「南北キプロス周遊の旅」というツアーに参加します。出発は本日で、帰宅は17日になります。その間このブログを休みます。再開は22日を予定しています。(その時、地獄の閻魔さん、怒りをあらわにして登場。「お前が旅の途中で地獄行きになって、俺のところへ来ても極楽へ転送するという約束は破棄するぞ」と言って退場。)
2006年の旅行でヨルダンに行きました。その時観光客らしき人にいつものわたくしの悪い癖で”Where are you from?”と尋ねたところ「キプロス」と返事があったので{南?北?}といったところすごい剣幕で「南」(日本語で意訳すると「南だ!南に決まっているだろう」)
という返事でした。というわけでそれ以後キプロス行きが気にかかっていました。ところが参加する人が少ないようでキプロスツアーはいずれの旅行社もあまり催行されていないようです。(マルタ島、レバノンなどとのセットはよく催行されているようですが)ということでようやく今回わたくしの最後の旅にキプロス行きが決まりました。
写真は「日本橋トラベラーズクラブ」からいただいた旅程図です。
以上は数日前書いた文章です。ところがその後体調不良になりこのツアー参加をキャンセルしました。思い出のため上記の文章そのまま記載させていただきます。したがって次回はいつも通りの11日になります。
その時(地獄の閻魔さんにこやかに登場「よかった・よかった、これでお前の旅行は最後の地獄旅行だけになったぞ。今回のケチで貧乏なお前の決断の褒美に地獄旅行での三途の川の渡船料を無料にするよう関係方面に指示しておく。もう一つおまけに、道中の骸骨ストリップショウの観劇料も無料にしてやる。お前が俺の前で世界各国の面白い話をしてくれるのを楽しみにしておるぞ」と閻魔さんにこやかに退場。(私の影の声―閻魔さんはわたくしを盛んに誘惑しています)
私の103国の旅を通じて感じることの一つに、日本人が思う以上に、広島、長崎への原爆投下について外国人の関心度が高いように思います。日本から来たと話すとヒロシマ・ナガサキと返ってくることが度々です。
セルビア人との会話で彼は「アメリカは帝国主義国で嫌いだ。あなたもヒロシマ・ナガサキに原爆を落とされたからアメリカは嫌いだろう」今だに記憶に残る会話でした。(2011年1月16日紹介)
ところがアメリカ合衆州国だけは違いました。返ってくる言葉は「オキナワ」でした。
写真はアイルランドのコーク市にある「原爆追悼碑」です。日本語のガイドブックにも記載されていませんし、日本の原爆禁止運動の関係団体にも知られざる「碑」です。いかにしてこの存在を知り写真を撮ることになったかは2005年11月11日に紹介しています。碑文文字が見にくいので、以下紹介します。”In memory of the victims of Hiroshima and Nagasaki .It must not happen again.
この碑の由来についてはユーラシア旅行者の伊藤さんを通じてコーク市当局に問い合わせをしてもらいました。その回答文は2007年2月26日に紹介しています。
先年、オバマ大統領のヒロシマ訪問が話題になりましたが、戦後初めてヒロシマを訪問した世界の政府要人はキューバのゲバラです。2013年4月20日に以下のように紹介しています。
「1959年アジア・アフリカ親善大使として来日し12日間日本に滞在し、その間広島を訪れ原爆慰霊碑に花束を捧げています。この時「アメリカにこんな目に遭わされておきながら、あなたたちはなおアメリカの言いなりになるのか」と語ったという話があります」
個人的には積極的には原水爆禁止運動にかかわりませんでしたが、なぜか運動の節目での参加者となりました。最初は1954年の第五福竜丸被ばく事件で日本での原水爆禁止の運動が始まった時です。この時わたくしが在学していた岡山大学でも開学以来の全校在学生の半分以上の参加者で原水爆禁止の集会が開かれました。その時わたくしはこの大集会の議長を務めました。本題から外れますがこの時マスコミの取材を受けましたが、なぜか原水爆禁止の話より今後の学生運動の見通しについて盛んに尋ねられたことを記憶しています。当時全国的に学生運動が衰退していて岡山大学でも学生自治会は消滅していました。
1963年原水爆禁止運動を担う原水協がヒロシマでの世界大会で分裂します。その広島世界大会に岡山県代表の一員として参加していました。分裂の危機を寸前にした安井郁を先頭にした行進はいまだに瞼に浮かびます。
分裂に直面した岡山県代表団はどう対処するかで広場で討議しました。その時は広場で100人ぐらいの代表団だったので意見発表のためにマイクの奪い合いになりました。その時わたくしの大声がマイクなしの私の発言を可能にしました。今でもわたくしの大声はいつも注意されます。一生のうち、この時が唯一大声が役に立った時でした。
ついでにこの分裂騒ぎの一こまを。この分裂時に共産党の方針に反対した党員たちがかなり大量に(?)党から離れていきました。その一人が著名な主義マルクス哲学者古在由重でした。旅で偶然この古在由重の娘さんと一緒になりました。(2000年)その娘さんお話では当時共産党議長(委員長?)の宮本顕治が毎日説得のためか古在宅に来ていたそうです。なお、古在由重はかなり以前からソ連に対して批判的だったとは彼女の話です。
7月25日に85歳になりました。日々老化は深化(進化)しています。先日散歩中、向こうから来た見知らぬ美女から挨拶を受けました。慌てたわたくしは急いで挨拶を返そうとした瞬間、転倒しました。怪我はしましたが、幸い骨折はしませんでした。(イワシの丸干しを常日頃頭から食べているせいか?)
最近図書館から借りてきた本を家に帰り読み始めたところ、なんだか変な気がしてわたくしの貧弱な書庫を見ると同じ本がありました。
近所にわたくしより一つ下の女性がいます。大変明るくて幸せそうな表情の方です。彼女は楽しそうにいつも同じ事ばかり話して、かなりボケが深化(進化)しているようです。その人の最近ちょっと違ったセリフを聞きました。「わたくしはいつもボケないように努力しています」
最近、医師であり作家の久坂部という人の文章に出会いました。「高齢者医療の現場で多くの患者を診察してきた私は、認知症になって、悔やんでいる認知症の患者を診たことがない。**逆に超高齢者になってもなお頭のハッキリしている人は、ある意味、不幸である」(雑誌一冊の本8月号「認知症の嘘と真実」p2~3)
どちらにしての今回の選挙では「安楽死党」に投票すべきだったと反省しています。
この写真は以上の文章とは無関係ですが、今回新たに購入したPCの壁紙にしたものです。鹿児島県三島村の俊寛伝説で有名な硫黄島です。この露天温泉はLonely planet(p744)に”a must for onsen connoisseurs”と紹介されています。8月3日のNHKのTVの「さかなクン」の番組でこの写真と同じものが放映されていました。このブログでは2015年6月5日~6月11日、2015年10月7日~11月21日に硫黄島を紹介しています。ご覧いただければ幸いです
83歳になりました。あと何年かな? それにしても俺の人生はいつも平均以下であったのに寿命だけは
(そこに突如、地獄の閻魔さんの登場)「パスポートの期限は2021年10月17日だぞ。『地獄八景亡者戯』に出てくるようなお前が地獄に来るのははなはだ迷惑千万だ。かといって、お前が極楽にいけるようなやつではないし、困ったものだ。ところでお前はどのようにして死にたいか、お前の理想的の死に方はナンじゃ。今、患っている前立腺がん?それともよく咽ているから誤嚥による肺炎か、電気代をケチってエアコンをつけないための熱中症か」
(私)「俺の死に方か?一生に一度のことだから格好良く死にたいな。外的な危機で死に直面したとき、自衛隊のヘリコプターが救助に来たとき、『憲法違反の自衛隊の救助は拒否する』と叫び『勝手にしゃあがれ』といってヘリコプターが立ち去った直後この世からおさらば。これが俺の理想形だ」
(閻魔さん)「なるほど。最近、司法試験を合格した人が嘘をついたり(失言ではないウソ)「禿げ!」といって人を侮蔑するようなことをする奴ばかりなので、法科大学に行って法の勉強をして公正な捌きをしようと思っていたが、やめた。その代わりお釈迦さん所へ留学して「慈悲」を勉強した。そこでお前の格好良い死に方に「慈悲」の心でお前が地獄に来れば即座に極楽に追放することにした」
(私)「本当ですか。嘘はつかないでしょうね。嘘をつくと舌を抜かれますよ」
(閻魔さん)「約束する。嘘はつかないよ。それは枝雀の『地獄八景亡者戯』の先代の閻魔のことでよく知っているよ。結局あれから先代の閻魔は舌を抜かれて地獄に落ちたよ。俺は先代の過ちは繰り返さないよ」
(閻魔さん退場)
私の思想の出発点はアメリカンデモクラシーのような気がしています。新制中学の2年生の時に出会った例の文部省の「民主主義」です。私は忘れていましたが、この中学の同窓会の時当時の担任教師の話によれば「生徒会の規約は山田が作った」そうです。ネタはどうもこの「民主主義」ではなかったかと今は思います。
私は大江健三郎をあまり好きでありませんし、彼の文章は晦渋で私には良く判りません。朝日新聞によく書いていますが殆ど読んだことはありません。しかし、その彼が確か40年ほど前?彼の民主主義の原点が「民主主義」にあると主張したことがあり、わが意を得たりと思ったことがあります。
中学時代の思い出話をもう一つ。学級新聞を作ることになりました。どうも原稿は私が殆ど書いたようでした。今覚えている記事はアメリカ大統領選挙の解説です。スチーブンソンとトルーマン?だったかな。スチーブンソンに好意的に書いたような気がします。もう一つは以後自分が生きていくうえで最も大切なこととしたものでした。(それがその後本当に実行されたかは?)それは朝日新聞の「天声人語」に書かれていたことでした。文芸誌に大家とされる人の文章が巻頭やあるいは活字を大きくして載せられている。しかし問題は中身であって大家であるというだけでその文芸誌で大切にされることはあってはならない。それにヒントを得てこの学級新聞の論説?に以下のようなことを書きました。ホームルームでの発言で成績のよい人などの発言を先生は大切にするが、成績の悪い子や先生に嫌われるような人の発言はその意見が正しくても取り上げない。これは良くないことだ。
その後(10年ほど前?)もとになった「天声人語」を見つけようとしてその頃の朝日新聞を図書館で調べましたが見つかりませんでした。したがってその記事は「天声人語」でなかったかもしれません。
私の人格形成、思想の基層はもう少し年少のときにあるような気がしています。それはいずれ後日。
以上の文章は数年前先輩で畏友の近井さん(故人)が肝臓がんに侵されことを知りエンディングノートを書くことを勧めたとき私が呼び水的に私の書いたエンディングノートの一部を少し改変したものです。
写真は中学卒業時のものです。左が私で帽子が嫌いで中、高、通じで被らなかったのですがこのときだけはなぜかこのような姿になっています。(帽子はたぶん他人のものだったと思います)右は親友の宇高晃平(故人)で彼が「民主主義」を「一生の愛読書になるだろう」言った言葉はいまも忘れることはできません。