再論・南太平洋島嶼国「フィジー」について考える(13)
第2章 フィジーに移住した日本人(3) >
(1)日本人移民、英領フィジーへ渡る
4)日本人移民、英領フィジーへ渡る
話が前後するが、「吉佐移民会社」の初めての移民周旋事業は、前述のように1892(明治25)年1月に始まった。移民の送出先は、南太平洋メラネシアの海域内に位置する仏領ニューカレドニア島ニッケルの町Thio(チヨ)である。ここに、ポーリン鉱山、ツモルウ鉱山、メ-鉱山の3鉱山に振り分けられた。何れもパリに本社を持つラ・ソシエテ・ル・ニッケル会社の鉱山だった。
事業の内容は、5年の年季契約で600余人19)の日本人で、佐久間貞一の考えで主に天草等熊本県人労働者を移民として募集し、ニューカレドニア島のニッケル鉱山に搬送する業務が主であったと言われている1)。移民として応募する資格は、25歳以上30歳までの青年男性で、厳しい労働に耐えうる農夫であることが条件だった。しかし実際には、農夫以外の職業で肉体労働未経験者も相当数いたと言われている2)。
当時、わが国が殖民政策を推進する上で移民取扱人の法人組織である移民会社は、経済的、社会的に必要だったと考えられるのだが、しかし不確かな表現だが、今流に言えば、「移民会社」は、広義の「貧困ビジネス」の仲間に入るような事業だったと言えなくはないのである。
もちろん、湯浅誠氏3)が定義されているような「貧困ビジネス」とは必ずしも同質ではないとしても、当時、移民の募集、送り出しに携わって高額の周旋料の徴収が社会問題化した例も多くあった。もちろん全ての移民会社ではないが、日本人移民の多くは現状の貧困からのがれて移住しようとした弱者だったことは間違いない。それゆえ、主観的にはそう表現したくなる一面をもった「ビジネス」だったと考えられなくもないのである。
「仏領ニューカレドニア」に引き続いて日本人移民が渡ったのは、同じ南太平洋メラネシアの英国に直轄統治されていたフィジー諸島だった。当時、わが国の一部の人々は、フィジーを「豪州フィジー島」と呼んだりしていた。豪州(オーストラリア)をオセアニアと同義に解釈していたのか、どうかは定かではない。
それは兎も角として「吉佐移民会社」の第二回目の移民搬送事業は1893(明治26)年、オーストラリアのシドニーのバーンズ・フィリプ社からの引き合いに応じて翌年4月、日本人移民をフィジーのさとうきびのプランテーションで農耕に従事させるという契約で、広島県を中心に西日本各地で募集し、応募して来た労働者の中から先方の条件に合った305人を主としてヴァヌア・レヴ島ランバサのさとうきび農園(耕区)に送った。
英領時代からフィジー諸島には、ラウトカ、ララワイ、ペナン(何れもヴィチ・レヴ島)、そしてランバサ(ヴアヌア・レヴ島)にオーストラリアのシドニーに本拠をもつ「植民地製糖会社」(The Colonial Sugar Refining Company :CSR)の工場地帯が広がり、さとうきびのプランテーションで生産された原料を使って砂糖生産が行われており、その歴史は長い。
初めてプランテーションにインド人年季奉公的契約移民が導入されたのが1879年であり、本稿の考察対象である日本人契約移民も実際には上述のCSRに雇われ、各耕区で契約移民として働くために1894年フィジーに渡った。CSRはそれからでも118年、1879年にインド人移民が導入されて本格操業してから今日まですでに133年の歴史を刻んでいる。
(注)
1)広島県編『前掲書(通史編)』・220ページ。
2)小林忠雄『ニューカレドニア島の日本人―契約移民の歴史―』・カルチャー出版社・1977年、83ページ。なお、第1回目の移民の資格の一つは、25歳以上30歳までの男性であること、二つに農夫であること。要するに、鉱山での過酷な肉体労働に耐えられる頑強な若者を募ったのだ。小林忠雄『前掲書』によると、肉体労働未経験者が大分いた、と述べている。
3)湯浅氏は、NPO「自立生活サポートセンター・もやい」事務局長・反貧困ネットワーク事務局長。元内閣府参与(緊急雇用対策本部貧困・困窮者支援チーム事務局長)、内閣官房震災ボランティア連携室長、内閣官房社会的包摂推進室長等歴任した。
第2章 フィジーに移住した日本人(3) >
(1)日本人移民、英領フィジーへ渡る
4)日本人移民、英領フィジーへ渡る
話が前後するが、「吉佐移民会社」の初めての移民周旋事業は、前述のように1892(明治25)年1月に始まった。移民の送出先は、南太平洋メラネシアの海域内に位置する仏領ニューカレドニア島ニッケルの町Thio(チヨ)である。ここに、ポーリン鉱山、ツモルウ鉱山、メ-鉱山の3鉱山に振り分けられた。何れもパリに本社を持つラ・ソシエテ・ル・ニッケル会社の鉱山だった。
事業の内容は、5年の年季契約で600余人19)の日本人で、佐久間貞一の考えで主に天草等熊本県人労働者を移民として募集し、ニューカレドニア島のニッケル鉱山に搬送する業務が主であったと言われている1)。移民として応募する資格は、25歳以上30歳までの青年男性で、厳しい労働に耐えうる農夫であることが条件だった。しかし実際には、農夫以外の職業で肉体労働未経験者も相当数いたと言われている2)。
当時、わが国が殖民政策を推進する上で移民取扱人の法人組織である移民会社は、経済的、社会的に必要だったと考えられるのだが、しかし不確かな表現だが、今流に言えば、「移民会社」は、広義の「貧困ビジネス」の仲間に入るような事業だったと言えなくはないのである。
もちろん、湯浅誠氏3)が定義されているような「貧困ビジネス」とは必ずしも同質ではないとしても、当時、移民の募集、送り出しに携わって高額の周旋料の徴収が社会問題化した例も多くあった。もちろん全ての移民会社ではないが、日本人移民の多くは現状の貧困からのがれて移住しようとした弱者だったことは間違いない。それゆえ、主観的にはそう表現したくなる一面をもった「ビジネス」だったと考えられなくもないのである。
「仏領ニューカレドニア」に引き続いて日本人移民が渡ったのは、同じ南太平洋メラネシアの英国に直轄統治されていたフィジー諸島だった。当時、わが国の一部の人々は、フィジーを「豪州フィジー島」と呼んだりしていた。豪州(オーストラリア)をオセアニアと同義に解釈していたのか、どうかは定かではない。
それは兎も角として「吉佐移民会社」の第二回目の移民搬送事業は1893(明治26)年、オーストラリアのシドニーのバーンズ・フィリプ社からの引き合いに応じて翌年4月、日本人移民をフィジーのさとうきびのプランテーションで農耕に従事させるという契約で、広島県を中心に西日本各地で募集し、応募して来た労働者の中から先方の条件に合った305人を主としてヴァヌア・レヴ島ランバサのさとうきび農園(耕区)に送った。
英領時代からフィジー諸島には、ラウトカ、ララワイ、ペナン(何れもヴィチ・レヴ島)、そしてランバサ(ヴアヌア・レヴ島)にオーストラリアのシドニーに本拠をもつ「植民地製糖会社」(The Colonial Sugar Refining Company :CSR)の工場地帯が広がり、さとうきびのプランテーションで生産された原料を使って砂糖生産が行われており、その歴史は長い。
初めてプランテーションにインド人年季奉公的契約移民が導入されたのが1879年であり、本稿の考察対象である日本人契約移民も実際には上述のCSRに雇われ、各耕区で契約移民として働くために1894年フィジーに渡った。CSRはそれからでも118年、1879年にインド人移民が導入されて本格操業してから今日まですでに133年の歴史を刻んでいる。
(注)
1)広島県編『前掲書(通史編)』・220ページ。
2)小林忠雄『ニューカレドニア島の日本人―契約移民の歴史―』・カルチャー出版社・1977年、83ページ。なお、第1回目の移民の資格の一つは、25歳以上30歳までの男性であること、二つに農夫であること。要するに、鉱山での過酷な肉体労働に耐えられる頑強な若者を募ったのだ。小林忠雄『前掲書』によると、肉体労働未経験者が大分いた、と述べている。
3)湯浅氏は、NPO「自立生活サポートセンター・もやい」事務局長・反貧困ネットワーク事務局長。元内閣府参与(緊急雇用対策本部貧困・困窮者支援チーム事務局長)、内閣官房震災ボランティア連携室長、内閣官房社会的包摂推進室長等歴任した。