素人、考古学・古生物学を学ぶ

人類の起源・進化・移動や太古の昔、日本に棲んでいたゾウ類にも関心があり、素人の目線で考えてみます。

(改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウについて(4)

2021年09月21日 10時04分43秒 | ナウマン象と日本列島

       (改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウについて(4)

          (初出:2015・8・19ー2016・4・19)

 
  
 2) 村はナウマンゾウの話題でもちきり
 旧忠類村は、発見当時は北海道広尾郡忠類村でしたが、前回も書きましたが2006年2月6日に町村合併で北海道中川郡幕別町に編入合併になっていますので、本稿では以後「幕別町忠類地区」と書きますが、ケース・バイ・ケースで「旧忠類村」と表記するこがあると思います。

 なお、幕別町の行政区は幕別地区、幌内地区、そして忠類地区の3地区から成っています。当然のことですが行政の中枢は幕別町役場です。忠類地区は旧忠類村役場が「幕別町忠類総合支所」として、いまでは幕別町(ちょう)忠類錦町(まち)439番地1に置かれています。ここで旧忠類村についてもう少しその歴史(村史)に言及しておきましょう。

 旧忠類村は戦後(第二次大戦後)の1949(昭和24)年8月20日、太樹町から分村して「忠類村」となったのです。翌年1950(昭和25)年3月、村是を制定して村振興策の大綱が決定されました。

 ところで、なぜ忠類の村民は大樹村から分村してまでも独立して自分たちの村を望んだのだろうか。村史『忠類村の二十年』の中に、

 「郷土の皆様へ〈忠類を中心とする大樹分村について〉」、という大樹村分村期成同盟の文書が載っています。その中には忠類村民の分村への熱い思いが刻み込まれています。すなわち、「北海道の中心は道庁の所在地たる札幌であり、十勝の中心は支庁の置かれている帯広であり、そして又大樹村の中心は役場のある大樹市街であることはいうまでもありません。ですから、特別の場合を除き、町村の発達は、行政機関を中心に発達することができます。
さて、村が成り立って行く為には、村民から所得、村民、営業、反別、家屋、牛馬等にわたり税金をとり、この金を基として学校を建てたり、橋を作ったり、ドウロをなおしたり、公民館を建てたりなどして村の発達に努力しますが、その場合特に考えなければならないのは、恰も池に石を投げると波紋が投点を中心に幾重にも輪を描き、中心から遠くなればなるほど波紋が薄れていきますが、それと同じように役場の所在地からと遠くなればなるほどいろいろな意味で村政が弱まり、おろそかになってしまうことであります。」

 それゆえ自分たちが払った税金が自分たちに役立つためには、大樹村から分村してでも自分たちの村を作ることが必要なのだ。それが、1949年大樹村から分村して忠類村を起した村民の思いだったのです。

 それから約半世紀、2006(平成18)年、時代の流れの中で幕別町に編入合併の道を選択し現在に至っています。その幕別町の総人口は、2015(平成27)年2月1日現在27,596人で、世帯数は12,230世帯です。

なお、忠類地区(旧忠類村)の人口は1,609人、世帯数765世帯です。もともと忠類村は小さな村だったのです。2005(平成17)年12月末の総人口は1854人でした。それから約10年で大雑把ですが245人、13%減少しています。

 40数年前(1969年、昭和44年)になりますが、現在では幕別町忠類地区晩成ですが、当時は忠類村晩成地区でした。前述のように、晩成の農道工事現場でナウマン象の第2大臼歯化石二つが発見されました。十勝団体研究会によりますと、この大発見によって、村の話題はナウマンゾウの化石の話で持ち切りだったとのことです。

 ナウマンゾウの臼歯の化石が発見されたことについて、当時北海道開発局在勤の川崎敏氏から聞いた十勝団研の面々は、話の重大さを認識しながらも、予定通りの巡検(フィールドワーク)を終えて、その検討会を忠類地区の近隣の豊頃町公会堂で開催し、終了の直後に忠類晩成で発見されたゾウの臼歯が大きな盆に載せられて、団研の面々に紹介されたという。

折しも十勝団研に参加していた当時、京都大学の助教授でナウマン象についての化石を扱った経験を有する石田志朗博士が居合わせたことが、いまにして思えば、ナウマンゾウの町、忠類地区としてこの地を全国的に有名にすることになったのです。
そんな訳で、少しばかり大袈裟になりますが、こどもから大人まで数人集まれば、話題はナウマンゾウでもちきりだったと言われています。

 その石田氏は、1953年京大理学部を卒業、その後京大大学院を修了して理学博士(京大)、1959年同大学助士そして助教授を経て1989年から山口大学理学部教授、1994年山口大学を定年退官されています。

 石田博士は、初期の新生界新第三系の層序に関する地質学的研究,古植物学的研究、及び大阪層群相当層を主とした第四系地質学的研究をはじめ,考古学における地質学的研究、応用地質学の分野においても、そしてまた後進の指導にも大きな功績を残されています。

 その席にいた石田博士は、その盆上の化石を見て、それがナウマン象の右上第三大臼歯であることを指摘したと言われています。加えて石田博士は二つの臼歯が見つかったということは、牙や胴体の化石も発掘される可能性があることも指摘し、ちょうどお盆の時期でもあるし、できるだけ急いで発掘調査をすることを説いたと言われています。

 『忠類村の二十年』によりますと、十勝団研では、石田博士が京都へ戻るのを延ばしてもらい、ナウマンゾウの発掘に取りかかったと言われています。こうして忠類村(現幕別町忠類地区)のナウマンゾウの化石発掘が進められることになったのです。

 『忠類村の二十年』(忠類村役場、昭和44(1969)年10月刊行)の38-40頁に、「郷土の皆様へ:忠類を中心とする大樹分村について」(昭和23年各戸に配布された文書)が、当時結成された「大樹村分村期成同盟会」によって配布されました。
 それから約1年後の昭和24(1949)年8月20日、忠類は大樹村から分村し、忠類村としてその第一歩を 踏み出したのです。そして半世紀後を経た2006年、幕別町に編入合併するまで独自の行政を維持して来ました。