再論・南太平洋島嶼国「フィジー」について考える(15)
第2章 フィジーに移住した日本人(3)
(2)日本人フィジー移民と日本吉佐移民合名会社―再論・日本吉佐移民合名会社を考えるー
3)移民事業に対する佐久間貞一のこだわり
豊原又男の『佐久間貞一小傳』(秀英舎庭契会)によると、「吉佐移民会社」の移民事業は、前述のように当初は、仏領ニューカレドニア島などへ出稼ぎ労働移民を日本から搬送(輸送)事業からスタートしたと言ってもいいであろう1)。
同社は、ブラジルへも移民の送搬を計画していたが、ブラジル側の都合で出港直前に中止せざるを得なくなった事件などもあった。
「吉佐移民会社」は、1891(明治24)年12月7日に京橋区新肴町拾番地を住所として設立された。前述のように、日本郵船が1885年に岩崎弥太郎亡き後、兄の遺志を継いだ弟弥之助の努力で設立されたが、その6年後に日本郵船の副社長吉川泰二郎が秀英舎の佐久間貞一社長と組んで合名で起業した移民輸送を専門とする会社が「吉佐移民会社」だ。しかし、同社は前節でも触れたように、1897(明治30)年東洋移民合資会社へと衣替えすることになる。
さて、前述の『佐久間貞一小傳』によれば、秀英舎の社長だった佐久間貞一は、日本吉佐移民合名会社の業務担当社員(役員)となった。それによって、佐久間の長年の思いであった移民事業に本腰を入れて着手することが出来るようになった。
豊原は、佐久間が移民事業を始めるに当たり抱いていた強い決意の程を、彼の『前掲書』の第六「吉佐移民会社、東洋移民合資会社」の「緒言」において以下のように述べている。
(原文のまま引用)「(佐久間)氏と移民事業とは、如何なる因縁を有したるか氏が初めて実業界の門に入りたるは実に移民事業なりしなり事の内外規模の大小の差こそあれ、明治六年天草島民を北海道浦川に移住せしめたるは、当時既に移民事業に多少の趣味を有したるものならずとせんや爾来幾星霜を経て氏は工業界に経営画策の力を展べ、偉大の成功を奏したるは吾人既に氏の功業の大なるを思ふものなり。而かも氏は更に奮闘的態度を以て発展し来りて、大規摸の下に移民事業を創始す意気の益々昂れるを見る。」2)
なぜ、佐久間は移民事業に大きな関心を抱いたのだろうか。実は、佐久間は、日本の人口問題に関心を持つと同時に、工場労働者の雇用・労働問題にも大きな関心を抱いていた。それらの関心事は、彼の移民事業と深い関わりを持っていたと考えられるのである。
すなわち、豊原の『前掲書』で、佐久間が移民事業を起業しようとした熱意の趣旨は、年々日本国内の人口が増加していたことにあると察せられる、と述べている。国内の過剰人口を解決する策として、国内には新しい土地はもはや限られている。民間人たる佐久間ができる方策、それが移民事業だった。
もし、何の策も講じなければ、増加した人口は、国力の低下を招き、貧困人口層の増大につながるだけだ。したがって、それを解決するには国としては「移住・殖民の策」が必要である。
世界の列強と呼ばれる国々における力関係もまた殖民地の多少を以て判断されるので、日本においても殖民政策は重要な時代と認識していた。その結果、民間人である佐久間が注目した事業、それが「移民事業」だったと察することは可能ではないだろうか。
実業家としての佐久間は、1876年 ( 明治 9 ) 新技術を導入して、現在の大日本印刷の源流(前身)である活版印刷所秀英舎を東京・京橋に創立し、教会新聞を印刷発行した。佐久間は、1880年(明治13)年5月、秀英舎を株式会社するとともに、社長として斬新な経営手法で経営に当たった。
彼は、秀英舎を創立した頃にはすでに肺を患っていたこともあって、工場の労働環境の改善には労を惜しまなかった。従業員の健康管理、従業員の育成には特に力を入れたと言われている。
例えば、佐久間が重視した徒弟教育もその一つであった。佐久間が印刷工場は読み書きの知識が重要であり、活字を拾い、組む「採字」技術を習得するには、適切な指導者(一般には親方と言うが)の下でタイトな学習、習業を積むことが大切であると考えたのである。
したがって、秀英舎の従業員の3割は、自社の徒弟教育3)の習業生だったと言われている。また、特筆すべきは、労働時間である。1889(明治22)年には、主力工場の活版印刷において、8時間労働制を試験的に導入した。当時、年平均で9時間労働制の実施を行っている。
労働効率を計測するために、8時間労働の場合と、9時間労働の場合の1人1日当たりの採字高を比較する生産性試験なども行っていた。その結果、8時間労働制を導入した方が採字効率は高いことをデータで明らかにするなど、驚くべき経営者だった。その他にも、佐久間は、さらに養老・退職積立金制度、勤続賞与制、そして夏季休暇制度などを導入し、労使共存の経営を唱え、工場法の制定4)にも尽力した社会政策の実践的経営者であり、実業界・労働界においては実践的社会政策家として知られた存在だった。
(注)
1)豊原又男『佐久間貞一小傳』・秀英舎庭契会・明冶37(1904)年11月、83-89ページ。
2)豊原又男『前掲書』、89-92ページ。
3)広島県編『広島県移住史(通史編)』・第一法規出版・平成5年10月、219-220ページ。
4)豊原又男『前掲書』、83-89ページ
第2章 フィジーに移住した日本人(3)
(2)日本人フィジー移民と日本吉佐移民合名会社―再論・日本吉佐移民合名会社を考えるー
3)移民事業に対する佐久間貞一のこだわり
豊原又男の『佐久間貞一小傳』(秀英舎庭契会)によると、「吉佐移民会社」の移民事業は、前述のように当初は、仏領ニューカレドニア島などへ出稼ぎ労働移民を日本から搬送(輸送)事業からスタートしたと言ってもいいであろう1)。
同社は、ブラジルへも移民の送搬を計画していたが、ブラジル側の都合で出港直前に中止せざるを得なくなった事件などもあった。
「吉佐移民会社」は、1891(明治24)年12月7日に京橋区新肴町拾番地を住所として設立された。前述のように、日本郵船が1885年に岩崎弥太郎亡き後、兄の遺志を継いだ弟弥之助の努力で設立されたが、その6年後に日本郵船の副社長吉川泰二郎が秀英舎の佐久間貞一社長と組んで合名で起業した移民輸送を専門とする会社が「吉佐移民会社」だ。しかし、同社は前節でも触れたように、1897(明治30)年東洋移民合資会社へと衣替えすることになる。
さて、前述の『佐久間貞一小傳』によれば、秀英舎の社長だった佐久間貞一は、日本吉佐移民合名会社の業務担当社員(役員)となった。それによって、佐久間の長年の思いであった移民事業に本腰を入れて着手することが出来るようになった。
豊原は、佐久間が移民事業を始めるに当たり抱いていた強い決意の程を、彼の『前掲書』の第六「吉佐移民会社、東洋移民合資会社」の「緒言」において以下のように述べている。
(原文のまま引用)「(佐久間)氏と移民事業とは、如何なる因縁を有したるか氏が初めて実業界の門に入りたるは実に移民事業なりしなり事の内外規模の大小の差こそあれ、明治六年天草島民を北海道浦川に移住せしめたるは、当時既に移民事業に多少の趣味を有したるものならずとせんや爾来幾星霜を経て氏は工業界に経営画策の力を展べ、偉大の成功を奏したるは吾人既に氏の功業の大なるを思ふものなり。而かも氏は更に奮闘的態度を以て発展し来りて、大規摸の下に移民事業を創始す意気の益々昂れるを見る。」2)
なぜ、佐久間は移民事業に大きな関心を抱いたのだろうか。実は、佐久間は、日本の人口問題に関心を持つと同時に、工場労働者の雇用・労働問題にも大きな関心を抱いていた。それらの関心事は、彼の移民事業と深い関わりを持っていたと考えられるのである。
すなわち、豊原の『前掲書』で、佐久間が移民事業を起業しようとした熱意の趣旨は、年々日本国内の人口が増加していたことにあると察せられる、と述べている。国内の過剰人口を解決する策として、国内には新しい土地はもはや限られている。民間人たる佐久間ができる方策、それが移民事業だった。
もし、何の策も講じなければ、増加した人口は、国力の低下を招き、貧困人口層の増大につながるだけだ。したがって、それを解決するには国としては「移住・殖民の策」が必要である。
世界の列強と呼ばれる国々における力関係もまた殖民地の多少を以て判断されるので、日本においても殖民政策は重要な時代と認識していた。その結果、民間人である佐久間が注目した事業、それが「移民事業」だったと察することは可能ではないだろうか。
実業家としての佐久間は、1876年 ( 明治 9 ) 新技術を導入して、現在の大日本印刷の源流(前身)である活版印刷所秀英舎を東京・京橋に創立し、教会新聞を印刷発行した。佐久間は、1880年(明治13)年5月、秀英舎を株式会社するとともに、社長として斬新な経営手法で経営に当たった。
彼は、秀英舎を創立した頃にはすでに肺を患っていたこともあって、工場の労働環境の改善には労を惜しまなかった。従業員の健康管理、従業員の育成には特に力を入れたと言われている。
例えば、佐久間が重視した徒弟教育もその一つであった。佐久間が印刷工場は読み書きの知識が重要であり、活字を拾い、組む「採字」技術を習得するには、適切な指導者(一般には親方と言うが)の下でタイトな学習、習業を積むことが大切であると考えたのである。
したがって、秀英舎の従業員の3割は、自社の徒弟教育3)の習業生だったと言われている。また、特筆すべきは、労働時間である。1889(明治22)年には、主力工場の活版印刷において、8時間労働制を試験的に導入した。当時、年平均で9時間労働制の実施を行っている。
労働効率を計測するために、8時間労働の場合と、9時間労働の場合の1人1日当たりの採字高を比較する生産性試験なども行っていた。その結果、8時間労働制を導入した方が採字効率は高いことをデータで明らかにするなど、驚くべき経営者だった。その他にも、佐久間は、さらに養老・退職積立金制度、勤続賞与制、そして夏季休暇制度などを導入し、労使共存の経営を唱え、工場法の制定4)にも尽力した社会政策の実践的経営者であり、実業界・労働界においては実践的社会政策家として知られた存在だった。
(注)
1)豊原又男『佐久間貞一小傳』・秀英舎庭契会・明冶37(1904)年11月、83-89ページ。
2)豊原又男『前掲書』、89-92ページ。
3)広島県編『広島県移住史(通史編)』・第一法規出版・平成5年10月、219-220ページ。
4)豊原又男『前掲書』、83-89ページ