逆順でたどる平安京の天皇たち
第80代 高倉天皇 後白河と清盛に翻弄される
元号 | 仁安 嘉応 承安 安元 治承 |
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先代 | 六条天皇 |
次代 | 安徳天皇 |
誕生 | 1161年9月23日 八条河原口盛国宅 |
崩御 | 1181年1月30日 六波羅池殿 |
陵所 | 後清閑寺陵 |
諱 | 憲仁 |
父親 | 後白河天皇 |
母親 | 平滋子 |
中宮 | 平徳子(建礼門院) |
子女 | 安徳天皇、後鳥羽天皇ほか |
皇居 | 閑院・五条東洞院殿など |
ウクベディア より
高倉天皇の最大のジレンマは、平家と後白河院との確執だった。
母が、後白河上皇の後半生、最も寵愛した女性である建春門院滋子(清盛の妻時子の妹)であった為、後白河院からは大変愛された。本妻である中宮よりその後の寵姫をより愛するのは、世の常である。
後白河からすれば15歳年下の滋子と間はまさに琴瑟相和す中であった。(肌が合う?)
一方、中宮の建礼門院徳子は清盛の実娘(従って両者はいとこ同士)なので周りを平家で固められている。さらに、後の安徳天皇が生まれるとすぐに譲位を迫られるという複雑な立場になる。
従って、後白河院と清盛の蜜月関係にある間は良かったが、「鹿ケ谷の陰謀」以降、両者の関係が決定的に壊れた後は、身の置き場がなくなる。
因みに天皇の評価は高く、神皇正統記始め、いずれの資料にも徳深い天皇として書かれている。
臣下にも誠実に接し、管絃の素養もあり歴代最高の天皇と絶賛している。在任中、厳島神社に天下平安の祈願に行幸するなど、善政に努めた。
しかし、時世には逆らえず、以仁王(弟君)と源頼政の反乱から治承の大乱へと運命が変転して行く。
母、建春門院がもう少し長生きしていれば後白河と清盛の関係が崩れる事もなかったが、高倉天皇の在位中、天皇15歳で亡くなる。
建春門院滋子の死因は二禁(腫物)である、その為その時、50歳の後白河院の悲しみは深く、そして平家との関係も終焉を迎える。
そして高倉上皇も、激動の最中、21歳の若い崩御であった。平家滅亡を見ずに亡くなった事はせめてもの慰めか?
次は、二条・六条天皇親子へ
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