくわからなくなる。レトリカルになる。☆
そして、隠匿性がむしろ明け開きの本質にある、といいだす!
だから、単に光を当てると付随物として影ができるのではない。「明け開きは単に現前性の明け開きであるだけでなく、自らを隠す現前性の明け開きであり、自らを隠す隠匿の明け開きでもあることになる」

☆foxydog注 なんのこっちゃ、である。『放下』という科学技術論、原子力技術の脅威について語った講演でも、後半この手のレトリックが出てくる。単に思考することは思考の逃避であり、そうではなく「熟慮」が必要だ、と。
この「明け開け」は『放下』の「熟慮」に近いものか?☆

以上、『使命』のはなし。
串田先生は、そこにキルケゴールの
『哲学的断片への結びといての非学問的あとがき』で言及されている「真理」を併置する。

キルケゴールは、
客観的に真理を求める場合には、関わり方は問題ではなく、あくまで対象が真理かどうかがポイント。しかし、真理が主体的に問われる場合は、
「主体的内省が個体のかかわり方そのものに向かう。このかかわり方そのものが真理に貫かれていさえすれば、個体は真理に立っている」
といっている。
串田先生の話はそこから二人の芸術論に発展するのだが、そこに対して藤野先生が質問していたことが印象に残った。

発表後、藤野先生は串田先生に、

『使命』において、ハイデガーは終わった学問として自然、歴史、法、芸術、を挙げているが、そこには良さや価値は入っていない。倫理について言及していない。つまりは「語られていない」。ということは、哲学は終わっても倫理は残ると言うことか?
と「お茶目に?」質問されていた。

その質問自体、串田先生と藤野先生の間でどの水準での了解があってやりとりされているのか不明だから、串田先生が
「確かに触れていないですね、ハイデガーはそれを解体している、というか私はそれはむしろスルーしたいと思っている」
と「積極的に」応じておられたことの意味も分からなかったけれど、面白かった。

以下は単なる感想。
神様とか倫理とか、ある意味では
「ありもしない」
ともいえなくはない。
しかし、そういうモノにアクセスしないで、計算な思考を続けることをハイデガーは「思考していない」といっている。これは分かる。だから「明け開け」だの「熟慮」だのいうわけだ。
キルケゴールもまた、キリスト教の教義学とか原罪とかいいながら、
「下から上」への倫理学の再構築、なんぞということを言う。
このあたり、「実存主義」と単純に括っちゃなんだけど、この「間」をめぐる思考の渦巻きは、芸術論を含めて、極めて興味深い。



高崎経済大で、國分ゼミのキルケゴールのワークショップに参加した。

2013年11月29日 21時31分51秒 | 大震災の中で
現代思想の源泉としてのキルケゴール ──生誕200周年記念ワークショップ
http://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/events/2013/11/workshop_kierkegaard/


に参加してきた。
高崎経済大学國分ゼミ主催のキルケゴールワークショップである。
金曜日はお三方の発表だったが、非常に興味深く話をうかがうことができた。

一橋の藤野先生は、2000年に発行されたキルケゴールの伝記的研究の決定版ともいえる本のなかから、いくつかエピソードを拾って素人にも楽しめ、かつおそらく専門家の方にも興味深い基調報告を。

早稲田の串田先生はハイデガーとキルケゴールの「隠匿」をめぐって。
これはハイデガーとキルケゴールって切っても切れない関係だと素人なりに思っていたのに、ハイデガーの方に転換があってキルケゴールに言及しなくなるとか、キルケゴールを単純に参照しているのではなかったとか、しかし非隠匿性=開かれ=真理だとして、でもそれはいわゆる単に光を当てることではなくて、むしろ光を当てることによって隠されてしまうということがあり、むしろハイデガーが示さないところに注目すべき側面があるのではないか、という、難しいけれど楽しいお話。
後半はハイデガーの芸術論から古今和歌集の業平の歌に見える「心の闇」にまで話が及び、とても楽しいシークエンスでした。
三つ目は英米系の倫理学の方面から「良く生きる」をどうかんがえるか、という視点で論じて下さった慶應の長門さん。
反復と瞬間を、時間軸の捉え方、物語的な側面から考え、反復とは出会い直しでもあり、瞬間は決して断片化?計量化可能なものではない、と論じて下さいました。
素人にはとっても腑に落ちるお話で、元気が出ました。
思わずツボがよく分からないのに質問して、困らせてしまいましたが。
遠慮を知らない年寄りだと思って許してもらいましょう(苦笑)
でも、折角来たんだから、何か質問して自分でもその場所に参加した臨場感が欲しいんですよね。
ゼミ員じゃないんだけれど。

明日はさらに7本の発表があります。
國分先生、10本は多くね?とも思うけれど、楽しみです。

大変興味深いのは、キルケゴールの専門家は藤野先生だけで、あとはいわゆるキルケゴール研究者じゃないというところ。
いわゆるプロパーから見たら哲学の専門家ではあっても、キルケゴールに関しては「素人」なのだそうです。
でも、ここ「キルケゴール学会」をしたいわけじゃなくて、
「学会みたいなことをしたかった」
と國分さんは言っていて、それが面白かった。
藤野先生が、
「だから『活気』を感じるんだよね」
と言っておられたのがわかる気がする。
領域横断というのは緊張感や活気があってこそよく回るものだものね。
同じことをやるのが「反復」ではない、ということでもあろうか。

明日がさらに楽しみです。