100倍楽しむ海外旅行  時々国内旅行

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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

「ツアーコースにない所」 マラケシュのユダヤ人居住区1

2024年05月31日 08時04分26秒 | ツアーコースにないところ

モロッコのマラケシュで自由時間があったのでメラー(ユダヤ人居住区)に出かけました。同行の1人が付き合ってくれたのでタクシーで出かけました。タクシーを降りるとき運転手がポン引きガイドを紹介してくれました。lonely planet にはシナゴーグに行くには現地ガイドが必要と書いてあったので好都合でした。現地ガイドが私に”Japanese Jew?”(日系ユダヤ人か?)と尋ねました。多分メラーやシナゴーグを訪ねる日本人は珍しいのでしょう。
 さてシナゴーグに到着したのですが入口には閉まっていて入れません。ごたごたしていると人が出てきて今日は「シャバト」(土曜日でユダヤ教徒の安息日)で見学はできないとのことです。あなたはユダヤ人ですかと尋ねるとそうだとの返事です。そういえば「キッパ」を被っていました。(キッパについては2005年12月7日をご覧ください)あなたと入口の写真を、と頼みましたが、拒否でした。そこでそこを遠くから盗み撮りしたのがこの写真です。狭い路地の左側に少し見える人物が彼です。この写真でも分かるとおりここのメラーは高い塀で囲まれていました。
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「ツアーコースにない所」ビーラー・ホラ(白山)の戦い

2024年05月28日 08時00分24秒 | ツアーコースにないところ

2001年チェコを訪れた時、首都プラハの旧市街にフスの像がある広場でビーラー・ホラ(白山)の戦い(1620年11月)で破れ処刑された27人のプロテスタント貴族の碑銘を探しました。
 1人の自由時間での行動で現地ガイドも、添乗員もいなく(あとで聞くと添乗員も知りませんでした)よくわかりません。近くの高校生らしき集団に尋ねました。知りませんでした。あきらめて引き返そうとした時、引率の先生らしき人が慌てたようにやってきて、「ここです」と教えてくれたのが、冒頭の写真です。27個の十字架の石碑が写真のように埋められていました。
 ビーラー・ホラの戦いは1618年に勃発した30年戦争(1618~1648)の初期に起き、チェコ(当時ボヘミアと呼ばれた)が完全にオーストリアハプスブルグ家の直轄支配に組み込まれることになる事件です。チェコ人はスラブ系の民族で、オーストリア人はドイツ人です。
 ヨーロッパ全体を巻き込みドイツでは人口が30%減少したといわれる30年戦争はこのチェコのプラハから始まりました。1618年プラハの王城でチェコ人のプロテスタント貴族がカトリックの信仰を押し付ける皇帝の代官を窓から突き落とすことから始まりました。(この部屋を見たかったのですが私たちの観光コースに入っていないということで見学できませんでした) 
 前述のようにプロテスタント貴族は敗北しこの十字架石板のあるところで処刑されました。 集合場所がこの近くだったのでこの場に添乗員、同行の人たちを案内して私がコウシャクをタレルということになりました。こういうことをするから私は添乗員から嫌われます。
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「ツアーコースにない所」 ユダヤ人のお墓

2024年05月25日 07時54分24秒 | ツアーコースにないところ

ヨーロッパの小国アンドラ公国にあるこの国で一番古いサンタ・コロマ教会を訪れた時の話です。
教会内部の観光をして、 外に出てキョロキョロしていると、このようなもの(写真)に出会いました。現地ガイドも添乗員からも案内がないので尋ねました。現地ガイドの返事はナチに追われてここに落ち延びてきたユダヤ人女性のお墓という説明でした。詳しく聞きたかったのですが時間がなく残念でした。帰国して何かの本でこの地に落ち延びたユダヤ人の話を読んだような気がして私の貧弱な書棚を探しても見つかりません。図書館から借りた本からかと思い幾冊かの本を再度借り出してもよくわかりませんでした。ご承知の方がいれば教えてください。「地球の歩き方」にはこの教会の紹介はありません。Lonely planet にはこの教会の紹介はあるのですが、このお墓の話はありません。ネットをいろいろ検索してもこのお墓の話はありませんでした。
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「ツアーコースにない所」 サヴォナローラ追悼碑

2024年05月22日 07時53分23秒 | ツアーコースにないところ

1996年5月フィレンツェのシニョーリア広場で私はサヴォナローラが火刑された場所を探していました。なかなか見つかりません。
 団体旅行ですから時間制限があります。慌てて現地ガイドをつかまえてその場所を聞きました。その円形の石版は雑踏の観光客の足元にありました。
 ドメニコ派の修道士であったサヴォナローラは15世紀後半フィレンツェの享楽と堕落を非難し、その中心であったロレンツォ・ディ・メディチや時の教皇を罵倒しました。 そのため1498年この広場で彼は火刑に処せられました。この有様をボッティチェリ、マキャベリー、ミケランジェロが見ていました。
 フィレンツェへ旅行の機会があればイタリア・ルネサンスの別の一面に想いをめぐらし、観光客の足元で今では殆ど振り返られることもないこの石版をご覧になることをお勧めします。 
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「ツアーコースにない所」キューバでのシナゴーグ

2024年05月19日 07時53分43秒 | ツアーコースにないところ

 ガイドブックlonely  planet(p79)を見てみるとシナゴーグがハバナにあるということなのでツアーコンダクター(添乗員)の東山さんに頼んで現地会社と交渉してもらい、行くことになりました。Lonely planet によればキューバには約1500人のユダヤ人がいてシナゴーグは3つあり、ハバナのシナゴーグが一番大きく図書館などもあるという記載もされていました。そしてフレンドリーなスタッフがキューバでのユダヤ人の興味ある歴史を説明してくれると書かれおり非常に楽しみにしていました。ところが直前になってなぜか訪問が中止になりました。
 旅行4日目サンティアゴ・デ・クーパでこの地にもシナゴーグがあるということで訪問しました。冒頭写真は入り口のプレートで非常に見難いですが5689-5760という数字は聖書の神の天地創造の日(西暦紀元前3761年)を1年とするユダヤ暦の年号です。
 内部の祭壇です。残念ながらこの日は土曜日でユダヤ人にとっては安息日(シャバト)にあたり一切の労働は禁止されています。したがってこの地のユダ人の歴史などの説明を期待していましたが駄目でした。教会のカギを開けてくれたのもユダヤ人ではない近所の人でした。
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「ツアーコースにない所」モラエスの生家

2024年05月16日 07時53分06秒 | ツアーコースにないところ

 ツアー客もめったに訪れないというポルトガルのリスボンにあるモラエスの生家を自由時間に訪れました。 モラエス(1854~1929)はポルトガルの海軍士官、外交官で小泉八雲と共に日本文化をヨーロッパに紹介した人として知られています。1898年神戸総領事になり日本人と結婚しそのまま日本にとどまり徳島で亡くなります。彼の総領事中にポルトガル植民地東チモールの反乱鎮圧に日本から鉄砲を調達したことがありました。歴史の皮肉ですね。100年前にポルトガルから鉄砲を学んだ日本がその鉄砲をポルトガルに輸出するとは。
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「ツアーコースにない所」プラハのシナゴーグ

2024年05月13日 07時53分55秒 | ツアーコースにないところ

 2004年、ウズベキスタンのブハラにユダヤ教の教会シナゴーグあるというガイドブック・ロンリープラネットの指摘で自由時間を利用して出かけて見ました。ユダヤ人は12,3世紀からブハラに住むようになりヘブライ語を話さないディアスポラ(離散民)ということです。根深い制度的な差別を受けながらブハラでは商業面で重要な役割を果たしてきました。ソビエト連邦崩壊後、イスラエル、アメリカ合州国に移住する人たちが急速に増えブハラの人口の7%を占めていたものが現在2%以下になっています。そして100年前までは七つあったシナゴーグは1920年以降一つになりました。(以上ロンリープラネットCentral Asia p60,314による)
 人口数の実際は2%(5000人)よりももっと減少して600人になっているとはこのシナゴーグでの話です。2007年NHKで「新シルクロード」が放映されました。それによれば150人まで減少してとのことです。現在は0? 又、この放送ではアメリカ[百山1]合州国元国務長官オルブライトがここを訪れたと紹介されていました。彼女はカトリック教徒でユダヤ系アメリカ人です。
 訪れてまず最初にびっくりしたことは受付の女性がイスラーム教徒だったことです。ついでに余談話ですが、キリストのお墓のあるとされている聖墳墓教会の出入り口の管理はキリスト教徒の各宗派の争いにならないようにイスラーム教徒の人にゆだねられています
ここは学校でもありました。現在ラビの資格を持つ人がいなくなり代理の人が旧約聖書を教えていました。生徒数は10数人でした。現在生徒の総数は160人だそうです。写真はナゴーグで勉強している生徒さんたちです。ユダヤ帽子(キッパ)をかぶって勉強の邪魔をしているジジイは私です。
ここを出たところでもう一つシナゴーグがあるので案内するという人(イスラーム教徒)が現れました。そこで時間を気にしながらいくことにしました。
 そこにもう一人「この地域のユダヤ人に関する文献に興味がないか」という人物が現れました。時間もなかったので一応断りましたが、あとで考えると少し残念。こちらのシナゴーグのほうが立派でした。イスラエル国旗が飾られていました。したがってロンリープラネットの現在一つというのは間違いのようです。
イランからやってきた(迫害?)という高齢の女性がいました。帰り道同じシナゴーグを訪ねるというイスラエル人に出会いました。 冒頭写真は最初のシナゴーグの祭壇です。


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「ツアーコースにない所」燻製ビール

2024年05月10日 07時52分26秒 | ツアーコースにないところ

 ドイツのバンベルクでの一番忘れられないものは、燻製ビールです。ツアーコースにない所でしたが、自由時間に一人で出かけて燻製ビールの操業1678年の醸造元の酒場でいただきました
 燻製の香りがするRauchbier(燻製ビール)です。写真の1678年創業シュレンケラ燻製ビール醸造所居酒屋(Aecht Shlenkerla Rauchbier Brauerei –Ausschank seit 1678)で味わいました。1998年のことなのでその味を忘れました。そこで相原恭子氏の「もっと知りたい!ドイツビールの愉しみ」の以下の一文を紹介しておきます。
「シュレンケラで2種類を味わった。ラオホメルチェンは樫の木の樽から注がれた。まず感じるのはスモークの香り、口に含むと苦味とかすかな酸味がモルトのコクのあるわずかな甘みと調和して、不思議な美味しさである。喉を通る時、燻製の香りがして再びそれが鼻に抜けるようである。ラオホヴァイツェンは、爽やかでフルーティーなモルトと酵母の味わい。コクがあるのだが、ボディは穏やかで優しい。両方とも、もう少し、もう少しと、たくさん飲んでしまう口当たりの良さがある」(p44)
 なお、相原氏は燻製ビールができたエピソードを紹介しています。
「ある修道院の醸造所が火事になり、せっかくのモルトが煙でくすぶり図らずも燻製になってしまい、捨てるにしのびず偶然できたのがラオホビールであったという。他にも、修道士が窓を開けずにモルトを焙煎していたため燻製モルトなってしまったという説もある」(p39)
 ドイツのバンベルクにお出かけの方は是非お試しあれ。ただ最近では日本にも輸入されているそうです。
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「ツアーコースにない所」マサイ人のエシラレイ村

2024年05月07日 07時55分09秒 | ツアーコースにないところ

 マサイ人はアフリカのケニア南部からタンザニア南部に居住する遊牧民族で人口約50万人と推定されています。身体能力は抜群でマラソンでの活躍は有名です。
 タンザニアをバスで移動中マサイ人の村(エシラレイ)に出会いましたが観光コースにはありませんでした。そこで私が発案して皆さんの同意を得てこの村への訪問をしました。そのため各人10ドルの特別出費でした。
冒頭写真は歓迎の皆さんです。

 家屋です。

 ちょっと失礼して家の中をのぞかせていただきました。
 
子供たちですね。
 
 首にワッカのようなものをつけていますが、何ですかね。尋ねたような気がしますが忘れました。

 村長のロモニさんと私です。村長さんには2人の奥さんと10人の子供さんがいるそうです。
 帰国後、永松真紀著「私の夫はマサイ戦士」という本を読みました。彼女はマサイ人ジャクソンのもとへ2番目の夫人として嫁ぎました。結婚後も旅行ガイドとして仕事をするということで子供が生まれたら1号夫人(1号夫人の方が若い)に面倒を見てもらうということで婚約したそうです。また子供が女の子だったら割礼をしないという約束をしたそうです。
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「ツアーコースにない所」韓国7 仏教伝来謝恩碑

2024年05月04日 07時53分38秒 | ツアーコースにないところ
 
 1972年に日本の仏教徒によって扶余の地に建てられた「仏教伝来謝恩碑」をツアーコースにはなかったので特別に頼んで訪問しました。逆光だったので正面の文字がよくわかりませんが、裏面に由来が書いてありました。
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「ツアーコースにない所」韓国6  西大門刑務所歴史館

2024年05月01日 07時53分53秒 | ツアーコースにないところ

日本敗戦(韓国では光復日)の翌日1945年8月16日にここ西大門刑務所から多くの反日、独立運動をした囚人たちが出獄しました。ここ西大門は植民地時代(韓国では日帝時代)多くの政治犯が収容されていました。4月30日に紹介した柳寛順ユガンスンもここに収容され拷問で死亡しました。その後普通の刑務所になりましたが、1998年歴史館になり一般公開されています。
 冒頭写真は入り口です。
 博物館内は薄暗くノーフラッシュのカメラで腕も悪く、日本語の説明文も少なく良い写真は有りませんが、以下4点を紹介します。
 皇国教育。
獄中で皇国教育がなされていたのですね。蛇足ながら戦後教育の皆さんに「皇国」とは「天皇の統治する国」という意味であることを注にしておきます。担当者も本気で彼らに皇国教育ができると思っていたのでしょうかね。

 朝鮮語学会事件
 「***朝鮮語に対する新たな関心を呼び起こし、何年間も繰り返し伝えられる偏狭な民族観念を鼓舞激励し民族文化の向上と、民族意識の高揚をもくろみ朝鮮独立のために実力伸長の手段を講じ全力を***」
 「偏狭な」という単語を除けばこの文章は表彰状のように読めます。しかし1945年1月16日裁判所の判決文です。このような理由で「治安維持法」の「内乱罪」が適用され「朝鮮語学会」の関係者8名に8年~2年の懲役刑の判決がありました。それまでに2名が獄中で死亡していました。日本政府の朝鮮語(韓国語)抹殺政策のシンボル的事件でした。
「朝鮮語学会」は1921年に結成され「朝鮮語辞典編集会」を組織して辞典編集に着手し、「ハングル正書法統一案」を制定しました。この事件で「朝鮮語大辞典」のために用意されていた三万二千枚の原稿と20万の語彙カードが押収されました。

 拷問部屋です。
狭い壁に挟まれ座ることも立つこともできない拷問室です。

 絞首刑部屋です。

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