僕の消灯時間まで

ブログの引越しをしました。
愛する方々へ、遺書のように。

僕の真ん中に

2015-09-02 00:19:38 | 日記
人の心の真ん中には、何があれば良かろうか。

人は、必ず一度だけ生きて死ぬ。
誰もが払うべき代償。

足の引っ張り合いなど、とても馬鹿げたことだ。
とても無駄な時間の使い方。

「時間を無駄にしてはいけないよ。」
と言うと、少し軽い。
「命を無駄にしてはいけないよ。」
と言うと、数グラム重くなる。

命は数値化できる。
それを寿命というのだから。
重さは平等。
そこは数値化しなくてもいい。

時間とは命。

でも、その残りの時間は誰にも分からないこと。
明日かもしれないし、もうこのまま寝たら起きないのかもしれない。

冬に控えた講演会のことを考える時間が増えた。

人が最期に欲しがるのは「時間」なのではないかと想像した。

数年という時間かもしれないし、数十年かもしれない。
「サヨナラ」
と言う、少しの時間だけかもしれない。

時間とは命。

つまり最期に欲しがるのは、命と言い換えられるけれども、それはなんとなく、やっぱり違う。
同じことなんだけど、少し違う。

感情と情緒のように、違う気がする。

情緒とは喜怒哀楽のような感情を生む心の動きに思う。
情緒とは感情のお母さん。

僕の心の真ん中には、情緒があればいい。

夏が終わってしまったことよりも、この雨を楽しんだり、秋の楽しみを探したり、果物を食べてみたり。

仕方ないのだ。

そして、「つもり」を自分勝手に決めつけてはいけないなぁと思えるようになった。

例えば、喜ばせるつもりだったことに腹を立てては傷つける。
「パパが喜ぶかと思って。」
「ママが喜ぶかと思って。」
子どもは大抵そんな気持ちで何かをする。

アレコレ考えずに、風が吹くように、水が流れるように、喪失感を想像の中で携えていれば。

きっと、この世は平和なんだろうな。

僕の心の真ん中には、情緒があればいい。
コメント (4)
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