祐さんの散歩路 Ⅱ

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・ 小池都知事の「排除」も「寛容」も、まったく心に響かない単純な理由

2017-10-11 19:00:30 | 小池都知事


今回の衆議院選挙は希望の党ができたために、野党が一つにまとまるはずが、おかしくなってきた。ただ一部には希望の党に期待する向きもあったが、徐々にその実態が見え始めてきた。基本的には自民との代替わりだろう。その党の代表である小池都知事の言動が見え始めている。真なる政治信条を持たない、単なる政治屋の可能性が高くなってきた。こんな党に票を入れたら、自民党とくっつき、とんでもないことになるだろう。

以下、現代ビジネスさんより転載します。





小池都知事の「排除」も「寛容」も、まったく心に響かない単純な理由

リベラルと保守を理解していないので…

山口 真由 (元財務官僚)


希望の党への合流を決めた民進党の一部議員が、政治信条をもとに選別されたことから、にわかに「リベラル」「保守」という対立軸が注目を集めている。しかし、この二つの立ち位置の違いを正確に理解し、説明できる人はどれくらいいるのだろうか。レッテルを貼り分けられるほど、議員たちの立ち位置はハッキリしたものなのか。『リベラルという病』(新潮新書)の著者、山口真由さんに聞いた。



(リベラル派は)排除いたします」と言って薄笑いを浮かべたあのあたりから、小池百合子・東京都知事の勢いは失速し始めたという見方がある。そんな空気を感じ取ったのか、最近の小池氏は、会見のたびに「寛容」「大きな心」などとくり返し、お茶を濁そうとしているようにも見える。

さて、先ごろ『リベラルという病』を上梓したこともあり、「現代ビジネス」編集部から、小池氏はなぜこれほどリベラル排除にこだわるのか書いてほしいとの依頼を受けた。

結論から言えば、そのような問いは「二重に」意味がないと、私は思うのだ。ただ、意味がないことを意味がないと整理しておくことに意義があろうという、まどろっこしい理屈を立てて、本稿を書き始めることにしよう。

二重に意味がないとした理由の第一は、そもそも日本に「リベラル」なんてないと思うから。第二に、小池氏にリベラルを排除するほどの強い政治信条があるとは思えないから。要するに、「空虚な概念 vs. 空っぽな信条」なのだから、そこには排除も寛容もないでしょう、と。


言葉だけ輸入された、中身のない「リベラル」 



民進党幹事長代行の辻元清美氏は、希望の党に公認申請するかどうか問われ、「私はリベラルの力と重要性を信じています。ですから、私は行きません」と答えた。多くの方が、辻本氏の言う「リベラル」っていったい何、と疑問を抱いたことだろう。

憲法改正に反対すること?原発再稼働に反対すること?もしそれがリベラルということなら、その根底にある哲学は、戦争に反対する平和主義だろうか?

太平洋戦争の敗戦国という重い十字架を背負った日本では、戦争と平和へのスタンスが、「保守」と「革新」を分ける大きな軸になってきた。安保闘争しかり。だが、その後「リベラル」という言葉を輸入したことで、日本のイデオロギーは混乱する。

きわめて広い意味を持つ「リベラル」という言葉だが、アメリカの現代政治においては、ニューディールから現在の民主党へと続く一つの系譜を指す。ここで大まかにその流れを解説しておきたい。

世界恐慌の渦中でも、政府は市場に介入しないとの方針を取ったフーヴァー大統領は、生活が立ちゆかなくなったアメリカ国民の怨嗟を一身に集め、退陣を余儀なくされた。続いて大統領に就任したルーズベルトは、政府の公的支出によって需要を下支えし、雇用やビジネスの機会を生み出そうとしてニューディール政策を推し進めた。

フーバー大統領

フーヴァーとルーズベルトフーヴァー大統領(左)とルーズベルト大統領 photo by gettyimages


景気の波さえ政府によってコントロールしようとする「大きな政府」論は、経済は市場によってしか調整されないという自由放任の「小さな政府」論と対置され、前者はリベラル後者は保守として分断される大きな軸となっていく。

そして、そこにアメリカの「神話」が重ねられる。黒人に対して非人道的な扱いをした歴史を深く恥じた知性派は、「人種の平等」を高く掲げた。少数者への共感は、やがて女性やLGBTへと広げられ、それがリベラルを支える大義を生んだ。「多様性への寛容」のため、政府は格差を是正して少数者にも均等に機会を与える必要があるという考え方から、「大きな政府」論が正当化されたのである。

このリベラルの発想は、いかにも「平和主義」につながりそうだが、実は真逆だったりする。人道主義という大義の御旗を振りかざすがゆえに、それを解さない野蛮な連中は武力によってその性根を改めてやろうというのが、リベラルの系譜を受け継ぐ民主党の伝統的な考え方なのだ。

実際、1990年代に民主党のクリントン大統領は、北朝鮮の核施設への空爆を実行寸前に至らせる強硬姿勢を見せている。それに比べ、保守の系譜にある共和党は、孤高のカウボーイよろしく、ヨーロッパの戦争にも干渉しない孤立主義を貫いてきたのだった。


アメリカのリベラルは、日本と真逆の立場 



ここまで述べてきたリベラルと保守の真髄には、人間をめぐる考え方の違いがある。

リベラルは「人間の理性」を絶対的に信じる。経済不況や格差は政府の積極的な介入によって解決し、野蛮な帝国は軍事介入によって折伏する。そうやって理性的な人間がコントロールできる領域を広げれば、多様な人間が共存できる理想的な社会ができ上がる。こうした一種の理想主義は、自然を耕し、従えるという発想につながる。

対する保守は、人間に対する深い懐疑がその源にある。荒野の開拓者を原風景とする彼らにとって、大いなる自然の前に人間はあまりにちっぽけだった。だから、彼らは自然を支配するなどというおこがましい発想を捨て、政府の介入は最小限にし、市場は自由競争に委ねようと考える。

そんなわけで、アメリカのリベラルは、憲法改正反対や原発再稼働反対を主張する日本のリベラルとは、真逆の立場をとる。

リベラル派の判事は、時代に合わなくなった憲法を解釈によって変更しようとするのが常だ。「解釈改憲は許されない!」と批判するのは、アメリカではなんと保守派の判事である。また、人間が自然をコントロールすべきとの発想から、アメリカのリベラルは原子力発電を人類の輝かしい到達点と考えている。

一方、日本では、戦後の「保守」「革新」という対立軸を離れ、「リベラル」の中身を定義しないまま言葉だけ輸入したために、混乱が起きた。今日に至るも、リベラルに分類される議員たちが「安倍憎し」以上の何を国民に伝えたいのか、ちっとも見えてこない

公平のために付言しておくと、今日の事態を招いたのは、保守の側にも責任がある。内閣官房長官時代の安倍晋三氏が記した『美しい国へ』(文芸春秋、2006年)というきわめて評判の悪い本の中で、彼はドラマ「大草原の小さな家」を「古き良き時代のアメリカの理想の家族のイメージ」として、伝統的な家族の価値への回帰を目指したレーガン大統領の政策に同調している。

だが、安倍首相がアメリカの共和党と同じ「保守」思想を持っていると考えるのは、誤解だ。確かに、伝統を重んじるのが保守の立場だが、守るべき伝統が日本とアメリカではまったく異なることを忘れてはならない。アメリカの保守は、解釈改憲を容認しないし、原発も推進しない

結局、日本では、リベラルも保守も、自らを定義する言葉の意味すらわかっていないというのが現実なのだ。


小池氏が目指すのは「私が輝く日本!」 



さて、多少ややこしい話が長くなってしまったが、話を戻そう。

小池氏が自らと政策を異にする勢力を「排除」したこと自体は、別に批判されることでもない。政策を実現するために政党を作るならば、異なる政策を掲げる者と一緒に結党するほうがおかしい。安倍政権に「NO」と言うためだけに寄せ集まった、政策の一致を見ない野合の衆をもって「多様性のある集団」と主張したいなら、話は別だけれど。

希望の党

細野豪志氏と若狭勝氏小池都知事を囲む、希望の党の細野豪志氏(左)と若狭勝氏 photo by gettyimages


政策が一致する者どうしで党を作りたいという正論を掲げる小池氏が、それでも批判されるのは、この人が政治的信条を持たない“カメレオン”なのだと、なんとなくみんなにわかってきてしまったからだろう。

「小池氏は、政策を異にする『リベラル』を排除したかったわけじゃなく、人気のない民進党をそのまま抱え込むと、希望の党が失速すると思ったからじゃないの?」「首相経験者とか自分よりも格上の目の上のタンコブが入り込むのを嫌っただけじゃないの?」という具合に。

都政を牛耳る人相の悪いオジサンを「都政のドン」呼ばわりし、そこに切り込む勇敢な女性として「改革勢力」のイメージを売り物にした小池氏は、アメリカのリベラルのキーワードである「ダイバーシティ(多様性)」を謳うものの、第一次安倍政権で防衛大臣を務めたことからもわかるように、安全保障については安倍首相と相違ない見解を持つ、日本で言うところの「保守」だ。

大衆にウケると思えば「改革者」になり、ときには「保守政治家」に舞い戻る。彼女の中心にあるのは政治信条ではなく、極端な自己中心性ではないだろうか。

都民ファーストの会の国政進出を進めようとした「百合子一筋」若狭勝衆院議員の面目を、「リセット」のひと言でものの見事につぶし(←まあ、若狭氏はそもそも無能だとの批判もあるが)、希望の党に合流すれば民進党候補者がまるごと公認を得られるという前原氏の期待をさらりと裏切る(←まあ、前原氏のお人好しな期待が甘かったといえばそれまでだが)。安倍首相への対決姿勢を明確にしたかと思えば、いつの間にやら自民党との連立も考えられるという


前原誠司

前原誠司元外相前原誠司元外相の見立てでは、希望の党と「合流」するはずだったが…… photo by gettyimages


「初の女性首相」という自らの進路は何よりも明確なのに、日本が進むべき将来の方向性は描けない。そんな小池氏からは、「日本をどうしたい」より「私はこうなりたい」しか見えてこない。つまり、「私が輝く日本!」ということか。

「朝からメディアの皆さん、私の発言ばかりを報道して」などと満足げに微笑む小池氏を見ていると、残念ながら、この人の芯にあるのは「私を見て!」という強い欲求だけだと思わざるを得ない。

都民ファーストの会の議員にメディア発言を控えさせるのも、若狭氏や細野豪志氏にメディアへの出演を自粛せよというのも、「私より目立つな」という暗黙の指示ではないか。結局、都民ファーストの会の代表に据えたのも、自分に決して歯向かわない、自分より決して目立たない、自らの元秘書なわけでしょう?

そういう意味で、元滋賀県知事の嘉田由紀子氏と小池氏はよく似た人種だ。嘉田氏が希望の党の公認を受けられなかったときには「やっぱり」と思った。「同族嫌悪」、目立ちたがり屋は目立ちたがり屋が嫌いなのだ。都民ファーストの会から音喜多駿都議が離脱したのも、どう言葉を飾ろうと、「私を見て!」と「僕の声を聴いて!」の対立に相違ない。



橋下徹氏には思想があった 



「ポピュリズム」と批判されようとも、橋下徹氏は少し違ったのではないか。だからこそ、大阪維新の会が日本維新の会として国政進出するときには、小池氏に寄せられているような批判が起こらなかったのだと思われる。

橋下氏も確かに目立ちたがり屋ではあろうが、彼には思想があった。

大阪府知事時代の2008年、私学への助成金28億円を打ち切る財政再建策を打ち出した際、高校生12人から猛抗議を受けた。が、橋下氏は、私立ではなく公立校を選ぶ道もあると告げ、公立校には学力が足りないと泣きつかれても、「自己責任」と取りつく島もなかった。大人気ない対応だとも言えようが、子供相手にすら曲げられない確固とした信念があったというのは、いささか持ち上げ過ぎだろうか。

アメリカの保守と重なる「小さな政府」論を明確に打ち出した橋下氏に対し、改革勢力、リベラルにも保守にも変わる小池氏からは、理念が見えてこない。結局のところ、そこには政治信条などないのだろう。

とはいえ、私は、小池氏をある意味あっぱれと思っている。誰だって目立ちたい政治家の中で、埋没しない手腕と度胸はさすがだ。本稿の最初に「日本にリベラルなんてない」と書いたが、小池氏の「私を見て!」という生々しくも力強い野心は、「日本のリベラル」という空虚な概念、妄想をこの際打ち砕いてくれるのではないかと、私は変な期待を抱いている。



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