100倍楽しむ海外旅行  時々国内旅行

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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

「忘れられない」編 一言

2024年03月26日 07時54分44秒 | 忘れられない

Japanese Jew
 モロッコのマラケシュでは自由時間があったのでシナゴーグ(ユダヤ教礼拝場)に出かけました。lonely planet にはシナゴーグに行くには現地ガイドが必要と書いてあったので路上にいた現地ガイドに案内を頼みました。その彼は私に”Japanese Jew?”(日系ユダヤ人か?)と尋ねました。多分シナゴーグを訪ねる日本人は珍しいのでしょう。。 

香港
 2007年に香港経由でナイロビに向かいました。その最初の香港までの機内で3人掛けの窓際に若夫婦(恋人?)がいて年寄りの私を気遣ってくれて手荷物の収納などを手伝ってくれました。日本人ではないようなので「チャイニーズ?」と尋ねてみました。答えはそれを否定する語調でホンコン(香港)でした。「! ? なるほど」が私でした。最近の香港情勢を考え写真は紹介しません。
cheater
 ヨルダンの 現地ガイドジャミールさんにローレンス(アラビアのローレンス)を尊敬しているかと尋ねてみました。彼はスパイでcheater(ペテン師)だとの返事でした。
faker
 シリアのガイドニダールさんにもローレンスついて尋ねました。他の外国の観光客がいたためか、声を潜めて私の耳元でスパイ、” faker “(詐欺師)とささやいてくれました。

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「忘れられない」編 ロベン島とマンデラ

2024年03月23日 07時54分46秒 | 忘れられない

 ロベン島は南アフリカのケープタウンの沖合い12kmにある島です。アパルトヘイト(人種隔離差別政策)時代、主に政治犯黒人専用の刑務所島だったところです。1959年から1991年まで述べ約3000人が収容されていました。当時の写真です。一人ひとりかなりの間隔があけられて作業をしていますね。
其の中には後にノーベル平和賞受けるネルソン・マンデラもいました。1999年島全体が世界遺産登録されました。広島の原爆慰霊碑とともに負の世界遺産です。ケープタウンから船に乗って20分くらいでした。
 ちょっと余談話
 このアパルトヘイト白人優位時代の日本人は「名誉白人」という不名誉な名前をもらい白人に準じた扱いを受けていました。ただ白人女性と結婚した日本人が「雑婚禁止法」で国外退去になったことがありました。それに対してプレトリアの日本総領事館は「名誉白人の待遇は法的に認められたものではなく、白人地域に住むことができるというだけで、結婚や男女関係に関する南アの法律では有色人種扱いだ」と南ア当局の言い分を認めたということがありました。(「苦悩するアフリカ」篠田豊著p40)
写真はマンデラ(1918~2013)の独房です。マンデラについてはいまさら紹介の必要はありませんが、念のため少し。反アパルトヘイトの闘士で1956年国家反逆罪で起訴され無罪になりましたが1962年再逮捕され64年終身刑を宣告されこの牢獄に収容されました。90年に釈放されまもなくアパルトヘイトは撤廃され94年南アフリカ最初の黒人大統領になり99年引退しましたフォームの始まり
私にはいろんな悪い癖がありますが、其の一つに海外旅行中に”You look like ****”
と言うことがあります。大失敗のことがあります。アゼルバイジャンの飛行機の中でのことでした。”You look like Gorbacheh (ゴルバチョフ)“とやったとたん、相手は血相を変えて怒り出しました。英語でしたが英語の苦手の私には良くわかりませんでしたがどうやら「ゴルバチョフはソ連邦を崩壊させた元凶だ!」と言っているようでした。怖かったです。 
 これに対してアフリカでは何処でも”You look like Mandela”は大好評でニコニコして握手をしてくる人もいました。皆さんアフリカで試してください。
 写真(上)はマンデラの演説の印刷されたもの一枚です。“I have fought against white domination” (私は白人支配に反対し戦ってきた)は当たり前ですが続いて”I have fought against black domination “とあるのがすごいですね
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「忘れられない」編 アウシュヴィッツ

2024年03月20日 07時55分42秒 | 忘れられない

 ポーランドに行くことを決めた時、ちょっと迷いました。「アウシュヴィッツには行きたくない、いや行くべきだ」と。この気持ちは私だけのものではないようで、聞くところによればアウシュヴィッツのときだけ欠席する人がたまにいるそうです。
アウシュヴィッツはドイツ語名でポーランド語ではオシフィエンチムです。またアウシュヴィッツの名前が有名ですが、すぐ隣にはここより大きいビルケナウ強制収容所があります。二つ一緒にして考えることが多いようです。
ここはあまりにも有名なので説明の用は無いと思いますが、少しだけ触れておきます。第二次世界大戦中ヒトラーナチスドイツがユダヤ人を中心として28民族(人種)の人たちを強制収用所に入れました。そのうちもっとも規模の大きいのがアウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所です。ここで殺された人は150万人といわれています。注目すべきはロマ人(ジプシー=この名前は侮蔑語であるとして世界的に現在使用されていません)がユダヤ人と同じ劣等民族として虐殺されています。
そこでヒトラーが同盟国である日本人をどう見ていたのか気にかかるところです。ヒトラーの有名な著書「わが闘争」にかなり詳しく書かれています。戦時中に翻訳された本にはそこだけは省略されていました。戦後に全文が訳されたものが出版されました。興味のある人は角川文庫「わが闘争(上)」p412以下をご覧ください。余談ごとですがヒトラーのモットーの一つに「健全な精神は健全な肉体に宿る」があります。その肉体を鍛えるスポーツとしてボクシングを推奨しています。
さて写真はアウシュヴィッツの入り口です。よく見てください。”Arbeit macht frei” .
(ドイツ語―働けば自由になる)とあります。残酷な皮肉ですね。私はこの言葉は中世ヨーロッパの俚諺”Die Luft der Stadt macht frei “ (ドイツ語―.都市の空気は自由にする=農奴など不自由民であっても都市に入り一年と一日たてば自由身分になれることを言ったもの)の本歌取りではないかと思っています。いずれにしても残酷としか言いようが無いですね。
残酷な写真はあまり紹介したくないのですが、一枚だけ。決められた時間だけの集団トイレ(写真下)
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「忘れられない」編 雄奴隷収容所

2024年03月17日 07時56分33秒 | 忘れられない

 ガーナ共和国のケープコーストに奴隷一時保管所が残されていました。アメリカへ積み出され迄の一時保管場所です。Male slave(雄奴隷)のdungeon(土牢)。一度に100に程度の奴隷が閉じこまれていました。内部は全く薄暗く陰気な感じでした。
 2009年7月にオバマ大統領がここを訪れています。オバマさんは奴隷の子孫ではありませんが、ミッシェル夫人はアフリカからの奴隷の子孫です。
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「忘れられない」編 ヴィルヴィツア=奇想天外

2024年03月14日 07時53分50秒 | 忘れられない

写真はアフリカナミビア共和国からアンゴラにかけての砂漠に自生する地上で最も過酷な環境で2000年も生きている植物ヴィルヴィッア、日本名「奇想天外」です。この葉の最長記録は8.8mだそうです
 幼少な?「ヴィルヴィツア=奇想天外」もいるので保護のため石で囲っていました。(写真下)

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「忘れられない」編 トゥースレン虐殺犯罪記念館(元刑務所)

2024年03月11日 07時54分23秒 | 忘れられない

  カンボジアのプノンペンではポル・ポト政権が作ったトゥースレン刑務所(現在虐殺犯罪記念館)を訪れました。そこでの写真です。ここに約2万人が収容され6人だけが生還しました。虐殺された人の写真です(写真上中)
写真下は何だと思いますか。虐殺された人たちの頭蓋骨で形作られたカンボジアの地図です。あまりにも残酷なので2004年に撤去されました。
 1975年に成立したポル・ポト政権は1979年までの4年間に200万~300万人(国民の約三分の一)の自国民を虐殺しました。特にインテリ層が対象になりました。メガネをかけているだけでインテリとみなされ処刑されました。いままでナチスのユダヤ人虐殺、トルコによるアルメニア人虐殺を紹介してきましたが、カンボジアでは自国民虐殺です。アフリカのルアンダ、ダンフールの虐殺も他民族です。その点カンボジアの例はきわめて特異であると思います。
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「忘れられない」編 スイスのライオン記念碑

2024年03月08日 07時55分25秒 | 忘れられない

写真はスイスのルッチェルンにあるライオン記念碑です。フランス革命時の1792年衛兵としてフランス王家に仕えていたスイス傭兵が、革命派によって殺されたことを追悼する碑です。奇妙ですね。外国の傭兵なっていた人を追悼するとは。これには理由があります。スイス傭兵部隊とは(スイス)国家管理の輸出産業だったのです。「金のないところスイス兵なし」といわれるほど金と略奪品を求めてスイス兵はヨーロッパ各国の傭兵として活躍しました。余談ですがスイスの銀行の秘密性は有名ですがこれは傭兵から送られてくるお金の秘密保護に由来しています。 
 スイスで外国軍隊への軍務が禁止されたのは第一次世界大戦が終了して10年後の1927年のことです。
 「古来戦争とは忠誠、祖国愛といった観念とは対極に位置していた傭兵たちによって担われていたのである。それがいつしかナショナリズムにより途方もない数の人々が祖国のために身を捨てる国民戦争に変質したのである」(菊池良生著「傭兵の2千年史」p5) 
 この変質時期はナポレオン時代からです。ナポレオンの軍隊が強かった理由に勲章の発明がよく挙げられますが、その元はフランス革命時に作られ現在のフランス国歌「ラ・マルセーズ」の冒頭の「起て祖国の子」で表される祖国愛=愛国心です。愛国心というイデオロギーにマインドコントロールされそれが具象化された勲章によって傭兵より安上がりで強い(国民)軍隊が出来たのです。それは「国家のために殺される」のではなく「国家のために死ぬ」という考えにつながります。
 今日本では靖国問題が議論されていますが、靖国神社とは「傭兵」よりは安上がりで強い軍隊を作るために愛国心とその具象化した勲章が一体化したものだと思うのですが。暴論ですかね?皆さんはどう思われますか。
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「忘れられない」編 フランス大使館の標識

2024年03月05日 07時54分09秒 | 忘れられない

 南アフリカのケープタウンのホテルの隣にフランス大使館がありました。ふと標識を見ると自由Liberte・平等Egalite・博愛Fraternite と書いてありました。(写真)フランス大使館は東京にもあり珍しい存在ではありませんが、私は初めてでした。したがってこのような言葉が書かれていたとは知りませんでした。フランスは少し嫌いなところがありますがやはりすごい国だなー、と思うと同時にアパルトヘイトの時代にここを通りかかった南アフリカの人たち(黒人、白人を問わず)がこの標語を見て何を思ったであろうかと妄想していました。フランスのパスポートにもこの標語が書かれているのかなー、と思いながら、私のパスポートの表紙にある天皇家の家紋を思い、俺はいまだ「ナンジシンミン」かー。
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「忘れられない」編 トレヴィア58 バスク料理

2024年03月02日 07時56分02秒 | 忘れられない

 わたくしはあまり食べ物の紹介をしないのですが、このバスク料理はなぜか印象深く記憶に残っています。2回目だったのでサグラダファミリア内部の観光をやめて、近くのカフェ的なところで添乗員の方に案内されていきました。そこでバスク(注)料理をいただきました。
バスク料理の中で、最も人気のある料理の一つ「ピンチョス」です。小さく切ったパンに食材を載せて、串や楊枝で刺しているのが特徴です。

(注)スペイン領に約75万人、フランス領に約10万人いるヨーロッパ最古の少数先住民族。スペインでは独立国家を目指す人たちも。
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「忘れられない」編 トレヴィア 57 エチオピアの物貰い

2024年02月28日 07時55分06秒 | 忘れられない

エチオピアのセミエン公園で宿泊したコテージの部屋にこのような文章がありました。子供に物をあげないようにという趣旨のようです。エチオピアではむやみに物・お金をせがむ人が多かったように思います。前回のブータンではそのような人が一人もいなかったせいか特に印象深く感じました。大学生が授業料をくれと言ったのには驚きでした。普通の女性が胸を押さえ病気なのでお金をくれという状況は複数回ありました。教会を出たところで「ソック・ソック」という子がいました。何かというと教会では靴を脱いで入るので汚れた靴下をくれというこのようでした。私の旅行では物ねだりが最も多かった国です。 
 しかし、ここセミエン公園では物を売ろうとする子はいましたが、お金をねだる子はいませんでした。
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「忘れられない」編 トレヴィア 56 ブータンの王

2024年02月25日 07時53分41秒 | 忘れられない

前回ブータンの王様について触れたのでついでにもうひとつ。 
写真はブータンの首都ティンプーにある伝統技芸院の教室にあった張り紙です。この英文を英語に堪能な同行者に訳してもらい、その後私がこの文章の下にあるメッセージの作者の名前を音読した時、この室内にいた生徒たちが一斉に立ち上がり何か叫びました。私は一瞬何が起きたのか分かりませんでした。どうやら私が音読した名前は王で、彼らは「王様だ、この壁にある王様の写真を撮れ」と言っているようでした。ブータン人の国王に対する敬愛の念については事前に書物では知っていましたが、ここで初めて肌で実感しました。
写真下は生徒たち。
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「忘れられない」編 トレヴィア55 ブータンの交通

2024年02月22日 07時54分37秒 | 忘れられない

 一見トレヴィアの様で深い意味のあるもの5つ目
ブータンでは1960年までは車が通れる道路はありませんでした。したがって勿論車も一台もありませんでした。
現在は車も通行しています。写真は首都ティンプのメインストリートです。車も見えますね。御堂のような建物がありますが、ここに警察官がいて交通整理をします。以前ここに信号機がありましたが国王の「景観上似合わない」との一言で廃止になり、現在ブータン国内には信号機はありません。ブータンの国民感情を象徴しているようです。
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「忘れられない」編 トレヴィア54 奴隷交易

2024年02月19日 07時54分16秒 | 忘れられない

一見トレヴィアの様で深い意味のあるもの4つ目
この写真はアフリカのベナン共和国(以前ダメホー王国)のギガ要塞博物館で見たものです。
この文章の意味は「アフリカの王たちは奴隷交易を初めから積極的に行ったのではないが、結果的には莫大な利益を上げた」ということのようです。この弁解は事実と異なるものです。実際は当時のアフリカ諸国の王たちが積極的に奴隷狩りをしてヨーロッパ諸国の商人に売り鉄砲などの武器を手に入れていたのです。しかしこのような言いわけが書かれているところをみると一定の説得力を持っているのでしょうかね。そのためこの地のダホメー王の末裔が現在も一定の権力を持っているのかも。
 奴隷狩りの跡をベナンの人口2万人の湖上村ガンヴィエ(写真下)に見ることができます。
このような湖上の不便なところに2万もの人が生活している理由は、この地の奴隷交易国家ダホメー王国の奴隷狩りから逃れるためでした。それではなぜ湖上なら安全だったのでしょうか。それはダホメー王国の宗教(ヴードゥー教?)には戦士が水の上で闘うことを禁止するというタブーがあったからでした。
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「忘れられない」編 トレヴィア53 オストラコン

2024年02月16日 07時53分27秒 | 忘れられない

写真はギリシアのアテネの柱廊博物館で見たオストラキスモスに使われたオストラコンです。オストラコンとはギリシア語で陶片を意味します。オストラキスモスとは古代ギリシアの政治制度です。一般に古代ギリシアの各ポリスは王政→貴族制→民主制と進みました。その典型的な都市がアテネ(古代名はアテナイ)でした。その貴族制→民主制の過渡期に非合法の独裁支配者が現れます。これをギリシア語でtyrannos といい日本語で僭主と訳しています。このtyrannos は英語のtyrant(暴君、独裁者)の語源になっています。しかしギリシアでは暴君的な意味はなくむしろ以後の民主制の発展に寄与している側面があります。しかし、民主制下ではこのtyrannosの出現 を警戒して市民は写真のようなオストラコンに危険と思われる人物名を書きアゴラ(市民広場)で投票し、アテネでは6000の票が出たときアテネ市から10年間追放されました。これをオストラキスモス陶片追放といいます。 このオストラキスモス制度で追放された人物で最も有名なのはペルシア戦争の時アテネ海軍を率いてギリシア連合軍を勝利に導いたテミストクレスです。したがってこのテミストクレスの名前が書かれたオストラコンを見ること多いのですが、この写真のオストラコンにはアテネの民主制の最高指導者とされているペリクレスの名前が書かれています。(注)これにはちょっと私もびっくりしました。
 もっともペリクレスは追放には遭いませんでしたが。しかし古代アテネ市民は後世、民主主義の元祖と言われる人にも批判の目を持っていたのでしょうね。
 ここでオストラコンを見て始めて気がついたのですが、名前が2つ書かれています。どうやら姓・名でなく二人の名前のようです。単記でなく連記でもよかったのでかね。詳しい人がいらっしゃいましたら教えてください。
 2500年も以前に文字で政治的態度を表明し政治を動かしていたとは、なんと古代ギリシア人はすばらしい人たちだったのでしょうか。識字率も当時の時代では群を抜いていたのでしょう。
 もう一つ、多数の人々を対象とした劇場、競技場を古代ローマ、ギリシアの遺跡に見ることができます。一人の専制君主、少数の支配者のためのものではない建造物です。非ヨーロッパ人の私はこの地域を旅行するたびにいつもコンプレックスと、うらやましさを感じます。
(注) 上のほうの文字ですが、最初の文字「π」はラテン文字で「P」で、三つ目の「P」はラテン文字で「R」にあたります。そこでperikles ペリククレスと読めます
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「忘れられない」編 トレヴィア52 トルコとギリシア

2024年02月13日 07時57分16秒 | 忘れられない

 一見トレヴィアの様で深い意味のある2つ目。
ギリシア旅行時トルコ領内にあるギリシア古代遺跡エフェソスに船で向かいました。到着した港町はクシャダスです。港に下り立ったとき面白い物を見つけました。(写真)そうなんです”、When in Turkey ***Do what most Turkish people do.”  と書いてありました。直訳すれば「トルコに居るときは、多くのトルコ人がするようにしなさい」日本語では「郷に入ればば郷に従え」となるのでしょうか。普通ならば” Welcome to Turkey”「トルコへようこそ」だと思うのですが。
 そこで私流にこの謎解きをして見ます。この謎解きのキーワードは「ギリシアとトルコは犬猿の仲」と思います。添乗員の稲葉さんが面白い話しをしてくれました。煮出しのトルココーヒーは有名ですが、全く同じものがギリシアのもあります。そこでギリシアでトルココーヒーをくださいというと突然不機嫌になりそんなものはありませんというそうです。
 不和の原因はどこかの国と同じように歴史問題があります。その問題は長くなるので省略します。
ここクシャダスは古代ギリシャ遺跡のエフェソスの入り口なので、わたくしたちのようにギリシア旅行の時に立ち寄る人が多いのでここはトルコだと強調したいのだと思いました。皆さんはどう思われますか?
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