龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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『「論理哲学論考」を読む』を読む、というイベント

2014年01月28日 21時41分54秒 | 大震災の中で
内輪で

『「論理哲学論考」を読む』を読む

というイベントをやることになった。
誰がおもしろいと思うのか分からないようなイベントだが、個人的にはたいそう楽しみだ。
さらに面白いことに、私が声を掛けたのではなくなんと誘われたのだからびっくりする。

ウィトゲンシュタインの、しかも後期ならいざしらず、本人も否定している前期の
「テキストを読むテキスト」
である。世の中にはモノ好きがいるものだ(笑)

この本には、誰もがどこかで聴いたことのあるような「殺し文句」というか「決めぜりふ」が満載だ。


「主体は世界に属さない。それは世界の限界である」
「およそ考えられうることはすべて明晰に考えられうる」
「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」
「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」

とか言われると、若い頃は「ほ~」とかなったものだ。
が、年をとってくるとそう感心ばかりもしていられない。

「語りえない」ものがあるのはわかる。
そしてそれは定義上というか枠組み上「語りえない」ことは同意すするとしても、そういうものがそこに「ある」ということは、天才的な頭脳の持ち主であったであろう自閉症スペクトラムの若きウィトゲンシュタインに言われなくても、肌で感じるようになってくる。
ウィトゲンシュタインが必死に小さな器を磨ききって、そこに映るものを「語りえぬが示されうるもの」として指し示したことは、天才ではなくてもよく分かる。いや、むしろなんとなく惹かれるという意味では、大変魅力的ですらある。

だがそれと同時に、ウィトゲンシュタインがかっちり作ろうとした彼自身の「哲学」の器は、正直小さすぎて食べたいモノが盛りつけられない感じもする。

また、本人が後年うまく行かなかった、としている著作の中には、完成したとされる書物よりもその当人の核となる「思考」がそのまま埋め込まれていたりもするし、興味は尽きない。


ウィトゲンシュタインがどんな形でそれを成し遂げたのか、野矢茂樹先生の導きでゆっくり味わってみたい。

永井均先生のジワジワ攻めてくる本格的「独我論」の息苦しさ(タイトでこれも興味深いんですがね)とは違った楽しい読みができそうである。


とにかく、私にとってこの本は、子供の頃の哲学の香りを与えてくれる、きわめて「懐かしい風景」なのだ。



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