25番 酬恩庵
京都府京田辺市薪字里ノ内102
山号 霊瑞山
宗派 臨済宗大徳寺派
本尊 釈迦如来坐像
開基 南浦紹明
中興 一休宗純
別称 一休寺
いよいよ山城地域に踏み込む、最寄りの駅は近鉄京都線新田辺駅だが、その後路線バスを乗り継ぐ必要があるので、車かタクシーの利用をお勧めする。京都駅から30分ほどかかるが、バイパス近くに酬恩庵はある。
大徳寺住職を務めた一休宗純の寺として有名であるが、筆者は、とんちの一休さんよりも晩年の人間味あふれるドロドロの一休さんが好きだ。
酬恩庵は、元は鎌倉時代初期の妙勝寺という寺を一休さんが室町時代に中興したものである。一休さんは大徳寺住職時代に、ここから10㌔近くの道のりを北大路の大徳寺まで通っていた。現在の酬恩庵の見どころは、将軍足利義教によって建てられた本堂と、方丈を囲む庭園群である。庭園は寛永の三筆の一人松花堂昭乗などの作庭で、北庭は蓬莱庭園、東庭は十六羅漢を表現し、南庭は白砂の大海を表現している。また、茶室虎丘庵にある茶道の祖村田珠光作庭の枯山水庭園も有名である。
そして最大の見所は、重要文化財の一休禅師座像だ。禅師没後、その頭髪と髭を植え付けたものであり、その表情は彼の生命力を現わすものである。生命力は精力であり、彼の晩年の凄まじさはつとに有名である。
森女という20代の盲目の美女と閨を共にし、快楽に溺れている。時に一休さん77歳、今でも考えにくいが、当時では驚異的な生命力である。「狂雲集」という書き物にその淫靡な実態を書き残している。
「美人の婬水を吸う
蜜に啓し自ら慚(はじ)ず、私語の盟
風流の吟を罷(や)めて、三生を約す
生身堕在す、畜生道
潙山(いさん)戴角の情を、超越す
美人の陰(おん)、水仙花の香有り
楚(そ)台(だい)応(まさ)に望むべし、更に応に攀(よ)ずべし
半夜、玉床、愁夢の間
花は綻(ほころ)ぶ、梅樹の下
凌波仙子(りょうはせんし)、腰間を遶(めぐ)る」以上抜粋。
現代訳はあえて書かないが、「淫水」とか、「蜜に啓し」「美人の陰」「腰間を遶る」など、字ずらだけでも想像に耐えない表現が続く。88歳で亡くなるまで愛おしんだと言われる。そして、臨終に際して行った言葉が凄い。「死にとうない。」である。大好きだ。一休さん。なお、一休禅師は南北朝統一時の後小松天皇(北朝)の御落胤だとされている。やはり皇族の精力はすさまじいのだ。
さらに山城地方を旅する。
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