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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

「臨時特別編」 カタコンベについての教科書会社からの回答

2018年05月12日 08時06分33秒 | 

 

4月3日に以下のようなことを書きました。

 

「先日(3月22日)カタコンベと「広辞苑」と題して書きましたが、依然として現在の高校の世界史教科書にはカタコンベをキリスト教徒の迫害、避難と関連付けて記述しているのがありました。いくつかの出版社には連絡をしておきました。」

 

この件について教科書会社から回答を頂きました。(写真)

写真が見難いかもしれないので主要な部分を転記し、私の意見を述べておきます。

「***この件につきまして、著者に確認いたしましたところ、カタコンベを迫害されたキリスト教徒の避難所とする学説は、近年では否定されつつあるということでございました。つきましては、「迫害」「避難所」といった記述を、平成31年度版より「初期キリスト教徒の地下共同墓地として使用された。」といった内容に変更する方向で検討します。なお、教科書の記述を変更するためには、文部科学省に申請を行い、承認を受ける必要がございます。***」

 この文章で「近年では」と書かれていますが、ちょっと引っかかりました。というのは私がそれに気づいたのは1996年のイタリア旅行のときでこのブログに書いたのは2005年と2006年でした。その時、参照した文献の一つがヨーロッパで共通の歴史認識を共有しようとして15歳から16歳を対象として書かれた欧州共通教科書「ヨーロッパの歴史」で当時に日本でも話題になりました。その出版は1992年のことでした。そこにはカタコンベの記載はありますが、迫害とか避難場所とかの記述はありません。(英語版p90)

 また1977年出版の「世界宗教史叢書 キリスト教史ⅠⅡⅢ」には全く記載はありません。というわけで「近年」のスパンをどのように考えるかでしょうが、かなり昔からカタコンベ→迫害の説は無かったのではないかと考えられると思います。

3月25日に以下のように書いています。

 

なぜこのような間違いが教科書などにあるのか私のそれ以来の疑問です。最近の私の妄想ではどうも「米欧回覧実記」(明治9年1876年)が元凶ではないか。日本にカタコンベが最初に紹介されたのはこの「米欧回覧実記」の記述からと考えれば腑に落ちるような気がしています。

 

 

 

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「臨時特別編」カタコンベ(カタコム)と広辞苑

2018年03月25日 08時10分50秒 | 

 

 

 1996年にイタリア旅行をしたときローマで半日自由時間があったのでかねてから行きたいと思っていたアッピア街道を歩きました。(写真上)そのとき人がたくさん集っているので野次馬の私は近寄ってみると「カタコンベ」(カタコム)観光のグループでした。その時点での私の「カタコンベ」への知識は「キリスト教徒は、ローマ皇帝の迫害に対し、カタコンベ(地下墳墓)にかくれて信仰を守った」(三省堂世界史{B}2003年版p40)でした。

 中に入っての説明(英語なのでほとんどわかりませんでしたが)に迫害の話は無かったようでした。(写真下)しかも考えてみると日本で言えば東海道という人の行き来が激しいところで「かくれて」というのもおかしいと思いました。

 そこで帰国後調べてみると迫害とカタコンベには関係の無いことがわかりました。そのことをこのブログに書いたところ以下のようなコメントが入りました。

 

そのほうが納得できます (colo)(元高校世界史教諭)

2005-12-29 10:27:07

 ウーン、そう言われればその通り、なぜ今まで教科書を鵜呑みにしていたのかと我ながら可笑しくなります。人間はだまされやすい・・・

納得できません (bosch)

2006-09-02 21:40:43

キリスト教徒はローマのネロ帝による、ローマの大火の責任転嫁ややディオクレティアヌス帝によって大迫害を受けました。事実、ペテロ、パウロは殉死しています。カタコンベは本来墓地ではなく、迫害されたキリスト教徒が地下に作った信仰の場所です。303年以降キリスト教の大迫害はなく、その後何度もの会議が重ねられて少しずつ認められていきましたが、キリスト教成立初期の頃はローマの全ての皇帝が寛容だったわけではありません。

 

 結局私は以下のように結びました

 

 カタコンベを「迫害」と関連づけて書いているのは130年前の岩倉使節団の「米欧回覧実記」(岩波文庫四p309~310)と日本の世界史の教科書、広辞苑(5版)だけです。(2006年9月26日)

 

さて広辞苑の登場ですが、

5版では「古代の地下墳墓。特に、ローマの初期キリスト教徒のものが有名で、迫害を避けてここに集まり祈ったという」

今年改訂された7版では「古代の地下墳墓。特にローマの初期キリスト教徒のものが有名」迫害以下の箇所が削除されていますね。

 

なぜこのような間違いが教科書などにあるのか私のそれ以来の疑問です。最近の私の妄想ではどうも「米欧回覧実記」が元凶ではないか。日本にカタコンベが最初に紹介されたのはこの「米欧回覧実記」の記述からと考えれば腑に落ちるような気がしています。

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「マダガスカル」編 墓2

2013年10月17日 08時11分59秒 | 

 こちらはアンタナヌシ人の墓で亡くなった年齢で高さが違うのだそうです。

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「マダガスカル」編 墓1

2013年10月17日 08時09分13秒 | 

 

 マダガスカルでは墓や葬式の様式などは各地域、各民族でかなり異なっているようです。この写真はイサロ国立公園内で見た、仮?の墓です。洞穴(人工?)に遺体を入れ野獣などに襲われないように石で蓋をし、一定期間そのままにしておき、その後に永久的な墓に安置します。古代日本の「殯(もがり)」に似たような制度でしょうか。

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「特別」編 オッスアリー

2008年07月25日 08時36分26秒 | 

 ウズベキスタンのブハラ博物館で見た犬葬又は鳥葬の後の骨を収めた骨壷です。

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番外編 お墓 最終回 フェデリコ皇帝ことなど

2006年01月28日 09時18分43秒 | 

 今回で「番外編 お墓」を終えます。まだレーニン、ホーチンミン廟とか、プロイセンのフリードリッヒ大王(写真)(注)とか、などなどのお墓は観光したのですが誰でも知っていることなので紹介の必要はないと思います。ただ一つ写真はないのですがなぜか10年以前にもかかわらず脳裏から消え去らないシチリアのパレルモで見たフェデリコ皇帝(神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒⅡ世 1194年~1250年)のお墓について少しだけ。 

  (注)ベルリンのサンスーシー宮殿の庭園で見かけたものですが、最近作ら     れたように思います。というのは“DER GROSSE ”と書かれているのは最近の正書法で、古くは“DER GROßE ”であったはずだからです。 

 パラティーナ礼拝堂の彼の棺の前には絶えることのないドイツ人観光客からの花束が手向けられていました。このことが彼の棺を忘却の彼方に追いやらない理由のようです。 

 彼はドイツ人でしたがイタリアで生まれ育ちその殆どの生涯をイタリアで過ごしたイタリア語を話すノルマン・イタリア国王でもありました。アラビア語その他数ヵ国語も話す彼は度重なる教皇の十字軍遠征の要請に対しても返事を延ばし、いざ出兵となると、事前にスルタンと交渉して無血でエルサレム王国の支配権を確保し、自らエルサレム王位につきました。

 このノルマン・シチリア王国は異文化共存の国家で近年注目をされています。 

 追記 2005年12月17日「番外編 お墓 アルメニア1」でアルメニア人大量虐殺に関する発言で、国家侮辱罪に問われたトルコ人作家オルハン・パムクの朝日新聞の記事を紹介しました。1月25日の同じ朝日新聞の報道によれば23日トルコ、イスタンブール地方裁判所は訴訟の取り下げを決定したと報じています。 

 次回からは最初の「ルーマニア編」に戻ります。

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番外編 お墓 リトアニア ヴィリニュス2

2006年01月26日 08時47分45秒 | 

 1991年の犠牲者の写真です。

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番外編 お墓 リトアニア ヴィリニュス1

2006年01月26日 08時45分10秒 | 

 1991年1月ソ連邦からの離脱を求めたリトアニアに対してソ連邦政府は武装部隊を送りました。そのとき首都ヴィリニュスの議事堂を守るため数万人が集まり抵抗をしました。そのときに造られたコンクリート・バリケードが記念に残されていました。(写真) 現地ガイドもこれに参加したと話してくれました。

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番外編 お墓 プラハ ビーラー・ホラの戦い3

2006年01月24日 09時25分30秒 | 

 同じく人形劇の人形

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番外編 お墓 プラハ ビーラー・ホラの戦い2

2006年01月24日 09時21分10秒 | 

 前述のように1620年のビーラー・ホラの敗北以後チェコはハプスブルグ朝の直轄地なりますがその中で民衆文化の人形劇は連綿と生き延びました。

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番外編 お墓 チェコ プラハ ビーラーホラの戦い

2006年01月22日 08時31分04秒 | 

 以前紹介したチェコ、プラハのユダヤ人居住地の近く旧市街のフスの像がある広場でビーラー・ホラ(白山)の戦い(1620年11月)で破れ処刑された27人のチェコプロテスタント貴族の碑銘を探しました。

 1人の自由時間での行動で現地ガイドも、添乗員もいなく(あとで聞くと添乗員も知りませんでした)よくわかりません。近くの高校生らしき集団に尋ねました。知りませんでした。あきらめて引き返そうとした時、引率の先生らしき人が慌てたようにやってきて、「ここです」と教えてくれたのが、この写真です。27個の十字架の石碑が写真のように埋められていました。

 ビーラー・ホラの戦いは1618年に勃発した30年戦争(1618~1648)の初期に起きチェコ(当時ボヘミアと呼ばれた)が完全にオーストリアハプスブルグ家の直轄支配に組み込まれることになる事件です。チェコ人はスラブ系の民族で、オーストリア人はドイツ人です。

 ヨーロッパ全体を巻き込みドイツでは人口が30%減少したといわれる30年戦争はこのチェコのプラハから始まりました。1618年プラハの王城でチェコ人のプロテスタント貴族がカトリックの信仰を押し付ける皇帝の代官を窓から突き落とすことから始まりました。(この部屋を見たかったのですが私たちの観光コースに入っていないということで見学できませんでした) 

 前述のようにプロテスタント貴族は敗北しこの十字架石板のあるところで処刑されました。 集合場所がこの近くだったのでこの場に添乗員、同行の人たちを案内して私がコウシャクをタレルということになりました。こういうことをするから私は添乗員から嫌われます。

 このときの旅行ではチェコとハンガリーを訪ねたのですが、チェコではかつてのお城の領主がすべてドイツ人で、同じオーストリア支配下にあったハンガリーではハンガリー人でした。この1620年のビーラー・ホラの敗北でチェコ人貴族は一掃されたことをこのことで実感させられました。

 カトリック教会での観光の時「イエスはこんなに派手に飾られるとは思っていなかっただろうね」と私がつぶやくと、日本人男性と結婚しているというチェコ人現地ガイドは「でしょう!」と同意をしてくれ自分はカルバン派の新教徒でチェコでは20%くらいがそうであると教えてくれました。 

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番外編 お墓 イタリア フィレンツェ サヴォナローラ

2006年01月20日 08時40分37秒 | 

   1996年5月フィレンツェのシニョーリア広場で私はサヴォナローラが火刑された場所を探していました。なかなか見つかりません。

 団体旅行ですから時間があります。慌てて現地ガイドをつかまえてその場所を聞きました。その円形の石版は雑踏の観光客の足元にありました。(写真)

 ドメニコ派の修道士であったサヴォナローラは15世紀後半フィレンツェの享楽と堕落を非難し、その中心であったロレンツォ・ディ・メディチや時の教皇を罵倒しました。 そのため1498年この広場で彼は火刑に処せられました。この有様をボッティチェリ、マキャベリー、ミケランジェロが見ていました。

 フィレンツェへ旅行の機会があればイタリア・ルネサンスの別の一面に想いをめぐらし、観光客の足元で今では殆ど振り返られることもないこの石版をご覧になることをお勧めします。

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番外編 お墓 イタリア ローマ カタコンベ4

2005年12月31日 08時49分49秒 | 

マイルストーンです。

それでは良いお年を。

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番外編 お墓 イタリア ローマ カタコンベ3

2005年12月31日 08時47分24秒 | 

 アッピア街道です。

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番外編 お墓 イタリア ローマ カタコンベ2

2005年12月29日 08時58分10秒 | 

 というわけで、日本に帰り色々調べたところこのカタコンベとキリスト教徒迫害とは関係がないことを知りました。なぜ日本の高等学校の世界史の教科書に誤った記載があるのでしょう。

 カタコンベが単なるキリスト教徒の地下墳墓だとすればわざわざ教科書に取り上げる価値はないと思います。私が調べたかぎりでは一冊だけカタコンベに触れていない教科書を見つけました。

 「実教出版 高校世界史B 平成14年版」でした。

 そこでは迫害についても「ローマ帝政は宗教にがいして寛容でキリスト教は下層民や奴隷のあいだで信者を獲得し、上層民の信徒もしだいにふえていった」(P24)どうもこれが真実に一番近いようです。

 私は海外旅行のための基礎知識として世界史の教科書を読んでみました。そこでいくつかの基本的な誤りを発見しました。それをここで述べる場ではないのでやめますが機会があればと思っています。一つだけ指摘しておきます。それはプロテスタント史観に偏っているのではないかです。

 写真はカラカラ浴場です。

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