素人、考古学・古生物学を学ぶ

人類の起源・進化・移動や太古の昔、日本に棲んでいたゾウ類にも関心があり、素人の目線で考えてみます。

(改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウについて(2)

2021年09月09日 17時34分38秒 | ナウマン象と日本列島
(改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウについて(2)
(2015・8・19ー2016・4・19)

まえがき -序に代えて:その(2)-

  ところで、日本の「象」の化石を最初に見つけたのは誰か、ドイツの地質学者で、当時の日本の内務省と言うお役所に雇われて明治の初期に来日し、1875年(明治8)-77年(明治10)まで初代の東京大学地質学教授として研究生活を行い、1879年-85年まで、内務省地質課(後の地質調査所)で調査に従事した地質学者、ハインリッヒ・エドムント・ナウマン(Heinrich Edmund Naumann:1854~1927)であると言う人もいますが、あるいはそう書いてある書物もありますが、それは全くの間違いです。

  ナウマン先生は、日本で初めて見つかった大型動物の骨(一般に「獣骨」と呼ばれています)の研究をされて、それが「象」の骨であることを明らかにした最初の学者です。そのため、日本に生息していたゾウにつけられた和名がナウマン先生の名前をもらってナウマンゾウとなったのです。ナウマン先生がゾウの化石を発見したのではありません。このことは、追々説明したいと思います。

 「ナウマンゾウは、前述したように、「和名」です。学名は、パレオロクソドン・ナウマンニ:Palaeloxodon naumanni)」と名付けられています。関東大地震の翌年のことですが、1924年(大正13)に京都大学の古生物学者だった槇山次郎教授が「ナウマンゾウ」と命名したものだそうです。

  本当は、命名者である槇山教授の名前も入り、「ナウマン・マキヤマ・ゾウ」というのが正確な命名だそうですが、前述しましたように、一般には最初に日本のゾウ化石を研究した東大の地質学教授だったドイツ人ナウマン(明治8~18年日本滞在)の名前を借りて、和名を「ナウマンゾウ」と呼ぶようになりましたが、正しい呼び方は、「ナウマン・マキヤマ・ゾウ」であることも覚えておいて欲しいですね。

  ところで、ナウマンゾウの化石を最初に発見したのは誰か、これもまたはっきりしていませんが、1867年(慶應3年)、横須賀にあった丘や標高45メートルの大変低い白仙山を開鑿(今は米海軍基地内になりますが、当時は、横須賀製鉄所の造成地)して造成中の洞穴みたいな地中から、半分埋まった状態の竜骨の化石が発見されたと言われています。

  では誰が?ということになりますが、実は、これもまたはっきりはしないのですが、フランスから招かれて横須賀製鉄所の医師として来日した軍医サヴァチェ が、時間を作っては近くの野山を散策しては、竜骨の発見をしたのではないかと言う説があります。小生も同じ意見です。

  彼は二つの顔を持っており、一つは医師の顔、もう一つは植物学者の顔であります。植物学者サヴァチェは、野山を歩いて、植物の観察をすることも重要な仕事であり、幾つもの竜骨を発見したとも言われています。

  これらの問題は、別の機会に、言及することにしたいと思っています。
  〔余計なひと言〕 最近、鴎外の『独逸日記』を読んでいましたら、1886(明治19)年8月30日の日記に、「一人の邦人に会った。横山又次郎と言う。(横山は)ここへ来て「地底古物学」Palaeontologieを修めているとのこと」、と記してあります。
 Palaeontologie とは、今は「古生物学」と訳しています。鴎外の時代には「古生物学」ではなく、「地底古物学」と言っていたのかと、おもったりもしたのですが、しかし横山は『古生物学』と題する書籍を刊行しています。となりますと、感心してはいられないのです。おそらく、鴎外は、横山に「あなたは何を研究にここへ来たのか」、と聞いたと思います。横山はドイツ語でPalaeontologie(パレオントロギー)と答えたと思います。鴎外は単語の意味を独・独辞典で勉強し、「地底古物学」と日記に記したのではないか、と思います。それはそれとして、今は、aeはäと1文字で Paläontologie と綴り、辞書にもこのように載っています。aeは使わず、aにウムラウトを付けてä と書きます。鴎外の『独逸日記』は難解ですが、大変面白いです。

  この続きは後に書くことにします。
  〔横山又次郎(1860-1942)略歴〕:長崎県出身、1882年、東京帝大理科大学地質学科卒業。理学博士。エドモンド・ナウマン教授の下で働く。1886年、東京帝大を辞職、ミュンヘン大学に留学し、ナウマンの恩師チュテルについて「古生物学」の研究を行う。このころ、ミュンヘンに留学していた森鴎外(森林太郎)と出会う。1889(明治22)年、帰国。東京帝大理科大学教授に任官。1907年・『古生物学』を刊行、1920年・『古生物学綱要』を刊行する。横山は多くの書物を書き残しています。

(文献)
1)赤松守雄・奥村晃史「十勝平野忠類におけるナウマン象の化石産出地点」・第四紀露頭集ー日本のテフラ・119、日本第四紀学会。
2)高橋啓一・北川博通ほか「北海道、忠類産ナウマンゾウの再検討」『化石』・84・74-80、2008.
3)亀井節夫『日本に象がいたころ』・岩波新書645、1967.
4) 清水正明(東京大学総合研究博物館)「ナウマンやブラウンスの記載したゾウ化石標本」(『東京大学創立百二十周年記念東京大学展、学問の過去・現在・未来』
  第一部「学問のアルケオロジ-・第3章大学の誕生―御雇外国人教師と東京大学の創設―」・東京大学、1997年12月。
5)横山又次郎『世界の反響』早稲田大学出版会、1925(大正14).
6)十勝団体研究会編『ナウマン象のいた原野』1974.