風 雑記

建築とその周辺で感じたこと、思ったこと

御領の家

2020-04-11 16:04:47 | 日記

4月になり、工事監理中だった建物が完成してきましたのでご紹介したいと思います。

熊本地震が発生してから、しばらく住宅の依頼はありませんでしたが、3年経ったころから増えてきました。やはり何らかの思いがあって風設計室に設計依頼される方ばかりなので、緊急に必要な住まいづくりに向いていない事務所であることを分かっておられるのでしょう。

1994年(平成6年)に完成した家です。当時周辺は田んぼと畑に囲まれた中、ポツンと別荘の様な雰囲気でご夫婦と子供2人の住まいでした。屋根は四角方形ですが中心を少しずらし変形させ、リビングはそのままの伸び伸びした空間になっています。2人の子供さんたちは小さい頃は友達を呼び走り回って遊んでいたと聞きました。

 

それから25年が経ち、周辺は住宅が建ち込み昔の面影はなくなってしまいました。家の西側の樹木は大きく茂り、周辺住宅街に場違いの様な雰囲気で雑木林の中に佇んでいます。

当時の子供さんが結婚され、子供さんが生まれ、2世帯同居の増改築の相談があり伺ったのですが、周辺のあまりの変わりように道に迷ってしまいました。

最初の住まいは床面積が50坪ほどあり、広いのですが少し個性的屋根デザインのため、2世帯同居として増改築は難しく、暮らしの楽しさにつながり難いと判断しました。

そこで、25年前の敷地計画で南西部分は分筆して、家をもう一軒建てられるように考えて配置していましたので、子供さん家族の家を新築、緩やかに親夫婦の家とつながるようにし、将来はどちらかの家を貸すことも出来るようにすることを提案しました。建築費用は増えますが2世帯隣居の方が暮らしの気遣いもお互い少ないかと思いました。

新築の家は南側に隣接住宅が近いので、太陽熱空気集熱システムの「そよ風」を取り入れました。そのことで南側の日差しが家の中に届かなくても集熱空気が家全体を温めると共に換気してくれます。冬は乾燥もし易いので洗濯物は室内干しで良く乾き、床はほんのり暖かく小さい子供さんには快適だと思います。

工事中に赤ちゃんが誕生し、新しい家は家族4人の暮らしのスタートとなりました。玄関ポーチの塗り壁にはご家族4人の手形が記念に残されました。

以前設計した住まいで育たれた家族の住宅設計依頼は設計者冥利でとても嬉しいことです。新たな未来へと願いを込めた住まいがまた一つ完成しました。


2019~2020

2020-01-07 17:58:59 | 日記

明けましておめでとうございます。

昨年6月のブログから半年過ぎてしまいました。2019年前半は設計に追われ、後半は棟上現場が2か月で4件あり、2020年もしばらくは工事監理で走り廻ることになります。

 阿蘇の現場

熊本県食肉衛生検査所

 不知火の現場

 沖新町の現場

昨年木造建物着工が5件続き、風設計室の仕様に慣れてないところが3社あったため、工事監理と言うより、組み方や金物、屋根廻りの納まり指導で、毎日のように屋根に登り職人さんに指導と言いながら一緒に作業をしていました。

木造の木組の面白さは木材の太さと力の流れを考える事にあります。菊池の現場は規模が大きく、広い空間が必要な部屋があるため4寸角の柱4本組にし、梁材を挟み込む組み方にしています。これは一本の柱を太くしても交差する梁材の仕口で断面欠損が大きくなるからです。それを避ける為4本組にすることで梁の組み方が自由になります。組む部分はボルトでは無く堅木の込栓(30mm角)を使います。2方向からの込栓が入ることで非常に強固な仕口が出来上がります。

 4本柱部分

沖新町の住宅は鉄筋コンクリート壁と木造の組合せです。敷地が海岸から500M程の干拓地で風が強く、3年前の熊本地震への対策も考慮しました。鉄筋コンクリートの壁を平面的にT字型に入れ、反対側の角には薪ストーブの耐火壁としてコの字型RC壁を組み込みました。(コンクリート壁と木造の組合せは家具ショップ「Y’sDAY」を見ての気に入っての依頼も理由の一つです)RCと木造の混構造的要素はありますが、木構造で成立する設計になっています。

  

冲新町の住宅 左RC壁と木組

これから4軒とも3月完成に向け工事が佳境に入って行きます。現場は後戻りが出来ないので、監理は先手先手で指示を出します。各現場が今何をやっていて、次の作業は何かを予想し、設計内容で間違いそうな部分は何処か考えます。

 

阿蘇の住宅

菊池市七城町 熊本県食肉衛生検査所(プロポーザルコンペ選定)

 

右側が工事中の不知火の福祉施設、中央は8年前建替えた喫茶店

 沖新町の住宅

それぞれ思い入れがある建物なので完成が待ち遠しく、楽しみです。基本設計から実施設計、工事監理と作業は一つ一つ煩雑な部分はありますが、建て主の喜ぶ顔と建物の完成を見ることが、一番の喜びで、設計者冥利に尽きる瞬間です。

これから完成をブログで紹介出来る様に頑張ります。


東京06.14-16

2019-06-19 18:03:38 | 日記

5年ぶり東京を訪れました。目的は3つ、東京に居る次男と会い住んでいるところを見てくること、2つ目は以前設計した住宅の10年点検、3つ目はICU(国際基督教大学)でのヴォーリズ建築文化ネットワークの講演会と建物見学です。

14日は時間があったので青山から原宿経由し渋谷まで歩き、その後お茶の水に行きました。隈研吾設計の国立競技場(木のルーバーがチープに感じたのは私だけ?)を見て、表参道(沿道のスチール腰掛に外人を含む多くの人が鈴なりに座っていて、平日と思えないほど人が多かった。明治通りとの交差点角のビルは23才の時丹下健三&ウルテックを半年手伝ってたビルで当時のままでしたが、あの頃の落ち着いた原宿とは別の街です)、代々木競技場(丹下健三設計)は外部改修中で足場が掛かり、建物の形状に合っているところが面白い。

今回、ヴォーリズ関係の用事もあり、「山の上ホテル」に宿泊したいと思ってましたが、4月~11月まで全面改修の為宿泊不可。「山の上ホテル」は大学時代良く見かけた記憶が...と思っていましたが、写真(上)手前の建物が日大理工学部8号館で、大学4年間、週に3回は屋上でスキー部のトレーニング場所。「あれ!隣り?いつも塔の部分を見てたのか」とあまりの曖昧な記憶に苦笑い。次宿泊したいと思います。

15日は生憎の雨天。友人と武蔵境駅で落ち合い、ICU(国際基督教大学)へ、正門側は渋滞が酷く、タクシーの運転手が気を利かせてくれ、細い住宅街の道から裏門に案内してくれました。鬱蒼とした森に囲まれた広大なキャンパスで、建物相互も広く伸びやかで恵まれた環境です。5分程歩いて会場のデュフェンドルファー記念東棟の講演会場に着き、会場はほぼ満員で山形先生の解説とICUの先生の講演を聞きました。

ICUの本館は元々は旧中島飛行機三鷹研究所(戦闘機「隼」の研究所)をヴォーリズが大学校舎にコンバージョンしたものです。現在も全ての授業を本館で全て行っているとの事です。

ヴォーリズはICUの建学に強い思い入れがあったそうで、1949年顧問建築家に専任された時、目に涙をうかべながら「私が日本で四十年にわたり建築に携わってきた経験は、この偉大な大学を建てるという仕事のために神様が私に与えてくださった準備であったのだと感じております」と語ったそうです。

ヴォーリズはYMCA精神のもと宣教活動をして、個々のキリスト教宗派を超えた宣教を生涯貫いてます。、国際基督教大学は彼のミッションの集大成との思いがあったのでしょう。ICUの為アメリカへ行き募金集めも行ってますが、当時敵国だった日本での大学設立には募金集めも困難を極めたようです。資材のインフレもあり、本館は旧軍事施設のコンバージョンで対応せざる得ず、予算も厳しかったようです。

ヴォーリズ事務所で手掛けたデュフェンドルファー記念館(1958)、シーベリー記念礼拝堂(1958)はコンクリート打ち放しのモダニズム建築で建てられています。東京事務所が設計を担当したとの事ですが、戦前の親しみやすく温かみを感じるヴォーリズ建築とは少し異なる印象です。ヴォーリズ事務所のスタッフもコルビジェやミース・ファン・デル・ローエのモダニズム建築の影響を強く受けていたと思いました。

シーベリー記念礼拝堂

1957年ヴォーリズはクモ膜下出血で倒れます。デュッフェルドルファー記念館、シーベリー記念館の竣工は見れてないことになります。戦時中「一柳米来留」と改性日本に帰化して日本に留まりますが、軽井沢での暮らしは厳しく体力の衰えもあったようです。そんな中、戦後の復活を象徴するICUは大切な大学であり仕事だったと思います。

ヴォーリズが倒れ、1959年アントニン・レーモンドがICUの顧問建築家に就任します。ICUとはヴォーリズとの絆は彼の個人的魅力と熱い信仰心だったのかもしれません。

その後はレーモンド事務所、前川事務所、日建設計、隈研吾などの建築が建てられ、神戸女学院大学や関西学院大学のような統一された雰囲気とは全く異なり、好き勝手な建物が乱立している感じで、ヴォーリズの描いたキャンパス計画とは全く異なるでしょう。

ただ、ICU(国際基督教大学)を見ることが出来たのは、W・M・ヴォーリズ氏の生涯を知る上で貴重だと思いました。最近出版された吉田与志也氏の「信仰と建築の冒険」には戦前のヴォーリズの活動が良くこんな資料が残っていたと思う程詳しく書かれています。

ICUを見ながらヴォーリズの最後の思いが形として実らなかったことが残念でした。


武雄・嬉野

2018-12-19 19:34:28 | 日記

武雄市図書館・歴史資料館                       

12月7、8日に佐賀の嬉野温泉「大正屋」へ行きました。曇り空で今年一番の寒波らしく北風が冷たい二日間でした。

途中柳川で昼食、ウナギのセイロ蒸しを30数年ぶりに食べました。美味しかったのですが、以前食べた時は中段にもウナギがあったような、店の場所と店名はおぼろげながら覚えていたと思いましたが、遠い記憶なので。

嬉野に行く前に「武雄市図書館・歴史資料館」に足を延ばしました。公立図書館に蔦屋書店が併設され話題のところです。

RC造と木造(集成材)の混構造ですが、内部空間は2階図書室と一体となった吹抜けが濃密な空間を作っていて、とても見応えがありました。スターバックコーヒーがあり、多くの人で賑わっていてます。他にも幾つもの別室図書室もあり、多くの人が思い思いに腰かけて本と空間を楽しんでいました。

書籍数も充実しており、大人から子供まで楽しめる空間です。近くに住んでいれば時々通いたくなる図書館です。外観的イメージより、内部空間が魅力的で久しぶり感動しました。

今回の目的は吉村順三設計の嬉野温泉「大正屋」に宿泊することで、吉村順三は若い時から好きでディテール集を飽きるほど見ながら参考にしていた時期があります。アントニン・レーモンド、吉村順三、奥村昭雄へと繋がる建築が今も設計の羅針盤になっています。

九州に居ながら「大正屋」を訪れたのは初めてです。現在自宅設計を依頼されている施主の方に、友人である家内が吉村順三の本を貸して読んでもらったところ、すぐ、ご家族で「大正屋」に泊まりに行かれたので、私自身が「大正屋」に知識が無くてはマズイと思い急きょスタッフ研修も兼ねて来ました。久しぶり吉村空間に接するチャンスになって依頼主のおかげです。

離れの特別室に泊まりました。10帖の和室と縁側、茶室もあり和風の鬱蒼とした庭に面し落ち着く部屋でした。木製建具と引込障子は吉村建築ディテールの基本ですが、太目で桝目の大きな障子は男性的で野太く、繊細とは言えないのですが安心感があります。多くの旅行客が宿泊することを考えれば、この方が傷みや劣化は少ないのかもしれません。

障子を引き込むと鬱蒼とした庭と一体になったような心地良さが部屋中に満ちてきます。次の間や洗面、浴室などに細かに気遣ったディテールに設計者の優しさと思いやりを感じます。温泉は大浴場が二か所、四季の湯と滝の湯そして部屋風呂(桧風呂)、中規模の滝の湯は浴槽のガラス越しに池が見え、浴槽の水面と池の水面が10cm程で錦鯉が目の前を泳いでいて視覚的な楽しさがあります。

夕食は品数も多く美味しく丁度良い満足感、朝食も品数は多いのですが完食なのに腹八分の満足感で、そのことがとても不思議でした。旅行者にとっては次の日の行動がし易く有り難い気がしました。

一番感心したことは建物を大切に使われている事です。当然建物を目的に来る方も多いでしょうし、木造の客室を常時快適に維持するのは大変だと思います。木造は湿気対策が難しく、かび臭くなったりますが、時を経てより味わいが増すように常に手入れをされていると感じました。

スタッフの対応も良く気遣いが感じられます。ただ一番奥の部屋だったからか、食事の配膳の間隔が長く待ち長かったことがだけ少し残念でした。

また来てみたい宿です。


ヴォーリズ建築 佐藤久勝

2018-02-04 14:25:26 | 日記

モード・パウラス記念資料館

以前のブログにも書いていますが、ヴォーリズ建築を詳しく調べるきっかけは2006年慈愛園パウラス宣教師館の登録有形文化財の登録申請からです。ヴォーリズの名前は以前から知っていましたが理事の方がこの建物はヴォーリズ建築のはずだと言われたことから接点を調べ始めました。

九州学院 ブラウンチャペル

熊本には九州学院ブラウンチャペル、ルーテル学院本館(旧九州女学院)、ルーテル熊本教会(ヴォーリズ建築事務所時代の建物)の3つがありますが、戦前に手掛けた約1500棟の建物は日本全国から韓国(梨花女子大学)にまで広がっています。

「ヴォーリズの建築」山形政昭著、「近江の兄弟等」吉田悦蔵著などを読み、ヴォーリズ氏の人間的魅力と建築に関心が深まり10冊ほどの書籍を読みました。

2008年 東京で仕事をする機会があり月に2回通っていたので、汐留ミュージアムの「ウイリアム・メレル・ヴォーリズ展」を見、軽井沢の方へも足を運びました。

2011年1月 近江八幡、大阪の大丸心斎橋店を訪ねました。

 同年11月 ヴォーリズ建築文化全国ネットワーク東京大会に参加、明治学院大学礼拝堂と東芝山口記念館(旧朝吹邸)を見学、その時山形政昭教授にパウラス記念資料館の資料を見て頂きました。

2017年(昨年) 豊郷小学校、関西学院大学、神戸女学院、大阪教会、東華菜館、京都御幸町教会、同志社大学を見学。

ヴォーリズ建築はプロテスタントのキリスト教的生活の実践を元にしたヒューマニズムが基本にあり、「強」「用」「美」と使う人の健康や心の安息のための建築であることはどの建物からもその空間の中に居ると感じます。

しかし、実際に多くのヴォーリズ建築を見ていく中で、特に私の心に残る建物が幾つかあり、そのことが気になっていました。

2011年 大丸心斎橋店を見た時デザインの質とディテールの確かさに驚きと感動がありました。伝記の中でヴォーリズ氏が優秀なスタッフが心斎橋店を担当していて、完成前に亡くなりとても悲しんだことを読んでいましたので、実際建物見て本当に素晴らしい才能の持ち主だと感心しました。

そして、昨年9月近江八幡から大阪、神戸を訪問した時、大阪教会を外部から見て(葬儀中で内部見学不可)、関西学院大学を訪問、田淵院長のご案内で神戸女学院大学を少しだけ見学させてもらいました。有名な中庭は写真で見る以上に雰囲気と建物スケール感、ディテールデザインが素晴らしく、完成度の高さに驚きました。どうしてももう一度ゆっくり見たいと思い、12月の見学会に申込み再訪しました。大阪教会にも事前に連絡を取り見学しましたが、どちらの建物も予想以上に素晴らしく見応えがありました、ヴォーリズ展に関われたことで巡り会えた久しぶりに感動した建築です。(旅先では必ず建築を見て歩きますが、何度でも見たい建築に出会うことは少ないです)

日本基督教団 大阪教会

神戸女学院大学

これらの建築がヴォーリズ建築の中でも群を抜いている事が少し不思議な気がしていました。最初はヴォーリズ事務所の中に優秀なスタッフが数名居られたのかなと思っていましたが、早逝(1932年没 44才)された優秀なスタッフが佐藤久勝氏で神戸女学院も担当していたと知り、担当された建築を一粒社ヴォーリズ建築事務所の方に尋ねると、私の気になっていた建物はほとんど彼の担当建物でした。

1929~1933年の間に、東芝山口記念館(旧朝吹邸)、関西学院大学、大阪教会、大同生命本社ビル、大丸ビィラ、京都大丸店、東華菜館、神戸女学院、大丸心斎橋店のデザインを担当し、最後の二つの建物は1933年に彼が亡くなった一年後に完成しています。ヴォーリズ建築の評価(花とも言える)を高めた建築は佐藤久勝氏が担当したものでした。

これらの建物はヴォーリズという天才と佐藤久勝という建築の天才が出会ったことで生まれた傑作だと思います。佐藤久勝氏は滋賀県商業学校を卒業しヴォーリズ事務所に入社していますので、建築的な専門教育を受けておらず、ヴォーリズ事務所でヴォーリズ精神と建築を学んだ事になります。彼は天性の才能の持ち主だったのでしょう。吉田悦蔵氏は「立体芸術の天才」と言い、ヴォーリズ氏は「芸術的ドローイングと独創的デザイン」「最も才能に恵まれた、多芸多才の天才」と賞賛しています。

彼の最高傑作と言える大丸心斎橋店と神戸女学院はどちらもスケールの大きいプロジェクトで同時に設計監理が進行しています。ヴォーリズ事務所は残業や日曜仕事は禁止されていたそうですが、多くの仕事を完成させるにはスタッフは一度事務所を出てまた戻ってくることもあったと聞いています。佐藤久勝氏は寝る間も惜しんで心斎橋と神戸女学院の設計に全力で打ち込んでいたと思います。建築は完成してしまえば作り直しが出来ない訳で、力を尽くせば尽くすほど建築が魅力を放つ事を知っているからです。彼はこの二つの建物に全ての力を注ぎ込みたかったと思わずにいられません。命までも。勝手な想像ですが、建物全体がそう語り掛けてくる気がします。

佐藤久勝は1891生まれで村野藤吾も同年生まれです。同世代の二人が同時期に関西で仕事をしています。お互いに天才的な才能を持った同士として建築を通して感じ合うものがあったような気がしますが...