素人、考古学・古生物学を学ぶ

人類の起源・進化・移動や太古の昔、日本に棲んでいたゾウ類にも関心があり、素人の目線で考えてみます。

改訂抄録・日本にいたナウマンゾウについて(1)中本博皓

2021年09月06日 19時01分49秒 | ナウマン象と日本列島
改訂抄録・日本にいたナウマンゾウについて(1) 中本博皓
   (2015・8・19ー2016・4・19)



改訂版に寄せて


10年一昔と言いますが、10年前(2011年7月9日)にナウマンゾウについて触れたことがあります。その後しばらくして、もう少し書きたしたい気持ちにかられ、ここらで小生の「ナウマンゾウ抄録」を作文しておきたくなり、メモ程度と思い2015年8月19日から2016年4月19日にかけて書き綴ったのが以下の「抄録・日本にいたナウマンゾウ」です。

しかし、読み返してみますと、修正したい箇所が山ほどあることに気づき、機会を見て訂正し、補筆したいと思っていましたが、「絶滅した日本列島のゾウのはなし」(Ⅱ)が一段落したのを機に少しばかり改訂(修正・補筆)することにしました。
なお、再掲載に当たっては、文章の長さを考慮して分割することもあります。たとえば、「まえがき」を例にとりますと、「その(1)」「その(2)」のようにしましたが、以下同様にして見たいと考えています。


          まえがき -序に代えて:その(1)-

  北海道中川郡幕別町の忠類地区(2006年以前は北海道広尾郡忠類村)は、日本だけでなく、世界の古生物学者や考古学者から注目された時期がありました。その理由は、この地から、地層的には、約13万年前ないし12万年前の更新世後期の初めに、日本列島の極寒の地、北海道の十勝の原野にナウマンゾウが生息していたことが分かったからです。しかも、発掘された化石骨が、何とナウマンゾウまるまる1頭分、命を落としたときの姿そのままで産出されたことで、高い関心が集まったものと考えられます。

 ナウマンゾウが日本列島で生息していた時代は、更新世中期(中期更新世とも言う)から更新世後期まで、すなわち少し大雑把になりますが、この期間を年代的にますと、78万1000年前頃から1万1700年前頃までですが、ナウマンゾウが生息していたのは、いろいろ調べて見ますと、その内の約40万年前頃から約2万年前ないし1万3、4000前頃までではないかと推測できます。その間、北は北海道から南は九州・沖縄まで、日本列島を移動しながら生息していたという説が有力です。

 ところで、幕別の旧忠類村で発見された「忠類産ナウマンゾウ」の生息年代ですが、専門家の研究によりますと、化石骨の産出層準が屈斜路羽幌テフラ(Tephra:ギリシャ語で「灰」の意味)の下位にあることから「12、3万年前」のものと推定されているようです。しかし。14Cによる年代測定法(注)を使って行った測定ではスケールアウトし、4万2000年以上前ということがわかっているだけのようです。したがって、それまで言われてきた12、3万年以上前という値は測定されていません。

 忠類て発掘された多くの化石を試料として、アセチルブロマイド処理のほうほうを使って測定した年代は、約30万年前と言う値が得られていると言われています。このことから、古生物学者等専門家の先生方は、古気候を加味して考えると、忠類ナウマンゾウの生息時代は洪積世中期のミンデル・リス間氷期の末葉頃ではないかと推定しているのです。

 また、日本列島にナウマンゾウが栄えた時代は、もっと時代は繰り下がり、後期更新世の間氷期で気温も少し緩み、ゾウの食べ物となる葉木植物が豊富にあった4万2000年前頃から3万3000年前頃が、野尻湖近辺を含めて日本列島にナウマンゾウが多かった時代だったと考えられます。

 (注)ナウマンゾウの「生息年代の測定」については、(5)、(19)においても言及することになると思います。

 ゾウ(「象」)と言えば、アフリカ象然り、インド象然り、暑い地域に生息する動物であると考えがちなのですが、先述した韓国や中国北部を含めて、冬には極寒の地と言われる北海道の幕別町忠類地区に生息していたことは驚きです。しかし、古生物学者は、特別に不思議とは思わないようです。それは、ユーラシア大陸北部からアラスカ・カナダ東部にかけてもゾウなど長鼻類の化石が出土しているからでしょう。

 日本でも幕別町忠類地区だけでなく、それより早く、やはり相当寒い長野県の北端の地、信濃町野尻湖の湖底からナウマンゾウの化石が沢山出土し、1962年から本格的な発掘が始まり、掘り続けてもう50年にもなることが知られています。

 とくに、長野県だけでも信濃町柏原、長野市、中野市、上田市、青木村、小諸市、佐久市、佐久穂町、南牧村、富士見町などナウマンゾウの化石が見つかっています。それだけではありません。東京のど真ん中、日本橋からもナウマンゾウの化石は見つかっているのです。

  さて、幕別忠類地区のナウマンゾウの化石は、「1969年(昭和44年)7月に忠類地区内の農道工事の現場で偶然に発見された」そうです。調査資料に依拠しますと、全骨格の70~80%にあたる47個の化石骨が発掘されているとのことです。そのことから、幕別町には、立派な「忠類ナウマン象記念館」が建てられていますし、今では観光の目玉になっておりますし、わたしも大いに利用させてもらっています。

  ただ、残念なことに、ナウマンゾウを見たことのある人が誰もいないということです。これからいろいろ述べますが、それは発掘された化石の産状、復元された全身骨格から、ナウマンゾウは、アジアゾウに比較しますとやや小型だったと考えられています。古生物学者によりますと、ナウマンゾウは寒冷の地に生息できるように、「皮下脂肪が発達し、全身は体毛で覆われていた」であろうと推測しています。ナウマンゾウは日本だけでなく、韓国や中国北部にも生息していたと考えられています。
  以下、次回に続く。