アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

678 アチャコの京都日誌  武者と戦った天皇たち  光格天皇 ⑤ 朝儀復興と文化的継承への戦い

2020-04-10 09:12:33 | 日記

⑤ 朝儀復興と文化的継承への戦い

このように光格天皇の即位直後の3事件を通じて、天皇が幕府と対等の関係を獲得していく過程がよく分かった。つまり天皇の戦闘能力?の向上とも言える。

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一つ象徴的なエピソードを書く。当時、松平定信の「寛政の改革」の節約令は朝廷にも影響していた。しかし、「この節御省略の儀仰せ出さる。」と、ある公家の日記に書かれてあるように、幕府に関係なく朝廷では光格天皇の判断で倹約に努めていた。従って寛政2年、幕府の指示が来た時も関白始め側近は、「恐れ多い」とし伝えなかった。翌寛政3年になって幕府から一定の成果が出て余剰が発生したとして、「給物(たまわりもの)」を配ると言って来た。これを聞いた光格天皇は、「幕府の指示で倹約したのではない。」と、激怒し「会釈(えしゃく)」(褒美)はあり得ないとした。関白がこれを京都所司代に伝えたところ、時の所司代は大いに恐縮し切腹もあり得ると覚悟した。それを聞いた天皇は、憐憫の情をもってかろうじて受け取りを許した。結果、所司代は自らの不行き届きだとして、「以降このような時は事前に相談してから行う。」と約束している。この事は、大きな意味がある。光格以前にはあり得ない事であり、すでに天皇の意向を無視してはならない空気感が幕府にあった決定的証(あかし)である。まことに痛快な逸話である。

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令和の大嘗祭


そして、この頃から譲位するまでは、多くの「朝儀再興の戦い」に勝利を続ける。まず、大嘗会の復古復活だ。新天皇の即位後最初の新嘗祭である大嘗会は、天皇の神秘性を獲得する朝廷では最も重要な儀式である。東山天皇の時代に復活していたが、十分に古式に則ったものではなかった。それを一層復古復活したのである。当然、莫大な資金援助を幕府から得なければ出来ない事である。また、石清水八幡宮と賀茂社の臨時祭の再興などを果たしているが、これは応仁の乱以降全く途絶えていたもので、このように100年・200年を経て再興した儀式は枚挙にいとまがない。いずれも、自ら(朝廷)の権威を高める為のものだが、根底には「国家と人民の安寧」を願ったものである。

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閑院宮典仁


その君主意識は、後桜町上皇が訓育の為に何事か教訓を与えた時の返書に現れていて、「仰せの通り、天下万民をのみ慈悲仁恵に存じ候(中略)何分自身を後にし、天下万民を先とし」と幾度も天下万民を意識している。女性であり人徳豊かな上皇の教えは重要だが、光格天皇自身のこの様に強い君主意識はどの様に構築されたのだろうか。
因みに、閑院宮典仁親王と実母磐代君という血筋でつながったお二人の人間性を調べてみた。資料は少ないが、誠に孝行心の篤いDNAを感じる。典仁親王にとって尊号事件は、当事者である、それにも関わらず一切発言は残っていない。その他政治的影響力を発揮した形跡もない。自分の子ではあるが時の天皇への配慮を強く感じる。ひたすら文化的継承に努め、親王宮家の血統の維持に努力した人生であった。因みに、明治維新後、尊号を与えられて慶光天皇という。また、実母磐代君(いわしろぎみ)は倉吉の出身で身分は低い為、長く歴史上記録からは消されていた。倉吉市博物館にわずかに残る「手書きの書状」には、自らの母や子に対して細やかな気遣いが伝わる豊かな人格がうかがえる。また、皇室につながる子を産んだことへの戸惑いを述べているが、一方で幼くして亡くなった他の子への悲しみを控えめにも伝える母の愛情を強く感じる文面である。地元倉吉では、国母として神社に祀られている。一方、光格天皇は、崩御後、生前親孝行も出来なかったからと、両親の眠る蘆山寺に自らの位牌も並べるよう遺言している。

廬山寺 「慶光天皇廬山寺陵」
 そして、光格天皇の戦いは崩御後も続く。


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