再論・南太平洋島嶼国「フィジー」について考える(2): 中本博皓
第1章 フィジーのプロフィール(2)
≪補筆・フィジー第3の島『タヴァウニ島』について≫
タヴェウニ島(Taveuni Island)については、前回、少しばかり触れたので若干重複することになるが、敢えて述べておこう。
タベウニ島は、フィジーの第2の島Vanua Levuグループの一つで,島の面積は435㎞2で、フィジーでは3番目に広い面積をもつ島である。
バヌアレブ本島からソモソモ海峡を挟んで約6.5km東に位置する離島である。フィジー全体からすると北部地方に当たる。最近の人口は1996年に約9000人と言われたが、2006年には推定でおよそ12000人、その大部分(75%)の住民がフィジー系フィジアンと言われている。フィジーの人口については、次節≪人口と民族≫で述べる。
緑が深く、中央部奥地では標高1000mを超える山岳地があると言う。その木々の緑、彩鮮やかな花々が咲いていることからガーデンアイランドとも呼ばれている。
最近は、観光客に人気の島として知られている。この島のほぼ中央に分け入ると、標高823mの山岳地帯に幻の湖と呼ばれる「タンギモウジア湖」(Lake Taqimaucia)がある。
湖の周りにある太い樹木にまつわりつように着生したつる性の草本植物が9月下旬から12月下旬にかけて、小さな鐘型をした赤い顎をもち、花弁が真っ白な花を咲かせる。それがフィジーの国の花、タンギモウジアの花である。
また、タベウニ島は、前述のように、熱帯雨林の豊かな自然に恵まれており、1年を通して常緑の樹木、美しい羽根を持つ熱帯の鳥たちも豊富で、大げさに言えば、島全体が自然保護区となっている。エコ・ツーリストたちにとってはまさに夢の国である。
しかし、ハイキング、バードウォチングなど観光客を楽しませてくれるが、一方で、ツーリストが増加することで、どこの国もが頭を悩ませている環境問題への対応が大きな課題になりつつある。
≪人口と民族≫
総人口は2002年5月現在約約80万人。うちフィジー系が47.8%、インド系が47.4%を占め、その他4.8%である。フィジー系はほぼ100%がキリスト教徒で、インド系はヒンドゥー教徒、イスラム教徒などに分かれ、 ごく少数の中国系の仏教徒もいると言われている。
1938年の人口調査の記録によると、フィジー系49.5%、インド系43.8%、パートフィジアン2.3%、白人2%、中国人0.9%、近隣他島からの来島者0.8%、日本人0.3%、その他0.6%、総人口は20万1518人だった。ここ100年ほどの人口推移を見ると以下の通りである。
〔20世紀初頭のフィジーの人口推移〕
1891年;121,180人
1901年;120,124人
1911年;139,541人
1921年;157,266人
1934年;197,449人
1936年;198,379人
1938年;201,518人
フィジーの現在の人口について、2012年の統計によると、881,265人、年間増加率は0.72%、2014年の人口推計によると903,207人、人口増加率は、0.70%。
女性1人が生涯産む子供の数は、2.615人で世界ランキング79位、ちなみに日本は1.410人で世界ランキングは183位。世界1位は、ニジエール:7.574人、2位はマリ:6.852人、3位はソマリア:6.667人。
以上の数値は、世界銀行2012年調査による。
なお、以下に掲げた人口の推移等は、IMFのWorld Economic Outlook Databases に依拠している。ただし、2017年の人口は、2017年4月時点でのIFMの推計値である。
フィジーの人口の推移:1980 63万人、1985 71万人、1990 73万人 1995 78万人、2000 81万人、2005 82万人、2010 86万人、2011 87万人、2012 87万人、2013 88万人、2014 89万人、2015 89万人、2016 90万人、2017 90万人。
フィジーの失業率最近の推移(数値は%):2010 8.90、2011 9.00、2012 8.60、2013 8.70.2014 8.75、
2015 8.75、2016 8.75。
フィジーの最近の合計特殊出生率(数値は人):2010 2.67、2011 2.64、2012 2.62、2013 2.59、2014 2.54。
≪フィジーの歩み≫
フィジーに何時頃から人が住むようになったのか、まだはっきりしたことはわかっていない。紀元前1300年ごろ、東南アジア方面からニューギニアやニューカレドニアなどを経て来島したと考えられているが定かではない。
今日、フィジーの歴史にその名を刻まれた最初のヨーロッパ人は1643年、オランダの探検家エーベル・タスマン(1602(不詳)-1659)で、彼の航海記録から、フィジー諸島を訪問した形跡が残されている。しかし、彼がフィジー諸島を探検した記録は残されていない。
その後、1774年にキャプテン・クック(1728-1779)が近海の諸島を探検したことは良く知られている。また、キャプテン・ブライも1785年、「ボウンティ号」と言う汽船でフィジーの近隣の島嶼を航海したと言われている。
このようにして世界に知られるようになり、この島にもキリスト教の伝道が行われるようになった。フィジー諸島に最初に訪問した宣教師は白人ではなく、タヒチ人宣教師であったと言われている。1830年、タヒチからトンガへ、そしてフィジー諸島に來島したものと考えられている。
南太平洋島嶼国の多くが、戦乱や英国による植民地統治などの時代を送ったのと同様にフィジーも英領直轄植民地として英国植民省が総督を通じて統治していた。
首都スバには総督と5人の官吏、2名の非官吏から成る行政院が置かれていた。1970年には英連邦30番目の自治国として独立した。1987年には南太平洋初の無血クーデターでフィジー共和国となった。
(以下につづく)