アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

884 あちゃこの京都日誌  新シリーズ 新天皇の国紀 27

2021-09-09 09:07:01 | 日記

 

後鳥羽天皇

2,源家と皇室  不倫・不貞・略奪・そして兄弟親子の殺し合いなどなんでもあり。

源通親 - Wikipedia源通親

ここで平家討伐以降の源氏一族の推移を確認する。源平合戦において、実働部隊を率いて平家を滅亡に追いやったのは義経・範頼の兄弟である。特に、義経は時代のヒーローとなったが、兄頼朝の誤解(讒言による)を受けて奥羽平泉で討たれた。範頼も遂には、猜疑心の強い頼朝の前には生き残れなかった。そして頼朝自身も急死する。その後は、源氏一族内の混乱が続く。まず、2代将軍頼家は独断専行が過ぎ御家人達に無理やり権限をはく奪され、それに不満を持った頼家は、自らの乳母の一族である比企家を頼りに実母政子の北条家と対立する。遂には、頼家自身も北条一族を中心にした勢力に追われて殺される。頼家の同母弟3代将軍実朝も、頼家の遺児公暁により殺害され、その公暁も直後報復にあい殺される。公暁の弟も後日共謀を疑われ殺されている。そしてその後、頼朝の異母弟である阿野全成の遺児である時元が将軍の地位を狙い挙兵するが失敗し自殺する。その弟道暁も今後の憂いを絶つため北条氏に殺害される。お分かり頂けているかどうか、頼朝一族はここに根絶したのだ。八幡太郎義家を祖とする源家本流は根絶やしとなった。この間、北条政子は執権北条家の者とはいえ、実子を含む近親者をことごとく失いどんな思いだったのだろうか。幕府は、執権北条家の独裁に向けて突き進んで行った。

  一方、皇室(朝廷)は、後鳥羽上皇が治天の君として独裁(親裁)を始める。ただし、後鳥羽の長子土御門天皇は温和な性格で、後鳥羽とは反りが合わず、承久の乱においても消極的であったと伝わる。そこには複雑な事情があった。土御門の実母(在子)の母範子は藤原範兼の子で、後鳥羽の乳母であった。また、次代の弟の順徳天皇の実母(重子)の母兼子も藤原範兼の子で、こちらも後鳥羽の乳母であった。つまり後鳥羽の寵愛を受けた二人の女性は従妹同士だった。ややこしいのは、土御門の母が、あろうことか自分の母が寵愛を受けていた男と密通してしまう。これが後鳥羽が在子を母に持つ土御門を嫌う決定的な要因かと思う。その密通の相手は希代の策士と言われた源通親である。通親は村上源氏の末裔で、高倉天皇の側近として世に出て来た人物で、平家とも近しい関係を築く。しかし平家滅亡後は源氏にも後白河にも重用されるなど、一定の勢力に属さず上手く世渡りをしている人物だ。後白河上皇崩御後は、その最大の荘園を相続した勢力につくなどしてこの時期にうまく一気に政治勢力を伸ばしている。そのような時、自ら面倒を見ていた在子(親子とも男女の関係)が、後の土御門天皇になる皇子を生んだのだ。「外祖の号を借りて天下を独歩するの体なり」と言われ、「源博陸」と称され人生の絶頂を迎える。このようにしたたかな通親は、一方で朝幕間の重し役でもあった。当然、この源通親の死が、後鳥羽が強行策に転じる一つのきっかけとなった。従って、土御門上皇は性格上の問題もあったが、母親の関係からも積極的に関与できなかったのである。いつの時代も閨の出来事が政治に影響すると複雑な様相を呈する。

北条政子に憧れ続けた、人生だった。|こうみく|note北条政子

このように、朝廷にも幕府にも不安定な要素が内在していたのが、鎌倉時代初期の特殊性である。後世、我々は幕府が北条得宗家の支配になって行くことを知っているが、この時期どのような展開もあり得た混迷期であったことは間違いない。それにしても不倫・不貞・略奪・兄弟親子の殺し合いなど現代人には理解不能の世界だ。

だから歴史は面白い。


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