100倍楽しむ海外旅行  時々国内旅行

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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

「出会いふれあい」編 ネパールのポカラにて

2024年07月21日 07時50分50秒 | 出会いふれあい

ポカラ(ポカラは本当にのんびりできるところ「地球の歩き方p143」)のシャングリラ・ビレッジホテル(ナチョラル志向のしゃれたインテリア「地球の歩き方p151」)で昼食。ホテルの近くでゲームしている人に出会いました。(写真上)わたくしはなぜかこのような風景(万国共通?)に出会うと何となく郷愁(?)を覚えます。というわけで世界各地で見かけたゲームを撮影しいくつか紹介しています。もちろんその名前もルールも知りません。時にゲームの名前、ルールをご存じの方がいらっしゃってコメントをいただくこともあります。今回もこのネパールのゲームの名前をご存じの方がいらっしゃいましたら教えてください。
 このホテルの土産物店で店の若者と仲良くなりました。後日この写真を送りました。この若者がわたくしの腕時計と自分の腕時計を交換してくれといい交換しました。わたくしの腕時計は1000円の安物で彼の方が高価のようでしたが。今でもちょっと良心が痛む感じです。
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「出会いふれあい」編 ネパール学校訪問

2024年07月18日 07時52分56秒 | 出会いふれあい

 前回紹介した若夫婦から別れたのちまた街中をぶらついていたら学校がありその校門に“ESHABLISHED2017” (創立2017年)とあり”??“(当時西暦2001年)なんとなく興味がわき非礼だとは思ったのですが、訪問しました。日本では不法侵入者として警察沙汰になるところでした。しかし大歓迎を受けました。どうもこの学校は外国からの援助で出来ているようで、外国人は歓迎という様子でした。校長先生まで出てきて色々説明を受けましたが、英語なので殆ど分かりませんでした。小学生たちは起立して歓迎?をしてくれました。職員室にまでお邪魔しました。
ESHABLISHED2017” の謎ですが、これはネパールの公式暦ヴィクラムの暦の年号で当時(西暦2001年)は2057年とのことでした。というわけで創立は40年前ということでした。以前この暦はインドとも共通だったそうです。起源を少し調べてみたのですがよくわかりませんでした。
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「出会いふれあい」編 ネパールの若夫婦の愛

2024年07月15日 07時54分13秒 | 出会いふれあい

  2001年ヒマラヤを見ようとネパールへ出かけました。ところがネパールへ行けば必ず何時でも、何処からでもヒマラヤが見えるというわけにはまいりませんでした。
 ツアーの予定では6箇所の地点と遊覧飛行(オプションで140ドル、以前墜落事故がありました)で見られるはずでした。結果は地上では3勝3敗、空からは天候回復を待つためかなり遅れての見学でした。 
さて1敗のドリケルでまる1日暇になり町?の中心街のお寺などを見学してまだ時間があるので、郊外?の方へ散歩に出かけました。そのときと出会ったのが写真の若夫婦でした。ご覧の通り、奥さん(ハニカミがなんともいえないかわいいですね 往年の日本女性?)が重い荷物を持ち、彼のほうは手ぶらです。ここからが私の悪い癖です。身振り手振りと片言の英語(彼らのほうが上手)で「女に重いものを持たして男が何も持たないのは良くない」説教をたれました。どうやら通じたようで、彼の方が胃が悪くて今、町の医者に診てもらいその後買い物をしての帰り道だとのことでした。そして彼は私に家まで来ないかと招待してくれました。いったんは快諾したのですが、かなりの距離のようなので途中で失礼しました。今になっては彼らの家まで行くべきだったと後悔しています。彼の健康が回復していることを願っています。
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「出会いふれあい」トルコのコンヤで

2024年07月12日 07時54分17秒 | 出会いふれあい

写真上はコンヤで早朝の散歩をしていた時に出会った子供たちです。朝食のパンを売っていた青年?にも出会いました(写真中)。メルハバ(今日は)というトルコ語の挨拶をしてその後無言の会話?をしました。そこへ弟らしき中学生が現れました(写真下)。彼は弟にお茶を持ってくるように指示したようでした。香草が入ったお茶を勧めてくれました。大変おいしくいただきました。彼らも商売だろうと思い代金を支払おうとしましたが受け取りませんでした。海外旅行中に出会った忘れられない人物の一人です。
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「出会いふれあい」編 フランス人の傲慢さ

2024年07月09日 07時51分51秒 | 出会いふれあい

  イギリスに反してフランスの現地ガイドの傲慢無礼さにはまったく不愉快でした。添乗員に英語で説明した後、いかにも小馬鹿した発音で“understand?”(分かったか) を繰り返しました。27年経過したいまもこの不愉快なアンダースタンドの声が耳から消えません。また ガイド中に他国人ツアーの悪口を盛んに言ったガイドもいました。
 別れ際に私に次回はフランス語を勉強してフランスへ来てくださいと言ったガイドもいました。フランス語帝国主義メ!
 フランスでは犬の散歩の時糞の始末をしないようです。あちらこちらに糞が放置したままで、たびたびフンづけをしました。というわけでこの犬の糞ともに食べ物を除いてフランス(イタリア料理の方が好き)に私は良い想い出はありません。美人にもあまり出会いませんでした。 
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「出会いふれあい」編 イギリス人の親切

2024年07月06日 07時51分49秒 | 出会いふれあい

海外に出かける時その目的地について濃淡はありますがある程度のイメージは持って行きます。そのイメージどおりの時は「やっぱりそうか」と思い、違っていれば「ヘエー ホントー」となり、それが旅行の楽しみの一つでもあります。
 イギリスではその二つがはっきりした楽しい旅でした。
 まず「やっぱり」の方はやっぱり食べ物でした。まずいです。食べ物のうまい、まずいは個人の好みの問題で個人差がありますが、この国は私のような味痴でもわかる「まずい国」です。特にこの年(1997年)は狂牛病が問題になっていて肉類は七面鳥だけでした。これはまたまずい。皆さんイギリスにお出かけの際は、醤油、マヨネーズ、ドレッシング、味噌などの持参を勧めします。今から135年ほど前に欧米を視察した久米邦武が「諺ニ曰ク、倫敦(ロンドン)ノ食倒レ、巴里(パリ)ノ衣倒レ」(「米欧回覧実記3」岩波文庫 p53)と書いているのは不可解です。
 「ヘエー」のほうです。イギリス人は個人主義が徹底して冷たい人だというイメージを待っていました。ところがこれはまったく間違っていました。親切で、暖かい人たちでした。(特に女性)自由時間にロンドンのハイドパークを散歩して方向音痴の私は帰り道がわからなくなって地図を見ながらキョロキョロとしていると30代くらいの女性が寄ってきて何処へ行くのか尋ねてくれました。ホテルの名前を言うと親切に教えてくれました。本当を言うと英語なので半分ぐらいしか分からなかったのですが。私の最大限の英語力で“Thank you very much for your kindness” と言うと、バスに乗り込もうとしていた彼女はこちらを向いてにっこりと微笑んでくれました。旅行中に方向音痴の私はキョロキョロすることが多いのですがこんなことは初めてでした。
 イギリスのスコットランド、エディンバラでのことです。1人でお店の準備をしていた50代くらいの女性に両替所を尋ねました。私の唐人ぶりをすばやく察知したのか、お店をそのままにして両替所の所まで手をとるようにして連れて行ってくれました。
 イギリスでの現地ガイド(女性)も親切でやさしくてわかりやすい英語での案内でした。なぜか、男性の英語はむずかしかったです。Later(後で)をラターと発音した男性運転手がいました。日本からの留学生に偶然カフェで出会いそのことを話すと、同感との返事でした。

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「出会い・ふれあい」アルメニア人のおもてなし

2024年07月03日 07時49分37秒 | 出会いふれあい

2003年のコーカサス旅行で出会ったアルメニア人の「おもてなし」にも感激しました。生贄の儀式が現在も残っているという古いアルメニアのゲガルド修道院で子供づれの生贄の羊のバーベキューパーティーに出会い大歓迎を受けました。自家製のワイン、焼肉などご馳走になり土産まで持たされました。我々のバスにはいつも周辺の人々が手を振って歓迎してくれました。このような歓迎をうけた国としては私の乏しい海外旅行の中ではルーマニア、トルコがありました。なぜこのようにアルメニアの人々は他国の人にこれほど親切なのでしょうか。
    
アルメニア人はユダヤ人についでディアスポラ、世界に離散した人々が多いのです。ヨーロッパ各地を旅行していると各地にアルメニア教会を見ることができます。この地域は古くから東西交流の接点でもあり言葉を代えれば東西の強国にはさまれ双方から強奪にあった地域です。その証拠は各地の破壊された遺跡に残っています。最近では19世紀の後半から20世紀の初頭にかけてのトルコによる百万とも二百万とも言われる大虐殺があります。なおこのときにもクルド人の悲劇がありました。アルメニア人を殺せばクルドの独立を認めるというトルコ政府の扇動に乗ってこの虐殺にクルド人も一役買ったのでした。(この部分の説明は私の質問に現地ガイドが答えたもの)しかしトルコはいまだにその事実を認めようとせずしたがって謝罪もしていません。現地のガイドは虐殺博物館で事実を述べただけでしたが、夕食時での私との個人的な話のとき(英語ですからほとんどわかりませんでしたが)apologize(謝罪)という言葉が強く私に迫ってきて日本政府のことを思い出していました。
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