再論・南太平洋島嶼国「フィジー」について考える(16)
第2章 フィジーに移住した日本人(3)
(3)なぜ、日本人はフィジーに渡ったのか
豊原又男は、自ら著述した『佐久間貞一小傳』第六「日本吉佐移民合名会社」の四「フィジー島移民」において、おおよそ以下のように述べている。
「移民を送り出した先は、フィジー島である。明治26年に豪州のシドニーの『バルンス・フイルプ社』(この表記は、原文通り。正しくは、「バーンズ&フィリップ社」)から移民の申込みがあり、1894(明治27)年4月に305人を送ることとなった。現地における移民の仕事は、さとうきび畑(プランテーション)の耕作に従事することである。
移民労働の契約期間は4年、給金は1か月27シリングの契約だった。移民たちの上陸も終わって7、8月頃までは大変順調に仕事も行われた。仕事の能率についても、インド人の移民労働者に比べると、はるかに高かったことから移民を依頼してきたフイルプ社も満足していた」1)、と。
日本吉佐移民会社に「バーンズ&フィリップ社」から、フィジーのさとうきび畑で働くことが出来る若い労働者を年季契約の労働移民として送って欲しい旨の依頼があったことがきっかけだったことは上記の豊原又男の『佐久間貞一小傳』から理解できるとして、すでにフィジーのさとうきび畑(プランテーション)の労働者は、1879年以来インド人年季契約の労働移民を多数受け入れていたにも関わらず、さらにその上、なぜ日本人の出稼ぎ労働者が必要だったのだろうか。
考えられることは、ヴィチ・レヴ島のプランテーションはインド人移民の労働供給が順調に行われていたこともあって、1880(明治13)年、フィジーで操業を開始したThe Colonial Sugar Refining Company (CSR)は、それまでに稼働していた小さな工場から大型の本格的搾汁施設を有する製糖工場を建設することになった。
その一つがヴァヌア・レヴ島のランバサであり、CSRは1893年5月ランバサに、フィジー人が所有する土地をさとうきびの栽培するための農場用地として、また工場建設用地を購入し、製糖工場を建設した。翌1894年にCSRランバサ工場が操業した。
1894年、CSRは主にランバサの新工場に供給するための原料用さとうきびのプランテーションで働かせる労働力として、日本の労働者305人を契約移民として受け入れたものと考えられるのである。
資料1 新工場建設用のランバサの土地購入領収書
(注:ネット掲載を割愛します。Z303/52/7 :Receipt for the purchase of land at Fiji, 8 May 1893.出所:オーストラリア国立大学「太平洋研究コレクション」資料から借用した。)
南太平洋島嶼国フィジーへ年季契約移民として渡った日本人305人の大半が移住したのも新工場が操業した1894年だったことと符合するのである。また、その移住先CSRのランバサ工場のさとうきび耕区(プランテーション)だったこととも一致する。
(注)
1)豊原又男『佐久間貞一小傳』89-92ページ。ただし、原文は「旧かな」で読みにくいので、本稿では若干読み易くするため筆者が書き改めた。