仮面舞踏に使われる仮面の部屋に案内されました。今回の旅行では残念ながら有名なお祭ツェチュを見ることはできませんでした。このツェチュ祭りで重要な役割を果たすのが仮面舞踏チャムです。
ブータン小・中学校歴史教科書は「ブータンの歴史における仮面舞踏の重要性」という章を設けています。(p167~180)
「***踊りも、国民の統一に大きく寄与した。***チャムの最大の目的は踊りを通じて、人々に宗教の教えを説くことである」
そして「『わたくしたちの歴史におけるチャムの重要性』に話し合いしなさい』という課題を与えています。
伝説によれば7世紀初めチベットを統一したソンツェン・ガンポが659年に作ったお寺とされています。当時チベットで猛威をふるっていた人食い鬼を退治するため人食い鬼の108のツボにお寺を建立したその一つとされています。したがってグル・リンポチェ以前というわけでブータンで最も歴史が古く由緒ある寺とされています。現在の姿になったのは1839年のことです。
ブータンで最も有名な僧院がこのタクツアン僧院です。ブータンに仏教が伝わったのは7世紀ごろとされていますが、定着したのは8世紀のインドのチベット仏教の高僧、ブッダの化身とされているグル・リンポッチェの訪れでした。西暦747年彼は雌虎にまたがり飛来しパロ谷の絶壁で瞑想し悪魔を調伏し国王やその臣下を仏教に改宗させました(以前はボン教)。そこでこの地は「虎の巣」(タクツアン)と呼ばれるようになりました。
この話は神話のようですが、グル・リンポッチェ自身は実在の人物のようです。先代の王妃ドルジェ・ワンモ・ワンチュックはその著「幸福大国ブータン」p36で以下のように述べています。
「現在のパキスタン領内のスワット谷のウッディヤーナ出身で、インド・チベットでは良く知られた高僧です」
もう少し余談噺をしますと、ブータンの小中学校の歴史教科書はこのグル・リンポッチェの登場に始まり、「ブータン人とってのグル・リンポチェの重要性論じなさい」という課題を与えています。
さてこのタクツアン僧院への道は上り下りで6時間ですが、今回は途中の展望台までで8時30分出発、11時50分下山でしたが、終末期後期高齢者にとっては過酷な道のりでした。フルコースは絶対だめですね。
その展望台からの写真です。断崖絶壁にへばりついていますね。
これはお香を焚く香炉の大きいものです、塵焼塔ではありません。私の所有する乏しい参考書には登場しませんのでわたくしが勝手に香塔と名付けました。近くにはツァツァはありました。
くろいぬさんコメント有難うございました。「日本のお寺には哲学がない」とは言い得て妙で、至言ですね。感服しました。同感です。
タクツアン僧院(後記)に登る山道の傍らで見かけた写真です。これは私の推測ですが、21日目のツァツァの奉納の儀式ではないかと思います。
本林靖久氏はこのことについて以下のように述べています。
「ブータンでは遺体や遺骨に対する執着はなく、遺骨を保存し、長く供養する考えをもたないといえよう。しかしながらツァツァの儀礼が行われて以上、ブータン人も遺骨に何らかの意味を与えているようにも思われる。この点については今後の課題としたい」(「ブータンと幸福論」p145)
最近フィリッピンでの遺骨収集のことが話題になったので遺骨に対する日本人の考えについての本林氏の考えをついでに紹介しておきます。
「(日本人は)葬送儀礼においても骨に対する執着が強すぎ、死者の儀礼の行きつくところが、遺骨の処理や保存に囚われすぎではないかと思う」(同上p135)
ついでにも一つ。
「お墓があるのは、仏教国では日本だけである。日本人は仏教と言えば、お墓を連想するほど、仏教にとっては不可欠なもの、仏教の一部だと思い込んで、お墓のない仏教など夢想だにしない。しかし、現在仏教が信奉されているアジアの各地を訪れれば明らかのようにお墓はどこにもない」(今枝由郎著『ブータンから見た日本仏教』p115)
ブータンでは死後遺体は僧侶によって魂が抜かれ(ポアといいます。オーム真理教を思い出しますね)故人の魂は休む間もなく次の生を受けて転生します。(輪廻転生)したがって、遺体はただの物体になり火葬されます。火葬後遺灰は川に流されます。(ヒンドゥー教とここまでは同じ) ただ遺骨の一部が遺され粉々に砕かれ粘土と混ぜあわされ、それを円錐形の鋳型で固めます。数十個から百個くらい作ります。これをツァツァといいます。これを天日干しにして21日目にチョルテン。寺の屋根や壁、または道端に奉納し、その後はそのまま放擲し数年で風化しあとかたもなくなります。
お寺の壁に置かれています。