素人、考古学・古生物学を学ぶ

人類の起源・進化・移動や太古の昔、日本に棲んでいたゾウ類にも関心があり、素人の目線で考えてみます。

絶滅したナウマンゾウのはなし(4)

2022年01月09日 09時28分00秒 | 絶滅したナウマンゾウのはなし
     絶滅したナウマンゾウのはなしー太古の昔 ゾウの楽園だった日本列島-(4)


  〈(4)のまえおき〉
   幕別町忠類には、ナウマンゾウの化石発掘を記念して作られた(1988年8月にオープン)立派な「忠類ナウマンゾウ記念館」があります。記念館の1階中央に、旧忠類村晩成地区から産出したナウマンゾウの全身骨格標本が展示され、多くの来訪者を出迎えてくれています。

  展示されている標本は、レプリカ(複製)です。本物は北海道博物館に保存されています。記念館の建物は、太古のロマンを秘めたそしてナウマンゾウの姿を模してデザインされたものだと言われています。記念館の正面入り口は頭部、中央部分はドーム型をしていますが、それがゾウの胴の部分だそうです。

  
  (4)忠類ナウマンゾウの全身骨格標本について

 1)ところで「ゾウ」といえば、アフリカゾウ然り、インドゾウ然り、暑い地域に生息する大型哺乳動物であると考えられがちですが、太古の昔、北緯42度34分の北の大地、冬には極寒の地と化す北海道十勝平野(幕別町忠類地区)でゾウが生息していたことを知ったときは、全身に衝撃が走るほどの驚きでした。

 ゾウの化石の発見や発掘は、何も北海道の忠類だけの話ではなく、忠類より数年以上も前から長野県の北端の寒冷地、黒姫山の麓の信濃町(長野県上水内郡)にある野尻湖の湖底からも、ナウマンゾウやヤベオオツノジカなど大型哺乳類の臼歯や肢骨の化石が想像を超える量で見つかり、いまも発掘が続けられています。

 野尻湖の湖底発掘は、信州大学教授だった鈴木誠(1914-1973)を団長として広く一般からも発掘希望者を募って、1962(昭和37)年3月から第1次の本格的な発掘作業が始まりました。それ以来、かれこれ半世紀以上が経ちましたが、信濃町教育委員会の後援もあって、野尻湖発掘調査団による発掘は一年おきに現在も継続的に行われています。

 2)最近では、2018(平成30)年3月に第22次の発掘調査が行われました。第22次発掘は、「ナウマンゾウと野尻湖人のなぞに挑戦しよう」と発掘の戦略的目標を掲げて、立が鼻遺跡発掘地北側Ⅰ地区の地層を調査し、この地域がキルサイト(狩り場)であった証拠を発見するために石器やナウマンゾウ、ヤベオオツノジカ(Sinomegaceros yabei)(3)など大型の哺乳動物の骨格化石の発掘、野尻湖人(旧石器人)の生活の痕跡を発見しようという狙いで行われました。

 長野県では、信濃町柏原、長野市、中野市、上田市、青木村、小諸市、佐久市、佐久穂町、南牧村、富士見町などから県内広域にわたってナウマンゾウやヤベオオツノジカの化石が見つかっています。とりわけ野尻湖の湖底(4)は、いまもナウマンゾウなど大型哺乳動物の化石の宝庫といわれています。

 1969(昭和44)年7月26日、ナウマンゾウの臼歯(奥歯)化石二つが北海道忠類村字晩成の農道工事中の現場から偶然に発見されたのをきっかけに、その後、緊急発掘から本発掘まで行われ、ナウマンゾウ1頭分の全骨格の約80%に当たる化石が産出されました。

 発掘された化石は、ナウマンゾウの全身が分る骨格標本として復元するために幾つもの木箱に丁寧に収められてから、コンテナに詰め込まれました。

 3)1970年7月3日、トラックに積み込まれたコンテナの化石は、何万年もの時を刻んだ忠類村晩成の地を離れて、同年7月14日に亀井節夫(1925-2014)が待つ京都大学の標本室へ運ばれ、同教室の樽野博幸らによってクリーニングや整形が行われました。

 涼しい北海道から蒸し暑い夏の京都で3か月を過ごし、その後同年10月14日には全身骨格標本の復元作業のために京都科学標本社伏見工場に移されることになりました。1972年1月8日、復元が完了し、1月10日には舞鶴港から懐かしい北の大地に向かいましたが、それは、永い眠りから覚めたナウマンゾウのあの故郷忠類村ではありませんでした。

 1週間後の1月16日、札幌の北海道開拓記念館(現北海道博物館)に到着した後は、同博物館で展示、管理されています。確か、いまも「プロローグ北と南の出会い」として、北のマンモスゾウと南のナウマンゾウとが、向かい合うように展示されている筈です。

 その後、1988(昭和63)年8月に村には立派な「忠類ナウマン象記念館」、写真(4)がオープンし、見事なナウマンゾウの全身骨格標本のレプリカが作成・展示されることになりました。ナウマンゾウの化石が発見されて以来、前述のように、忠類村は「ゾウのいた村」として、全国に知られるようになり、一時は多くの見物者で賑わう日々が続いたと聞いています。

 平成6年村は、幕別町に編入合併されましたが、いまもナウマンゾウは、幕別町の観光の目玉として大切にされています。町役場には、経済部商工観光課が置かれており、幕別町観光物産協会の窓口(事務局)となっています。町は、「ナウマン象のまち」を「売り」に集客に力を入れているようです。







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