100倍楽しむ海外旅行  時々国内旅行

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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

「チェコ・スロヴァキア・ハンガリー」編 コノピシュチェ城

2022年08月31日 07時52分20秒 | チェコ・スロヴァキア・ハンガリー

 プラハの南30㎞のベネショフにあるコノピシュチェ城を訪れました。13世紀に創建された城塞です。次々と所有者は変わりました。1914年サラエボで狙撃され、第1次世界大戦の引き金となったオーストリア皇太子、フランツ・フェルディナント・デ・エステ(1864~1914)がこの城を買い取り(1887年)ネオルネサンス様式に立て替えました。
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「チェコ・スロヴァキア・ハンガリー」編 プラハ5 人形劇

2022年08月28日 07時52分25秒 | チェコ・スロヴァキア・ハンガリー

 プラハの最期の観光は人形劇鑑賞でした。チェコは人形劇が大変盛んでプラハだけでもいくつもの人形劇場があります。その理由は、前回紹介したビーラ・ホラの戦いでチェコが完全にハプスブルク家の支配下になりドイツ語が強制されるようになりました。しかし民謡や人形劇だけにはチェコ語が認められていました。そこで人形劇がチェコ人の民族意識の高揚の一役を担うということになったのです。
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「チェコ・スロヴァキア・ハンガリー」編 プラハ4 ビーラ・ホラの戦い

2022年08月25日 07時52分39秒 | チェコ・スロヴァキア・ハンガリー

前回紹介したユダヤ人居住地の近く、旧市街のフスの像がある広場でビーラー・ホラ(白山)の戦い(1620年11月)で破れ処刑された27人のチェコプロテスタント貴族の碑銘を探しました。1人の自由時間での行動で現地ガイドも、添乗員もいなく(あとで聞くと添乗員も知りませんでした)よくわかりません。近くの高校生らしき集団に尋ねました。知りませんでした。あきらめて引き返そうとした時、引率の先生らしき人が慌てたようにやってきて、「ここです」と教えてくれたのが、この写真です。27個の十字架の石碑が写真のように埋められていました。
 ビーラー・ホラの戦いは1618年に勃発した30年戦争(1618~1648)の初期に起きチェコ(当時ボヘミアと呼ばれた)が完全にオーストリアハプスブルグ家の直轄支配に組み込まれることになる事件です。チェコ人はスラブ系の民族で、オーストリア人はドイツ人です。
 ヨーロッパ全体を巻き込みドイツでは人口が30%減少したといわれる30年戦争はこのチェコのプラハから始まりました。1618年プラハの王城でチェコ人のプロテスタント貴族がカトリックの信仰を押し付ける皇帝の代官を窓から突き落とすことから始まりました。(この部屋を見たかったのですが私たちの観光コースに入っていないということで見学できませんでした)
 前述のようにプロテスタント貴族は敗北しこの十字架石板のあるところで処刑されました。
 集合場所がこの近くだったのでこの場に添乗員、同行の人たちを案内して私がコウシャクをタレルということになりました。こういうことをするから私は添乗員から嫌われます。

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「チェコ・スロヴァキア・ハンガリー」編 プラハ3 ユダヤ人地区(ヨゼホフ)

2022年08月22日 07時53分29秒 | チェコ・スロヴァキア・ハンガリー


 プラハ観光の午後は自由時間でした。そこでわたくしが訪れたのは、ユダヤ人地区とビーラ・ホラ闘い処刑場跡でした。
 まずはユダヤ人地区(ヨゼホフ)から。この地にユダヤ人が住み始めたには10世紀ごろからです。弾圧と緩和の歴史の終着点はナチスのアウシュヴィッツなどの強制収容地でした。当時5万5千にいたユダヤ人は3分の2が虐殺されました。(生き残りは2500人という説もあります)現在この地のユダヤ人数は調べてみましたがわかりませんでした。ユダヤ教徒の祈りの家、教会シナゴーグは6つありましたが現在は5つが博物館になり教会として残っているのは1つだけです。そのシナゴーグを訪れました。(写真右上)入場には入場券とキッパ(ユダヤ帽子)(写真左)の購入が必要でした。キッパをかぶらなければ中に入れませんでした。内部は撮影禁止でした。
写真右下は近くにあったユダヤ料理のレストランです。昼食後でしたので入りませんでしたが、今考えれと絶対にユダヤ料理を食べるべきだったと反省をしています。
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「チェコ・スロヴァキア・ハンガリー」編 プラハ2

2022年08月19日 07時52分13秒 | チェコ・スロヴァキア・ハンガリー

 プラハにはプラハ城、聖ヴィート教会など著名の建造物がありますが、それらは省略して、ヤン・フス像(写真左)、マサリク像(写真右)、カレル橋(写真下)を紹介します。
 ヤン・フス(1372?〰1415)はルターの宗教改革より約100年も前に教皇庁に改革を迫り異端として火刑に処せられました。
 トマーシュ・ガリッグ・マリク(1850~1937)はオーストリア・ハプスブルク家から第1次世界大戦後独立したチェコスロヴァキア(スロヴァキアの分離は1939)の初代大統領(1918~1935)です。思想家としても著名でヤン・フスに関する著書もあります。
 カレル橋はカレル4世の命によって1357年に着工され1402年に完成された全長520m、幅10mもある石橋です。幾度もの洪水に耐えてきました。欄干には幾人もの聖人の像があり車の通行は禁止され前回紹介した大道芸人などが活躍していました。
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「チェコ・スロヴァキア・ハンガリー」プラハ1

2022年08月16日 07時54分27秒 | チェコ・スロヴァキア・ハンガリー

 チェコの首都プラハ観光です。写真上は高台から見たプラハの街です。大道芸人もいました。(写真中)。KARATE(空手)、Aikido(合気道)の広告を見ました。(写真下)ヨーロッパではJUDO(柔道)は時々見かけますがAikidoは初めてでした。
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「チェコ・スロヴァキア・ハンガリー」カルロヴィ・ヴァリ

2022年08月13日 07時52分12秒 | チェコ・スロヴァキア・ハンガリー

 ビールの町から温泉の町カルロヴィ・ヴァリにやってきました。「伝説によれば、14世紀に当時の神聖ローマ帝国カレル4世が、鹿狩りの最中に山の中で偶然発見」(地球の歩き方p118)
 写真左が間欠泉ヴィジードです。地下2500mのところから毎分2000Lの温泉水を噴き上げています。高さは12mです。この建物中に5つの蛇口があり(写真右)自由に飲むことができます。写真中央の人が飲んでいまネ。なおここの温泉は飲用が基本です。温泉町ですが、浴用にしているホテルは2軒だけだそうです。
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「チェコ・スロヴァキア・ハンガリー」編 ピルゼンビール

2022年08月10日 07時52分59秒 | チェコ・スロヴァキア・ハンガリー

2001年9月19日〰10月3日「チェコ・スロヴァキア・ハンガリー」を旅行しました。
 到着はチェコの首都プラハでしたが、初日はプラハより少し離れたピルゼンビールで有名なプルゼニュと温泉で著名なカルヴィ・ヴァリ(次回紹介)を訪れました。
 ビール大国チェコではビールは「のむパン」と呼ばれ世界一のビール飲酒国です。一人当たりの年間消費量は145L で二位のアイルランドの125Lを大きく引き離しています。ちなみに日本は48Lです(2008年統計)。現地ガイドの話によれば風邪をひいたときには医者はビール0.5Lの処方箋を書くそうです。
皆さんが飲むビール瓶のレッテルにpilsner書かれているのを見たことがあると思います。そのpilsnerというのはチェコのビールの商標なのです。そのピルゼンビールの発祥のプルゼニュスキー・プラズドロイ醸造所(1842年創業)を訪れました。写真上はちょっといかめしい豪華な入口門です。写真中は入り口付近にあった簡単なビール製造工程説明図です。写真下はビール樽倉庫の中です。ここで精製前の濁りビールを試飲しました。「美味い」の一言です。私は日ごろビールを飲まないのですが、チェコでは昼夜ビールを飲み続けました。私はチェコのビールが世界一だと思います。チェコから日本に帰った日、成田空港でビールを飲んだところ「不味い」と声をあげました。
思い出しました。52年前の大阪万博のチェコスロヴァキア(当時はチェコ+スロヴァキア)の展示室で「ピルゼンビールの国ですね」といったところ大変喜んでくれたことを。

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「オーストリア物語」ウィーン2 煙突掃除士

2022年08月07日 07時52分18秒 | オーストリア

シェンブルン宮殿観光後の昼食時に現地のガイドにウイーンでは煙突掃除士がいるそうですね、と以前読んだ本を思い出して尋ねてみました。するとこの近くにその組合事務所があるとの返事なのでラッキーと早速出かけてみました。写真はその「ウイーン煙突掃除業者組合」の看板です。  
 堀野収氏の「ウイーン素描(1997年発行)によって少し紹介しておきます。(p12~26) 人口160万人のウイーンに250人の掃除士がいるそうです。3年制の養成学校があり資格認定の試験があって合格者がこのウイーン市認定の組合(ギルド)に入ることが出来ます。このギルドに入らなくては煙突掃除の仕事は出来ません。ギルドといえば世界史に出てくる過去のものと思いますが、現在も約60のギルドが当局から認定されています。 煙突掃除士は法律と条例で防火の責任と義務が負わされています。煙突については警察のような強力な調査権を持ち、煙突掃除士の来訪を受けた家庭は、どんな場合でも入室を拒否できません。今回で「オーストリア物語」を終了します。次回からは?
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「オーストリア物語」ウィーン1

2022年08月04日 07時52分47秒 | オーストリア

 最終目的地首都ウィーン(Wien)に到着しました。ちょっと初めから余談話。日本語でウィーンと発音しますが、オーストリアではヴィーンと発音します。それでは英語でウィーンなのかと思いきやヴィエナ(Vienna)です。固有名詞の発音は現地音を原則とする日本語のルールに従ってオーストリアの首都はヴィーンとすべきではないでしょうか。
 何といってもウィーンはシェンブルン宮殿ですね。(写真右上中)名前の由来はシェーン=美しい、ブルン=泉ですね。1696年レオポルト1世により建設が始まり18世紀後半にマリアテレサによって完成されました。
 シューベルトもオーストリア人でしたね。お墓がありました。(写真左)
 ぶらぶらしていると日本ではめったに見かけない風景に出会いました。そこで盗み撮り。(写真右下)
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「オーストリア物語」アイゼンシュッタト

2022年08月01日 07時54分15秒 | オーストリア

首都ウィーンに接し、ハンガリーとの国境にあるアイゼンシュッタトに到達しました。この地は中世後期から第一次世界大戦までハンガリー王国の一部でした。1672年ハンガリーの貴族エステルハージ公が築城したエステルハージ城を訪れました。(写真右上)この城はハイドン(1732~1809)ゆかりの城として有名です。彼は30年間宮廷作曲家、指揮者としてここで活躍しました。写真右中はハイドンのコンサートが開かれたホールです。
 夕食はウィーン郊外にある創業1527年の居酒屋でした。今は日本でもおなじみになった「ホイリゲ」(heurige)という字が見ますね(写真左)。というわけで新酒の白ワインを音楽の演奏とともにいただきました。(写真左下)

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