龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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フランツ・ノイマンの『ヒビモス』を読み出した。面白い。そして恐ろしい。

2014年02月02日 00時38分38秒 | 大震災の中で
 今フランツ・ノイマンという人の書いた『ビヒモス』という本を読んでいる。
「師匠」の國分先生がFBで紹介していた本。
 といっても序論を終えてようやく第1編の第1章にさしかかったところ。
 これがすこぶる面白い。
 表紙カバーには、「ビヒモスは旧約聖書の中で、恐怖の支配を行う怪物の名」、とある。
 ビヒモスは大地を、リヴァイアサンは海洋を支配し、世界の終末の間近に出現するという。ノイマンという人は、ワイマール体制下のベルリンで弁護士をしていた人。ナチ政権成立と同時にアメリカに亡命し、1944年にこの本を出版(増補版。初版は1942年)した。この人はかつて社会民主党員で、かつ著名な法学者ジンツハイマーという人の助手だったそうで、ナチが成立する前のドイツのオリジナルな内部事情に精通している理論的な書き手として「残る」と、出版当時当時から言われていたらしい。

 このワイマール体制が崩壊して全体主義独裁に追い込まれていった様子を冷静かつ論理的に書いていく文体がきわめてクリアなのに驚く。
 私たちが直面しているのは、萱野稔人センセが言うように(1/28日経ビジネスオンライン参照)、冷戦後の中・韓・日本・ロシア・アメリカ諸国の東アジアをめぐっての問題だ。

週刊読書人1/31の論潮でも中島一夫氏がそこを指摘している。

だから、当然のことだけれど、単純にワイマール体制下から起こってきた全体主義独裁と重ねることはできない。

しかしたとえば、

「プラトンやアリストテレス、トマス・アクィナスやパドヴァのマルシリウス、ホッブズやルソー、カントやヘーゲル、などを読むときは、われわれは、彼らの教説が、社会・政治的書現実にぴったり一致している点にはもちろん、彼らの思想の内的な美しさ、すなわちその論旨の一貫性や高雅さにも魅了される。哲学的分析と社会学的分析が手を携えて並行して行われているからである。国民社会主義(ナチスのことです:foxydog注)のイデオロギーには内的な美しさがまったく欠如している。その現在活躍している著作かの文章はまったくひどいもので、その構成は混乱し論旨の一貫性が全くない。どの発言も目前の情勢から出たものであり、情勢が変化すれば直ちにそれは放棄される」P40

なんてところを読むと、ああ、この冷戦後の世界でなおも経済成長に頼ろうとする困難な課題をかかえて道を進もうとして「答え」を求める私たちの「今」と、他人のそら似以上の共鳴があるなあ、と感じざるを得ない。

情勢に翻弄されている自分をひしひしと感じます、最近特に……sigh……。

あるいは、
ワイマール体制下で、議会が空洞化していく様子が、序論では詳細に当時の政党や政治家の動きを踏まえてリアルに描かれている。

そしてその議会軽視、議会の空洞化というポイントは、2014年2月1日現在の日本の政治の課題と重なってくる。

たとえば昨日大阪市長(橋下徹氏)が議会の反対を受けて出直し市長選をやる、と宣言して、党内の人たちさえびびびびっくりになっている様子。
あるいは国政においても「ねじれ解消」をマスコミも政治家も声高に叫んだ結果「ねじれ解消」がなされたわけだけれど、それは「決めて前に進める政治」というよりは、単なる「熟議の放棄」になっているのではないか、と疑問を抱く現実。

この『ビヒモス』によって分析されているワイマール体制の崩壊の分析には、「今」日本にいても学ぶべき事がたくさんある、そう感じる。

もちろん、私たちは21世紀固有のグローバリゼーションを前提とした冷戦後の課題を生きているのであって、いわゆる誰かがサヨクだったりだれかがウヨクだったり、誰かが「ファシスト」だったりするとかいうラベリングで住むほど簡単なわけではない。

ちょうど90年代に、CDを買った人以外にはその曲を知らないのに、ミリオンセラーが頻発した、という現象があったように記憶している。
それまでは国民的歌手の歌を国民全体が聞いているという前提の下に私たちは流行歌を享受していたのに、どんどん「みんな」が単なる100万枚CDを買った人に縮減していくのを経験してきた。

前回の衆議院選挙で大勝した自民党が、実は得票率では前回の衆議院選とたいして変わりがない、という分析も聞く。
日本という全体の顔がつかめなくなっている中で、「日本」は以前よりも息苦しいほどの縛りを私たちに求めるようになってきている。

一つには、冷戦後、日本もついに「国家」という暴力装置の存在をスルーしては思考を進めることができなくなったということなのだろうが、それにしてもセシウムまみれの愛郷精神だけでは生きていけないし、まさかいまさらグローバルな人材とやらに自分がなろうという気にもなれない。

東西冷戦後→パックス・アメリカーナ以後の世界秩序を、私たちはまだ安定したものとして手にしていない。

その冷戦後のグローバリゼーションを前提とした国家戦略をどう描くか。

その中で利用できる「反日」が中国と韓国によって使われているのだとしたら、それは単なる対日カードでもなければ、単に「反日」で国内政治を有利に展開しようとするドメスティックな動機のみでもない、ということだろう。

だから、それを単なる中国・韓国の「国内問題」だとして、日本の国内の「問題」を乗り越えようとする人たちの言説には、そういう意味で簡単には賛成できないんだよね。

本質的には中国国内の朝鮮民族の人数を考えると、中韓問題の方が、対日問題よりも深刻になるだろう、と萱野氏はいう。また、中国は北朝鮮のコントロールで利用しようとしていた政治家が粛正されてびびびびっくりしている、とも。

東アジアのバランスは、ことほどさように一筋縄ではいかない話なのだ。
では、日本はどうすればいいのか。

だからこそ「靖国参拝」は高すぎるコストだ、と萱野稔人先生は見ている。相変わらず鋭い指摘だ。

さて、また『ビヒモス』に戻ります。

アーレントももうちょっと読まなきゃならないし、ウィトゲンシュタインの『論考』読書会も近いし、それよりなによりラテン語はどうした?!という2月のはじめのドサクサでした。

そういえば最近、読み応えのある小説を読んでいないなあ。

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