絶滅したナウマンゾウのはなし―太古の昔 ゾウの楽園だった
日本列島ー(3)
〈(3)のまえおき〉
忠類で発掘されたナウマンゾウは、当時どんな仲間たちと言いますか、どんな動物群と一緒に 生息していたのかを考えて見るのも楽しいものです。それを知るには、ナウマンゾウの化石の発掘をおこなうことで、同時に発掘された動物の化石を調べることで知ることができるのです。
忠類において、一緒に発掘された他の動物の化石は、発掘に携わった専門家の先生方によりますと、当時ナウマンゾウと一緒に生存していた動物群はかなりいたと考えられるようです。
たとえば、オオツノジカ、ヘラジカ、ムカシニホンジカ、ヤギョウ、サル、カモシカ、そしてクマなど多種にわたってそれらの化石が発見されています。
これまでナウマンゾウは、温暖、ないし暑い地域で生息するものと考えられていましたが、忠類をはじめ寒い北海道や長野県野尻湖の寒冷地においても、多数の化石が発見されてており、われわれの常識を覆してしまいました。
(3)忠類産ナウマンゾウの履歴
1)日本列島全体で考えるならば、ナウマンゾウが生息していた時代は、更新世中期(中期更新世)後半から更新世後期(後期更新世)の終わり頃までだと考えられています。
大変大雑把な話になりますが、いまから40万年前ないし30万年前から、2万年前ないし1万5000年前頃までの期間、ナウマンゾウは十勝平野を含めて日本列島のほぼ全域において、寒冷の氷期には南へ、高温・温暖の間氷期には北へ移動しながら生息し、平原地帯では悠然と闊歩するナウマンゾウの群れが至る所で見られたに違いありません。
ナウマンゾウは、荒野に生い茂るイネ科のチカラシバ(Pennisetum alopecuroides)やよもぎ(Artemisia princeps)などの草やトドマツなど一部針葉樹、そしてオニグルミ、ハンノキ、エゴノキなど広葉樹やそれらの実を食べて生息していたであろうと推測できます。
日本列島に渡来したゾウは、専門家の間ではシガゾウが120万年前頃から100万年前頃、トウヨウゾウが50万年前頃、そして少しばかり大雑把な話なんですが、ナウマンゾウは40万年前頃ないし30万年前頃ではないか、とされています(小西省吾・吉川周作 「トウヨウゾウ・ナウマンゾウの日本列島への移入時期と陸橋形成」、『地球科学』・53巻125-134ページ、1999年)。
しかし、ごく一部には、70万年前、いまでは東京のど真ん中をナウマンゾウが闊歩していたであろうことを伝える文献もあります。
2)ところで、「更新世」という地質時代ですが、通期(前期から後期まで)でいえば、2009年6月以降は、国際地質科学連合(IUGS)によって、258万年前から1万1700年前までを指すと定義されています。
今から半世紀前、1969(昭和44)年、北海道広尾郡旧忠類村字晩成で発見され、発掘されたナウマンゾウの骨格化石について、その生息年代の測定が行われたのですが、専門家の先生方の研究によりますと、(1)でも述べましたように、化石の産出層準が屈斜路羽幌テフラの下位にあることから、「約12万年前頃」には、すでにナウマンゾウが忠類地域に生息していたのではないか、とする説が有力なんです。
たとえば、赤松守男・奥村晃史「十勝平野忠類におけるナウマン象化石産出地点」・『第四紀露頭集-日本のテフラ』(119)・日本第四紀学会(1996)および高橋啓一・北川博通・添田雄二・小田寛貴「北海道、忠類産ナウマンゾウの再検討」・『化石』84号・2008、78頁などが、素人にも大変役立つ文献です。
旧忠類村で発見されたナウマンゾウの臼歯の化石が、何時頃のものなのか、つまりナウマンゾウが生息していた時代がどのくらい昔だったのか、それを推定することも古生物学者や地質学者には大切な研究の一つだと思います。
忠類産ナウマンゾウの化石の場合、丸ごと1頭(一つの個体)が発掘された場所の地層を分析することで、ある程度までは生息年代を推測することも可能であるというのが専門家の見方です。
発掘に当たった当時の専門家の方々の一部の見立てでは、発掘されたゾウの化石が、およそ12万年前頃までは生息していたであろう、ということでした。
しかし、発掘された忠類産ナウマンゾウの化石の絶対年代を正確に知るには科学的な測定が必要です。その測定にあたっては、当該化石の包含層から同時に発見された、樹木などの植物遺体や樹木化石片を採取して、それらを放射性炭素の同位元素測定を行う方法があります。一般にいう「炭素14法(14C法)」という測定法です。
3)忠類産のナウマンゾウの化石もこの測定法を用いて測定されましたが、42,000年以上前という値は出たのですが、それ以上前はスケールアウトしたため、測定が出来なかったと聞いています。
そこで、忠類のナウマンゾウの発掘を担当していた旧北海道開拓記念館開設準備事務所が1970(昭和45)年10月26日、第3次発掘調査(ナウマンゾウ化石関連遺物発掘調査)を行った際に、北大理学部の湊正雄(1915- 1984:地質学者、北海道大学名誉教授)、秋山雅彦(現在、信州大学名誉教授)の両氏に忠類産ナウマンゾウの生息年代の測定を依頼しました。
両氏は木材化石を使ってアセチルブロマイドの可溶物残存率から、ナウマンゾウの化石の年代を測定する方法を採用しました。その結果は、1971年3月北海道開拓記念館から刊行された『ナウマン象化石発掘調査報告書』に、Ⅲ「ナウマン象化石第三次発掘調査研究報告」の7「木材化石のアセチルブロマイド処理による、忠類象化石の層位判定」(湊・秋山論文、1971)にまとめられて、公表されています。
湊・秋山論文(1971)では、忠類試料に関するアセチルブロマイド法による年代測定の結果、忠類地区にナウマンゾウが生息していた年代は約30万年前という測定値に落ち着いたことが結論として詳述されています。
4)論文(1971)の「結論」は、本章末に掲げた(文献)欄の(10)『忠類産ナウマン象―その発見から復原まで―』(1972)の20頁にもごく簡単にではありますが、「忠類ナウマン象に関連するこれらの年代は14C法によるものは、スケールアウトし、「42,000年以上前という値しか得られなかった」こと、また湊・秋山の「アセチルブロマイド法による年代測定」では、忠類ナウマンゾウの生息年代が30万年前と測定された旨、記されています。
文献(1972)の37頁に「忠類産ナウマン象の履歴書」として、発見者が工事作業をしていた恩田珺義氏と細木尚之氏の二人であったことをはじめ、発掘されたナウマンゾウの履歴、また古環境に関しても花粉化石、昆虫化石、油状物質、そして土壌等について、分り易く簡単にまとめて記してあります。
なお、日本列島におけるナウマンゾウの化石年代に関する秋山雅彦(信州大学名誉教授)の『名古屋大学加速器質量分析計業績報告書』(第1巻、67-71頁、1988・03)に掲載された論稿「日本列島におけるナウマンゾウ化石の年代」は、今後のナウマンゾウ研究には貴重な先行研究の一つと考えられます。
日本列島ー(3)
〈(3)のまえおき〉
忠類で発掘されたナウマンゾウは、当時どんな仲間たちと言いますか、どんな動物群と一緒に 生息していたのかを考えて見るのも楽しいものです。それを知るには、ナウマンゾウの化石の発掘をおこなうことで、同時に発掘された動物の化石を調べることで知ることができるのです。
忠類において、一緒に発掘された他の動物の化石は、発掘に携わった専門家の先生方によりますと、当時ナウマンゾウと一緒に生存していた動物群はかなりいたと考えられるようです。
たとえば、オオツノジカ、ヘラジカ、ムカシニホンジカ、ヤギョウ、サル、カモシカ、そしてクマなど多種にわたってそれらの化石が発見されています。
これまでナウマンゾウは、温暖、ないし暑い地域で生息するものと考えられていましたが、忠類をはじめ寒い北海道や長野県野尻湖の寒冷地においても、多数の化石が発見されてており、われわれの常識を覆してしまいました。
(3)忠類産ナウマンゾウの履歴
1)日本列島全体で考えるならば、ナウマンゾウが生息していた時代は、更新世中期(中期更新世)後半から更新世後期(後期更新世)の終わり頃までだと考えられています。
大変大雑把な話になりますが、いまから40万年前ないし30万年前から、2万年前ないし1万5000年前頃までの期間、ナウマンゾウは十勝平野を含めて日本列島のほぼ全域において、寒冷の氷期には南へ、高温・温暖の間氷期には北へ移動しながら生息し、平原地帯では悠然と闊歩するナウマンゾウの群れが至る所で見られたに違いありません。
ナウマンゾウは、荒野に生い茂るイネ科のチカラシバ(Pennisetum alopecuroides)やよもぎ(Artemisia princeps)などの草やトドマツなど一部針葉樹、そしてオニグルミ、ハンノキ、エゴノキなど広葉樹やそれらの実を食べて生息していたであろうと推測できます。
日本列島に渡来したゾウは、専門家の間ではシガゾウが120万年前頃から100万年前頃、トウヨウゾウが50万年前頃、そして少しばかり大雑把な話なんですが、ナウマンゾウは40万年前頃ないし30万年前頃ではないか、とされています(小西省吾・吉川周作 「トウヨウゾウ・ナウマンゾウの日本列島への移入時期と陸橋形成」、『地球科学』・53巻125-134ページ、1999年)。
しかし、ごく一部には、70万年前、いまでは東京のど真ん中をナウマンゾウが闊歩していたであろうことを伝える文献もあります。
2)ところで、「更新世」という地質時代ですが、通期(前期から後期まで)でいえば、2009年6月以降は、国際地質科学連合(IUGS)によって、258万年前から1万1700年前までを指すと定義されています。
今から半世紀前、1969(昭和44)年、北海道広尾郡旧忠類村字晩成で発見され、発掘されたナウマンゾウの骨格化石について、その生息年代の測定が行われたのですが、専門家の先生方の研究によりますと、(1)でも述べましたように、化石の産出層準が屈斜路羽幌テフラの下位にあることから、「約12万年前頃」には、すでにナウマンゾウが忠類地域に生息していたのではないか、とする説が有力なんです。
たとえば、赤松守男・奥村晃史「十勝平野忠類におけるナウマン象化石産出地点」・『第四紀露頭集-日本のテフラ』(119)・日本第四紀学会(1996)および高橋啓一・北川博通・添田雄二・小田寛貴「北海道、忠類産ナウマンゾウの再検討」・『化石』84号・2008、78頁などが、素人にも大変役立つ文献です。
旧忠類村で発見されたナウマンゾウの臼歯の化石が、何時頃のものなのか、つまりナウマンゾウが生息していた時代がどのくらい昔だったのか、それを推定することも古生物学者や地質学者には大切な研究の一つだと思います。
忠類産ナウマンゾウの化石の場合、丸ごと1頭(一つの個体)が発掘された場所の地層を分析することで、ある程度までは生息年代を推測することも可能であるというのが専門家の見方です。
発掘に当たった当時の専門家の方々の一部の見立てでは、発掘されたゾウの化石が、およそ12万年前頃までは生息していたであろう、ということでした。
しかし、発掘された忠類産ナウマンゾウの化石の絶対年代を正確に知るには科学的な測定が必要です。その測定にあたっては、当該化石の包含層から同時に発見された、樹木などの植物遺体や樹木化石片を採取して、それらを放射性炭素の同位元素測定を行う方法があります。一般にいう「炭素14法(14C法)」という測定法です。
3)忠類産のナウマンゾウの化石もこの測定法を用いて測定されましたが、42,000年以上前という値は出たのですが、それ以上前はスケールアウトしたため、測定が出来なかったと聞いています。
そこで、忠類のナウマンゾウの発掘を担当していた旧北海道開拓記念館開設準備事務所が1970(昭和45)年10月26日、第3次発掘調査(ナウマンゾウ化石関連遺物発掘調査)を行った際に、北大理学部の湊正雄(1915- 1984:地質学者、北海道大学名誉教授)、秋山雅彦(現在、信州大学名誉教授)の両氏に忠類産ナウマンゾウの生息年代の測定を依頼しました。
両氏は木材化石を使ってアセチルブロマイドの可溶物残存率から、ナウマンゾウの化石の年代を測定する方法を採用しました。その結果は、1971年3月北海道開拓記念館から刊行された『ナウマン象化石発掘調査報告書』に、Ⅲ「ナウマン象化石第三次発掘調査研究報告」の7「木材化石のアセチルブロマイド処理による、忠類象化石の層位判定」(湊・秋山論文、1971)にまとめられて、公表されています。
湊・秋山論文(1971)では、忠類試料に関するアセチルブロマイド法による年代測定の結果、忠類地区にナウマンゾウが生息していた年代は約30万年前という測定値に落ち着いたことが結論として詳述されています。
4)論文(1971)の「結論」は、本章末に掲げた(文献)欄の(10)『忠類産ナウマン象―その発見から復原まで―』(1972)の20頁にもごく簡単にではありますが、「忠類ナウマン象に関連するこれらの年代は14C法によるものは、スケールアウトし、「42,000年以上前という値しか得られなかった」こと、また湊・秋山の「アセチルブロマイド法による年代測定」では、忠類ナウマンゾウの生息年代が30万年前と測定された旨、記されています。
文献(1972)の37頁に「忠類産ナウマン象の履歴書」として、発見者が工事作業をしていた恩田珺義氏と細木尚之氏の二人であったことをはじめ、発掘されたナウマンゾウの履歴、また古環境に関しても花粉化石、昆虫化石、油状物質、そして土壌等について、分り易く簡単にまとめて記してあります。
なお、日本列島におけるナウマンゾウの化石年代に関する秋山雅彦(信州大学名誉教授)の『名古屋大学加速器質量分析計業績報告書』(第1巻、67-71頁、1988・03)に掲載された論稿「日本列島におけるナウマンゾウ化石の年代」は、今後のナウマンゾウ研究には貴重な先行研究の一つと考えられます。
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