トルクメニスタンのメルヴ(前日の地図参照)にはすこし奇妙な城跡があります。キズ・カラです。7世紀ササン朝時代に造られ,後のセルジューク朝(11~12世紀)には儀式用の会場として使用されました。(function room )
このメルヴはアフガニスタンからエジプトまで支配したセルジューク朝の首都で「千夜一夜物語」の舞台にもなったところです。1221年のモンゴルの来襲ですべてが破壊されました。このとき100万の人が殺されたという説があります。(通説・私はあまり信用していません)
地図は旅程図です。(ユーラシア旅行社のホームページからの転載)これを見れば前回紹介したアムダリア河がアラル海に注いでいることが分かります。アラル海の旱魃、縮小が日本でも話題になっています。撮影禁止のアムダリア河渡河付近で以前2kmあった川幅が現在800mになっているという説明を受けました。しかし砂漠の中をアムダリア河からの水を引いた運河が滔滔と流れているのを見るとその功罪をどう考えるのか分からなくなりました。
トルクメニスタンの現地ガイドのマヤさんを紹介しておきます。推定年齢26歳?の独身女性でした。(写真)父親がトルクメニスタン人、母親がロシア人で日本語は出来なく添乗員の斉藤さんとの会話はロシア語と英語だったようでした。彼女の家庭での共通語はロシア語で、英語とフランス語が出来るそうです。トルクメニスタン語はあまり出来ないそうです。しかし弟はトルクメニスタン語も出来るそうです。多分彼はソ連崩壊後の新しいトルクメニスタンの教育を受けたためでしょう。
ちなみにトルクメニスタンの民族構成はトルクメン人77% ウズベク人9% ロシア人7% カザフ人2% で総人口は430万人です。ロシア人は減少傾向のようです。
トルクメニスタンでは公共の場所での写真撮影は禁止でした。バザールでも禁止でした。アムダリア河を渡るとき橋が危険だということで乗客はバスから降りましたが、私は体調不良ということでバスにいました。そこからこっそりと撮影禁止のアムダリア河と橋を盗撮しました。というわけでこの写真は貴重品というわけです。
トルクメニスタンでびっくりしたのは現地通貨との両替でした。USドルとの交換で公式レートと闇市とでは4倍の差がありました。公式レートで1$=5200マナット、闇市では1$=2.3000マナットというわけです。このことが経済的に何を意味するのかは私には分かりませんが、国境ではトルクメニスタンから大量の物資を仕入れて持ち帰り商売をしようとするウズベキスタンのオバチャンたちの姿を多く見かけました。
首都アシハバードのホテルでは伊藤忠商事の人に出会いました。天然ガスその他の地下資源の豊富な国だとの話でした。そのための商売で来ているようでした。
博物館には日本のODAからの大型テレヴィが置かれていましたが全然機能していませんでした。
写真はこの国特産のブランディですが、やはりニヤゾフ大統領が。現地ガイドが日本に来るときの土産はこのブランディだそうです。
昨日の新聞にトルクメニスタンのニヤゾフ大統領の死去が報ぜられていました。そこで急遽予定を変更してここを紹介します。(2004年の旅行です) トルクメニスタンで一番びっくりしたのは、ニヤゾフ大統領の絵、写真、それと金ぴかの像がいたるところに飾ってあるということでした。建物の壁に、トルクメニスタン航空の紀行機の中にも、そして公園には金ぴかの像というわけです。
ニヤゾフ大統領はソヴィエト時代からの政治家でソヴィエト崩壊後この国の大統領になり彼の率いる民主党以外の党は禁止になり2002年に終身大統領になりました。世界でも珍しい北朝鮮と並んでの個人崇拝独裁国家です。写真は建物に描かれたニヤゾフ大統領です。
天山山脈を越えコルラに1泊して天山南路をクチャに向けて西方にバスは走ります。(9月4日と9月30日の地図をご覧ください)写真はコルラ→クチャの天山南路(西域北道)です。右が天山山脈(見えません)左はタクラマカン砂漠ですがこのあたりは小石が多くすこし草も生えておりゴビ砂漠と呼ばれる地域です。
天山北路を後にして天山山脈を越えて天山南路(西域北道)へ向かいました。天山越えの峠(標高3200m)にはチベット教のタルチョがはためいていました。チベット仏教徒にとって峠は神聖な場所でタルチョ(祈りの旗)と積み石とカタ(聖なる布)で飾られた祠が置かれていました。
タルチョについては10月2日もご覧ください。
この写真もカザフスタンで見た天山山脈ですが、道は11月1日と11月3日で紹介した中国天山北路最西端のコルガス国境につながるシルクロードです。このルートは遊牧騎馬民族の活躍する舞台です。モンゴル・ジンギスカン軍もここを通り西方に進みました。