絶滅したナウマンゾウのはなしー太古の昔 ゾウの楽園だった
日本列島(25)
第Ⅴ部 忠類にもマンモスがいた
(3) ナウマンゾウはマンモスと出会えたか
1)高橋らは、発掘地点の地層について、マンモスゾウの大臼歯は、ナウマンゾウの臼歯化石を包含していた地層よりも、層位が上で、ナウマンゾウの化石を発掘するために上の地層を取り除いた際に、その土を捨てた土砂の中から、たまたま発見されていた、という証言にも言及しています。この証言を得たことは大変重要なことだったと思います。
わたしが重要な証言だと思う理由は、マンモスゾウの臼歯かどうかは兎も角としまして、それ以前の問題として、忠類での第2次発掘調査から40年もの間、層位が異なる地層から産出されていた臼歯であることが分からないままだったことです。いままでに掘り出された化石骨との違い、たとえば色、艶、形の違いに気が付かなかったことがとても不思議です。
発掘された化石は、その場で専門家の先生方が相当念入りに検証されていた筈なのに、なぜ誰も臼歯の形態の違いに気が付かなかったのか、という点が問題なのです。素人からしますと、その点が全く理解できないし、不思議でならないのです。
また、高橋らは、論文(2008)において、マンモスゾウの下顎の臼歯と同定された忠類産化石は、ナウマンゾウが生息していた12万年前の化石より、相当新しい化石と見なされると述べています。したがって、高橋の鑑定からしますと、科学的年代測定云々は別にして、発掘された地層が異なるわけですから、もはや北の大地十勝平野で、マンモスゾウとナウマンゾウが出会うこともなかったでしようし、同時代に共存していたと考えられる次元でもなさそうです。
2)本章(1)でも述べましたように、忠類産ナウマンゾウの臼歯化石の発掘に関わる再調査、再検討に真っ向から取り組んだ専門家の一人高橋啓一らの論文(2008)をここで再び振り返っておきましよう。
高橋他3名は、彼らの論文「北海道、忠類産ナウマンゾウの再検討」(『化石』84号、2008)において、1970年の第2次発掘調査で採取していたナウマンゾウの臼歯化石の中には、「5本の臼歯化石が含まれているが、そのうち4個は上下左右の第2大臼歯、残るひとつは未咬耗の右上顎第3大臼歯?とされてきた(亀井ほか、1971;亀井、1978)。
筆者らはこの臼歯化石を再検討した結果、これまで第2大臼歯と記載されてきた4個の臼歯は、形態的あるいは計測値から第3大臼歯に同定できるものであると判断した」と述べています。しかし、残りの1個に同じ層準の4個の臼歯とは、似て非なるものを感じて、高橋らは再調査に踏み切ったものと考えられます。
3)亀井は、1978年に発表した論文「忠類産ナウマンゾウPalaeoloxodon naumanni(MAKIYAMA)」の348頁表-1(忠類村産ナウマンゾウ化石骨一覧)で、「頭骨の欄」では、「右上顎第2大臼歯1個完全、左上顎第2大臼歯1個完全、右下顎第2大臼歯1個近心側が破損、左下顎第2大臼歯1個近心側半分を欠く(液浸)、右上顎第3大臼歯?1個近心側を欠く」、と指摘しています。
高橋らがナウマンゾウの臼歯とは似て非なるものと判断したのは、亀井が作成した「前掲論文」(1978)表-1の臼歯の5番目、「?印」の付いた「右上顎第3大臼歯?」のことだと思います。
亀井が「論文」(1978)350頁(左)で、「未咬耗の咬板8枚のみが見られる。石灰化も不十分で、歯胚中の未萌出歯の一部であろう」、という見解を述べていることに対して、高橋らは論文(2008)で、亀井の「観察の誤り」であると指摘しています。
すなわち、高橋らは、現在では乾燥が進み、ゾウゲ質とエナメル質の間に間隙が生じているので、エナメル輪の形態は、発掘当初より、むしろ「観察しづらくなっている」とも指摘しています。
この5番目の「右上顎第3大臼歯?」は、「?」が付けてあります。
亀井がなにゆえ「?」を付けたかは定かではありませんが、そこは第一人者の亀井節夫です。5番目の臼歯自体そのものを「おかしい」と考え、疑問符を付けたのではないか、と察することも可能です。
この問題について、これ以上の言及は避けますが、高橋らは「元のエナメル輪の形を復元してみると、エナメル輪の近心と遠心の縁はナウマンゾウのように菱形にはならずむしろ平衡に近い。またエナメル褶曲もほとんどみられない」、と自らの観察結果を真率に記し、これまでナウマンゾウの「右上顎第3大臼歯?」とされてきた標本は、実は「マンモスゾウMammuthus Primigeniusの左下顎第2あるいは第3大臼歯と再同定する」ことができると論じています。
マンモスゾウの臼歯化石であることが判明したことで、十勝平野の忠類にもマンモスゾウが生息していたのでは、と地元の人々にマンモスゾウとナウマンゾウとが出会い、あるいは共存していたのではないかという淡い期待を持たせ、胸を膨らませる結果になっていたようです。
4)マンモスゾウの臼歯化石であることを突き止めた高橋らは、その後も忠類産マンモスゾウの化石が何時頃のものか、炭素14(14 C)年代測定の較正も進めています。
高橋は、2012年6月9日、10日に開催された第30回(通算137回)化石研究会総会・学術会議で、「マンモスとナウマンゾウは北海道で出会ったか?」と題する講演を行っています。実に興味津々の演題でした。
高橋によりますと、北海道のマンモスゾウの化石標本は12標本あるそうです。年代が測定されているのは、その中10標本ということです。年代測定では、得られた測定値の正確性と信頼性を確保するために較正(こうせい:キャリブレーション)が必要ですが、高橋は、これらのマンモスゾウの標本の年代は、暦年較正した年代であることを明記しています。
それによりますと、測定値は、48,367±1,600~19,536±290yrCalBPであったと述べています。ここで、yrは年代、CalはCalibration(較正)、そして最後のBPは、before present(現在から何年前)を表しています。
したがって、忠類産マンモスゾウの場合は、凡そ5万年前頃から2万年前頃の間に生息していた、と考えていいようです。ここにいう「較正」とは、得られたデータの確度および信頼性に疑念の余地がないよう、機器と計測単位の関係を確立するために用いられる用語です。それにしましても、現世が2000年余りであることを思えば、素人には想像できない太古の昔に生息していたことになります。
5)大分横道に逸れてしまいましたが、忠類産ナウマンゾウの化石が発掘された層準は12万年前のものであり、マンモスゾウの臼歯が見つかったとされる層準は約5万年前から2万年前頃といいますから、時代の暦年較正した結果でも、両者の生息していた時代環境が7万年~8万年、あるいはもっと大きなラグがあることになります。
したがって、高橋(2012、化石研究会総会)が指摘しているように、十勝平野でナウマンゾウとマンモスゾウの2種類のゾウが出会うことはなかった、というわけです。
何故、ナウマンゾウとマンモスゾウの2種類のゾウが同時代に共存することなく棲み分けていたか、その理由について高橋は「地球規模の変動のため」ではないかと述べており、気候が寒冷化すると、マンモスゾウは極寒の地シベリアから北海道に南下し、気候が間氷期で高温化すると北海道にはナウマンゾウの餌となる豊かな草原と広葉樹の森が広がっていたことから、ナウマンゾウが北上する起因となったのではないか、高橋はそう見ているようです。
日本列島(25)
第Ⅴ部 忠類にもマンモスがいた
(3) ナウマンゾウはマンモスと出会えたか
1)高橋らは、発掘地点の地層について、マンモスゾウの大臼歯は、ナウマンゾウの臼歯化石を包含していた地層よりも、層位が上で、ナウマンゾウの化石を発掘するために上の地層を取り除いた際に、その土を捨てた土砂の中から、たまたま発見されていた、という証言にも言及しています。この証言を得たことは大変重要なことだったと思います。
わたしが重要な証言だと思う理由は、マンモスゾウの臼歯かどうかは兎も角としまして、それ以前の問題として、忠類での第2次発掘調査から40年もの間、層位が異なる地層から産出されていた臼歯であることが分からないままだったことです。いままでに掘り出された化石骨との違い、たとえば色、艶、形の違いに気が付かなかったことがとても不思議です。
発掘された化石は、その場で専門家の先生方が相当念入りに検証されていた筈なのに、なぜ誰も臼歯の形態の違いに気が付かなかったのか、という点が問題なのです。素人からしますと、その点が全く理解できないし、不思議でならないのです。
また、高橋らは、論文(2008)において、マンモスゾウの下顎の臼歯と同定された忠類産化石は、ナウマンゾウが生息していた12万年前の化石より、相当新しい化石と見なされると述べています。したがって、高橋の鑑定からしますと、科学的年代測定云々は別にして、発掘された地層が異なるわけですから、もはや北の大地十勝平野で、マンモスゾウとナウマンゾウが出会うこともなかったでしようし、同時代に共存していたと考えられる次元でもなさそうです。
2)本章(1)でも述べましたように、忠類産ナウマンゾウの臼歯化石の発掘に関わる再調査、再検討に真っ向から取り組んだ専門家の一人高橋啓一らの論文(2008)をここで再び振り返っておきましよう。
高橋他3名は、彼らの論文「北海道、忠類産ナウマンゾウの再検討」(『化石』84号、2008)において、1970年の第2次発掘調査で採取していたナウマンゾウの臼歯化石の中には、「5本の臼歯化石が含まれているが、そのうち4個は上下左右の第2大臼歯、残るひとつは未咬耗の右上顎第3大臼歯?とされてきた(亀井ほか、1971;亀井、1978)。
筆者らはこの臼歯化石を再検討した結果、これまで第2大臼歯と記載されてきた4個の臼歯は、形態的あるいは計測値から第3大臼歯に同定できるものであると判断した」と述べています。しかし、残りの1個に同じ層準の4個の臼歯とは、似て非なるものを感じて、高橋らは再調査に踏み切ったものと考えられます。
3)亀井は、1978年に発表した論文「忠類産ナウマンゾウPalaeoloxodon naumanni(MAKIYAMA)」の348頁表-1(忠類村産ナウマンゾウ化石骨一覧)で、「頭骨の欄」では、「右上顎第2大臼歯1個完全、左上顎第2大臼歯1個完全、右下顎第2大臼歯1個近心側が破損、左下顎第2大臼歯1個近心側半分を欠く(液浸)、右上顎第3大臼歯?1個近心側を欠く」、と指摘しています。
高橋らがナウマンゾウの臼歯とは似て非なるものと判断したのは、亀井が作成した「前掲論文」(1978)表-1の臼歯の5番目、「?印」の付いた「右上顎第3大臼歯?」のことだと思います。
亀井が「論文」(1978)350頁(左)で、「未咬耗の咬板8枚のみが見られる。石灰化も不十分で、歯胚中の未萌出歯の一部であろう」、という見解を述べていることに対して、高橋らは論文(2008)で、亀井の「観察の誤り」であると指摘しています。
すなわち、高橋らは、現在では乾燥が進み、ゾウゲ質とエナメル質の間に間隙が生じているので、エナメル輪の形態は、発掘当初より、むしろ「観察しづらくなっている」とも指摘しています。
この5番目の「右上顎第3大臼歯?」は、「?」が付けてあります。
亀井がなにゆえ「?」を付けたかは定かではありませんが、そこは第一人者の亀井節夫です。5番目の臼歯自体そのものを「おかしい」と考え、疑問符を付けたのではないか、と察することも可能です。
この問題について、これ以上の言及は避けますが、高橋らは「元のエナメル輪の形を復元してみると、エナメル輪の近心と遠心の縁はナウマンゾウのように菱形にはならずむしろ平衡に近い。またエナメル褶曲もほとんどみられない」、と自らの観察結果を真率に記し、これまでナウマンゾウの「右上顎第3大臼歯?」とされてきた標本は、実は「マンモスゾウMammuthus Primigeniusの左下顎第2あるいは第3大臼歯と再同定する」ことができると論じています。
マンモスゾウの臼歯化石であることが判明したことで、十勝平野の忠類にもマンモスゾウが生息していたのでは、と地元の人々にマンモスゾウとナウマンゾウとが出会い、あるいは共存していたのではないかという淡い期待を持たせ、胸を膨らませる結果になっていたようです。
4)マンモスゾウの臼歯化石であることを突き止めた高橋らは、その後も忠類産マンモスゾウの化石が何時頃のものか、炭素14(14 C)年代測定の較正も進めています。
高橋は、2012年6月9日、10日に開催された第30回(通算137回)化石研究会総会・学術会議で、「マンモスとナウマンゾウは北海道で出会ったか?」と題する講演を行っています。実に興味津々の演題でした。
高橋によりますと、北海道のマンモスゾウの化石標本は12標本あるそうです。年代が測定されているのは、その中10標本ということです。年代測定では、得られた測定値の正確性と信頼性を確保するために較正(こうせい:キャリブレーション)が必要ですが、高橋は、これらのマンモスゾウの標本の年代は、暦年較正した年代であることを明記しています。
それによりますと、測定値は、48,367±1,600~19,536±290yrCalBPであったと述べています。ここで、yrは年代、CalはCalibration(較正)、そして最後のBPは、before present(現在から何年前)を表しています。
したがって、忠類産マンモスゾウの場合は、凡そ5万年前頃から2万年前頃の間に生息していた、と考えていいようです。ここにいう「較正」とは、得られたデータの確度および信頼性に疑念の余地がないよう、機器と計測単位の関係を確立するために用いられる用語です。それにしましても、現世が2000年余りであることを思えば、素人には想像できない太古の昔に生息していたことになります。
5)大分横道に逸れてしまいましたが、忠類産ナウマンゾウの化石が発掘された層準は12万年前のものであり、マンモスゾウの臼歯が見つかったとされる層準は約5万年前から2万年前頃といいますから、時代の暦年較正した結果でも、両者の生息していた時代環境が7万年~8万年、あるいはもっと大きなラグがあることになります。
したがって、高橋(2012、化石研究会総会)が指摘しているように、十勝平野でナウマンゾウとマンモスゾウの2種類のゾウが出会うことはなかった、というわけです。
何故、ナウマンゾウとマンモスゾウの2種類のゾウが同時代に共存することなく棲み分けていたか、その理由について高橋は「地球規模の変動のため」ではないかと述べており、気候が寒冷化すると、マンモスゾウは極寒の地シベリアから北海道に南下し、気候が間氷期で高温化すると北海道にはナウマンゾウの餌となる豊かな草原と広葉樹の森が広がっていたことから、ナウマンゾウが北上する起因となったのではないか、高橋はそう見ているようです。