100倍楽しむ海外旅行  時々国内旅行

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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

ロシア・ウクライナ・バルト3国」編 サンクトペテルブルク2

2022年03月31日 07時52分25秒 | ロシア

 サンクトペテルブルグではロシア美術館やエルミタージュ美術館にも行ったのですがこれもなぜか展示品などの写真が一枚もありません。
 写真左はスパース・ナ・クラヴィー(血の教会)です。アレクサンドル2世が1881年に農奴解放などの改革をしたが不十分だとして暗殺されました。跡を継いだアレクサンドル3世が先帝を弔うために建立しました。完成は1907年です。
 写真右上はスモールヌイです。18世紀に女帝エリザヴェータが女子教育の場として修道院を創設したことに始まります。その後ロシア貴族の女学校も出来ました。
 写真右中は聖イクサ寺院です。高さ101.5mあります。ニコライ1世の馬上像もあrいますね。ここの広場で6組の新婚カップルが(田中さんのメモ(写真右下)
 今回で「ロシア・ウクライナ・バルト3国」編を終わります。次回からは2001年の「のんびりネパールとヒマラヤハイキング」編です。
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「ロシア・ウクライナ・バルト3国」編 サンクトペテルブルク1 ペテルゴフ

2022年03月28日 07時53分13秒 | ロシア

 サンクトペテルブルクには2泊しました。プリバルチスカヤホテルで「「部屋数約1400,いかにもロシアという感じの巨大ホテルです」(田中さんのメモ)((写真右上)
 水中翼船に乗って(写真右中)ピョートル大帝(1672~1725)の夏の宮殿ペテロゴフに向かいました。
 この宮殿は150近い噴水のある「水の宮殿」です(写真左下、右)宮殿内部も見学したのですがなぜか写真は一枚もありません。
 なお、ペテルゴフの名称ですが。ソ連時代は「ペテロドヴォレツ」でしたが1997年ペテロゴフに改名されました。2000年の旅でしたが添乗員の田中さんはまだ「ペテロドヴォレツ」でした。
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「ロシア・ウクライナ・バルト3国」編 エストニア ナルヴァ

2022年03月25日 07時50分24秒 | バルト三国

 タリンからロシアに向かい国境の町ナルヴァに到着しました。この地は1944年ソヴィエトとナチスドイツとの激戦地として有名です。写真左上は向こう側がロシアで城はイワンゴロド城です。河はナルヴァ河で橋は「友好橋」と名付けられています。
 写真右上はナルヴァ城で見たレーニン像です。「ひっそりと隠れるように立つレーニン像でお写真をお撮りになった方も」とは添乗員の田中さんの揶揄、皮肉のメモです。
 昼食のレストランでは「ロシアのジプシー(ロマ)の民族衣装に身を包んだおばさんのバラライカとギターの音色」(田中さんのメモ)(写真右中)
 写真右下はこの町で出会った子供たちです。
 国境を越えてロシアのサンクトペテルブルクへ(写真左下)
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「ロシア・ウクライナ・バルト3国」編 エストニア タリン

2022年03月22日 07時55分38秒 | バルト三国

「ロシア・ウクライナ・バルト3国」編を再開します。
リガからバルト3国の一番北にあるエストニアの首都タリンに向かいました。この町も城塞都市でした。(写真左)写真右上は展望台から見た旧市街地です。遠くの海はバルト海のフィンランド湾です。80km先がフィンランドのヘルシンキです。写真右中は街角風景です。
 写真右下はロシア正教会のアレクサンドル・ネフスキー聖堂です。日露戦争で命を落とした人々のプレートがありましたが、なぜか写真はありません。
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臨時特別編「ウクライナとベラルーシのナショナリズム」ベラルーシの場合2

2022年03月19日 07時53分08秒 | ベラルーシ・ウクライナ・マルドヴァ

 この写真の文書はベラルーシ入国時にもらい出国時に返すmigration card と呼ばれるものです。キルル文字が主体ですが中にラテン文字があります。上から3行目の左にRussian Federation(ロシア連邦)右にRepublic of Belarus(ベラルーシ共和国)と書かれています。出入国に関する文書が共用とは!と思いましたが、ひょっとすると、ロシア連邦の一員のベラルーシ共和国と言う意味かもしれません。どちらにしてもベロニカさんの言うように現実はロシアと一体化しているという考えを実証している文書のような気がしたので紹介しておきます。なお蛇足ですが、法的にはベラルーシはロシア連邦の一員ではありません
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「ウクライナとベラルーシのナショナリズム」ベラルーシの場合1

2022年03月16日 07時53分43秒 | ベラルーシ・ウクライナ・マルドヴァ

 今回のロシアのウクライナ侵攻の直前、ロシアとベラルーシの共同軍事訓練が行われたとの報道がありました。そうなんです。ベラルーシはウクライナと全く対照的でした。以下2012年6月19日の修正再録です。
 ベラルーシの首都ミンクスのガイドはベロニカさんでした(写真)。あなたは家庭では何語で話しますかと尋ねました。もちろんロシア語で、98%の人がロシア語を話すという返答でした。この場合98%の人がロシア語を解するという意味か、98%の人の日常言語がロシア語であるという意味なのかはわかりませんでしたが、彼女のニュアンスでは後者の意味のようでした。
 服部倫卓氏は「不思議の国ベラルーシ ナショナリズムから遠く離れて」で次のように書かれています。
 「ベラルーシでは、ロシア語かベラルーシ語かという二者択一の枠に収まりきれない面がある。その最たる例は、『トラシャンカ』と呼ばれるロシア語とベラルーシ語のチャンポン言葉が蔓延していることである。つまり、ロシア語を話そうとしているのにベラルーシ語の単語や発音が混じってしまったり、ロシア語の影響を強く受けたベラルーシ語をしゃべったと言ったことが起きる」(p137)。
 また2009年の国勢調査によれば母語をベラルーシ語と答えた人が53%、ロシア語と答えた人が41%です。ちなみに、民族構成ではベラルーシ人が84%、ロシア人が8%となっています。(「ウクライナ・ベラルーシ・モルドバ経済図説」p19)何がなんだかよくわかりませんね。
 次に質問したのは「ロシアとの統合を望みますか」でした。その質問はあまり意味がなく現実はすでに統合されていると同じであり私の夫もロシア人ですと言うのが彼女の答えでした。(この場合のロシア人はベラルーシ国籍を持つロシア人か、ロシア国籍のロシア人かはよくわからない。多分彼女にとってそんなことはあまり意味のないことかも)
 服部氏は「ベラルーシ民族・国民としての独自のアイデンティティが充分に確立されていないことをうかがわせるデータは枚挙にいとまがない」(p165)と述べられています。
 
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臨時特別編「ウクライナとベラルーシのナショナリズム」ウクライナの場合3

2022年03月13日 07時52分01秒 | ウクライナ

前々回紹介したようにリヴィウは最もウクライナ色が強くロシア語が通じにくい地域とされています。ウクライナ民族主義の拠点とされています。その象徴的な存在がユニエイト教会です。ポーランド・リトアニア共和国に支配されていた1596年にカトリックとロシア正教会の妥協の産物として成立し、東方正教会の典礼(儀式)を守りながらローマカトリック教皇の権威に従うという珍しい宗派です。ウクライナ・カトリックとかギリシア・カトリック、東方カトリック教会などとも呼ばれており今ではロシア正教会とは一線を画しウクライナ民族主義の一端を担っています。
 このリヴィウでのガイドのテイニアさんはやはりユニエイトでした。
写真はヴィウにあるユニエイトの元本部の聖アンドレア教会の内部です。2005年に本部はキエフに移されました。
 私には建物の説明はできませんが、添乗員の堤さんによれば正面の作りは東方正教会と同じで、少し見にくいですがベンチがあるのがカトリック様式だそうです。折衷ですね。
 今回でウクライナのナショナリズムの紹介を終わります。ここでちょっと余談話。現在のウクライナ大統領ゼレンスキーはユダヤ系ですね。古くからウクライナにはユダヤ人が多数生活していました。そこで2012年6月4日、7日、10日、13日、16日にかなり詳しく紹介しているのでご覧いただければ幸いです。
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臨時特別編「ウクライナとベラルーシのナショナリズム」ウクライナの場合2

2022年03月10日 07時52分57秒 | ウクライナ

キエフでの最初の観光がウクライナ民族主義運動の英雄であるシェフチェンコ(1814~61)に因んだ場所でした。シュフチェンコ記念キエフ国立大学もあります。
国民的英雄シェフチェンコ(1814~61)の像は今やレーニン像に代わってウクライナのほとんどの都市で見ることができるとはlonely planetの記述です。
 彼は農奴の子として生まれ友人のカンパによって領主に金を支払い自由身分になることができました。ウクライナ文学史上最大の作品とされる農民の口語・方言と古代教会スラブ語を統合したウクライナ語による詩集「コブザーリ」を出版しました。彼によってウクライナ語がロシア語と対等な言語として認められるようになりました。47年革命運動に参加したため逮捕10年間流刑生活を送ることになりました。
 写真はキエフにある彼の像です。
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臨時特別編「ウクライナとベラルーシのナショナリズム」ウクライナの場合1

2022年03月07日 07時49分05秒 | ウクライナ

ウクライナ情勢がますます緊迫しマスコミが毎日報道をしています。2月12日に以下のようなことを書きました。
「今回の(2006年)の旅行ではロシアとウクライナの関係について何も知ることはできませんでした。しかし2012年の「ベラルーシ・ウクライナ・モルドヴァ」の旅では政治的なことは別にして一般民衆の対ロシア感などを少し知ることができました。それについては2012年5月14日〰8月18日の「ベラルーシ・ウクライナ・モルドヴァ」の中で少し触れています。そこで関係部分を再録しようと思ったのですが、長くなるのでやめました」
 しかし考え直して2012年の体験を修正再録をすることにしました。
まずはリヴィウから。
リヴィウはポーランドに近くウクライナでは地理的には辺境になりますが、最もウクライナ色が強くロシア語が通じにくい地域とされています。ウクライナ民族主義の拠点とされています。
3月4日の朝日新聞の記事は「ポーランド国境まで車で約1時間半のリヴィウは、外国人を含めた多くの人たちの退避場所や国外脱出の中継地点になっている」
そのリヴィウの夜、ホテルでの夕食を終え一杯機嫌で散歩に出かけました。ホテルにほぼ隣接する市民の憩いのリノック広場がありました。多くの市民が夜の憩いを楽しんでいました。写真のような若い家族連れに出会いました。ウクライナ語の挨拶言葉を書いたメモを見ながら挨拶を交わし後は片言の英語でおぼつかない会話を交わしました。彼らはウクライナナショナリストであることが分かりました。ロシア語でなくウクライナ語での挨拶でよかったと後で思いました。この家族は今?
その時以前ソ連邦の一員であったウズベキスタンの首都タシケント空港でのことを思い出していました。
 パスポートチェックの時係りの女性に「スパシーバ」(ロシア語のありがとう)というと彼女は間髪を入れずに、しかし、にこやかに「ラフマット」(ウズベキスタン語のありがとう)と訂正してくれました。次の「ダスビダニア」(ロシア語のさよなら)にも、「ハイール」(ウズベキスタン語のさようなら)とすばやく、毅然として、笑みを浮かべながら、訂正してくれました。

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「ロシア・ウクライナ・バルト3国」編 ラトヴィア リガ

2022年03月04日 07時53分53秒 | バルト三国

 リトアニアからラトヴィアの首都リガに入りました。リガは「バルト海の真珠」と讃えられる美しい港町でした。写真左上は72mの展望台から見たリガの旧市街地(ヴェツリガ)で世界遺産になっています。
 写真右はアルベルタ通りのアールヌーヴォー建築です。アールヌーヴォーは19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパを中心に開花した国際的な美術運動です。
 写真左中はスウェーデン統治時代に街で最後に造られた門で、リガ歴史地区内に現存する唯一の城門です。
 こんなところでちょっとティータイム。(写真右下)
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「ロシア・ウクライナ・バルト3国」編 リトアニア4 カナウス城

2022年03月01日 07時52分44秒 | バルト三国

 写真上は13世紀ドイツ騎士団の侵略に対して防備のために建設された城塞の一部です。ふつうカナウス城と呼ばれています。ドイツ騎士団とは、聖地イェルサレムをイスラーム勢力から奪うことを目的に、ローマ教皇が派遣した3大十字軍の一つです。このドイツ騎士団はエルサレムからいち早く撤退をして北ヨーロッパの異教徒撃滅に向かいました。
「時は中世、ヨーロッパ北方をめざす『もう一つの十字軍』があった。教皇の名の下、『異教徒を根絶』すべく残虐の限りを尽くすドイツ騎士団」(山内進著「北の十字軍」の表紙の見出し文)
 この十字軍に最も抵抗した人物が2月20に紹介したヴィリニュス建国の祖とされているゲディミナス公です。彼は各地で圧迫されていたユダヤ人をヴィリニュスに招きました。この伝統は20世紀まで受け継がれ前回紹介した杉原千畝につながれます。
 リトアニアからバスでラトヴィアに向かいました。(写真下国境
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