祐さんの散歩路 Ⅱ

日々の目についたことを、気ままに書いています。散歩路に咲く木々や花などの写真もフォトチャンネルに載せました。

・ 世界に眠る戦没者の遺骨をどうするのか

2017-09-06 22:59:50 | 政治


今は、北朝鮮の核弾頭ミサイルの話題が多くあります。
国民を洗脳し、戦争することを非難する者を非国民扱いにして抵抗できない雰囲気を作り上げ、国や家族を守るためという建前論を持ち出し徴兵し戦場に送り出す・・・ことを如何にしてだまし続けるかが自民党政権の狙いのようです。

アメリカのポチとして言われるがままに戦争の準備を強引に推し進め、政権の維持の為に後ろ盾として陰で動いてもらい、戦争で儲けられる大企業からの多額の献金を受け取る。全てのしわ寄せは、善良なる国民のみ・・・・・自分の家族が亡くなっても、その遺骨さえ探そうとはしない政府。旨い汁は自分たちがとり、大変な事はすべて国民が背負いこむ・・・ 政府を信じるとロクなことは無いのは、古今東西どこにでも転がっている話。ゆでガエルが一人でも減ることが大切です。そしてろくでもない政治屋を送り出さないことですね。

以下、現代ビジネスさんより転載します。



「113万体」世界に眠る戦没者の遺骨をどうするのかという、この国の宿題
栗原 俊雄 2017.8.11

硫黄島

日米激戦の舞台となった硫黄島【PHOTO】gettyimages

世界各地に眠る戦没者の遺骨、その数113万体。すべての遺骨を収容することは不可能だろうが、一人でも多くの遺族にそれを引き渡すことが、国家の責務ではないだろうか。『戦後補償裁判』『遺骨』の著者・栗原俊雄氏(毎日新聞)の特別レポート第三弾――。

やって来ましたこの季節、マスコミが1年で一番、戦争に関する報道をする8月です。「今年はあんまりみないぞ」というあなた、その通りです。昨年の戦後70年で各社たくさん報道した反動か、はたまた今年はオリンピックや選挙の取材で忙しいのか、各社あんまり積極的ではないかもしれません。

しかし1年中8月ジャーナリズムの旗を高く掲げ、常夏記者と呼ばれる私は、相変わらず戦争の記事を書こうと思います。「昔の戦争じゃなくて、イスラム国とか今の戦争を報道しろよ」という声が聞こえました。いえいえ、そういう報道は各社のエース記者がやっていて、常夏記者はお呼びではありません。だいたい語学は板橋弁しかしゃべれません。大きな選挙の泡沫候補のように、独自の戦いを続けます。

ま、花札じゃなかったトリンプじゃなかったそれは下着メーカーだ、そうそうあのトランプさんだって、最初は泡沫扱いだったんですから。常夏記者も、この先どうはじけるか分かりません。江戸っ子だってねえ。板橋の生まれよ。


楽観的な終戦構想がすべての元凶 


今から75年前の1941年12月、大日本帝国はアメリカやイギリスなど連合国と戦争を始めた。後年「太平洋戦争」と呼ばれるように(近年は「アジア・太平洋戦争」と呼ばれることが多い。保守派は「大東亜戦争」と言う)、主戦場は太平洋だった。つまり、海軍が重要な役割を果たす。

帝国海軍の実力は、軍艦の保有量や国力などからみて世界トップスリーの一角にあった。ほかの二国はアメリカとイギリスだ。つまり帝国海軍は、3強のうちの2強からなる連合軍に立ち向かうことになった。同盟国のナチスドイツ、イタリアは海軍力が弱く、太平洋海域で戦うことはおよそ不可能だった。このことから分かる通り、そもそも勝てるはずのない戦争だった。

秀才ぞろいの帝国陸海軍、政府もそのことは分かっていた。ではどのような終戦構想を持っていたのか。それは(1)ドイツがイギリスを屈服させる(2)アメリカが戦意を失う(3)講和が成立する、というものであった。

1939年の大戦勃発以来、ドイツは快進撃を続け、スペインなど中立国を除く欧州全体を手中に納める勢いだった。イギリスはその欧州大陸から本土に追い落とされ、独空軍の激しい空襲を浮けた。風前の灯火、のようにみえた。

だが、ドイツの海軍力ではイギリス上陸を成功させるのは難しかった。つまり大日本帝国の終戦構想は最初から危うかったのだ。また、かりにイギリスが降伏したとしても、アメリカが戦争をやめる保障はない。帝国は願望の上に願望を重ねた構想で戦争を始めたのだ。

蜃気楼のような構想の結果、帝国は惨敗した。日本人だけで310万人が死んだ(厚生労働省の推計)。


未収用遺骨は113万体


戦争は、政治家や軍人など為政者たちが始めた人為的な災難である。間違った国策によって被害を受けた人は、国の補償を受ける権利がある。補償をするのは、帝国の後継である日本国政府だ。ところが、その政府が戦後補償、ことに国と雇用関係になかった民間人への補償を拒んできたことは、以前の「常夏通信」で書いた通りだ。そして、亡くなった人たちの遺骨収容についても、政府は責任を果たしてこなかった

前述の310万のうち、240万人が海外(沖縄、東京都小笠原村硫黄島を含む)で亡くなった。政府は「サンフランシスコ講和条約」が発効した1952年の独立回復以来、遺骨収容を続けてきた。今日まで127万体が帰還したとされる。このうち、政府の事業によるものは34万体に止まる。大半は戦友会や遺族らが収容したものなのだ。

そして、未収容の遺骨は113万体に及ぶ。

「政治は結果だ」という趣旨のことを政治家はしばしば言うが、戦没者遺骨の収容に関する限り、およそその責任を果たしてきたとは言い難い。メディアはよく「戦後補償問題」という言葉を使うが、正しくは「戦後未補償問題」なのだ。以下は主な地域と未収容の遺骨の概数である。

中国(23万)▽インド(1万)▽ミャンマー・タイ・マレーシアなど(4万6000)▽フィリピン(37万)▽インドネシア・北ボルネオ(2万5000)▽中部太平洋(17万)▽ビスマーク・ソロモン諸島(6万)▽ロシア・モンゴル(3万)▽北朝鮮など(5万)。

遺骨収容における未補償問題で象徴的なのが、硫黄島(東京都小笠原村)である。クリント・イーストウッド監督の映画「硫黄島からの手紙」「父親たちの星条旗」などで知られる通り、この島は第二次世界大戦末期、日米両軍が激戦を繰り広げた場所だ。

都心から1250キロ南の離島とはいえ、首都東京の一部である。自衛隊が常駐している。その地にして戦後71年が過ぎた今、戦死者およそ2万1900万人のうち、いまだに1万体以上の遺骨が未収容なのだ。


「どこで幕を引くべきか」



筆者は2012年7月、遺骨収容に参加した。自衛隊の滑走路近くで、たくさんの遺骨が発掘された。黒い砂地に、自分が掘り出したものを含めておびただしい骨が並んでいた。目の前の光景をどう解釈していいのか分からなかった。地熱の高いところに長年埋まっていたせいか、いっけん頑丈にみえる骨がとてももろく、掘り起こすのに力を入れすぎると、すぐにぱらぱらと黄な粉のようになってしまった。

たくさんの遺骨以上に衝撃的だったのは、戦没者の息子や娘、70歳前後の人たちが父親の骨を掘っていることだった。「美しい家族愛」とは、筆者は思わなかった。南島の夏の暑さは、立っているだけでつらい。発掘がどれくらい過酷か、想像してほしい。「高齢の遺族が、こんな過酷な作業をしなければならない国家、日本の戦後はなんだったんだろう」と思った。

さて、遺骨の収容事業には「国がそれをやらなければならない」という根拠法がなかった。法的には、いつやめてもおかしくなかったのだ。実際、52~58年度に硫黄島と沖縄、サイパン、フィリピンなどの南方で約1万人分を収容した後、政府は終了させる方針であった。

もともとすべての遺骨を収容するのは不可能であり、その後も幕引きを模索した。たとえば、2002年度の「厚生労働白書」には、フィリピンなど南方での遺骨収容を「おおむね終了」と書いた。さらに2005年、尾辻秀久厚労大臣(当時)は南方での遺骨収容について「どこかで幕を引くべき」と述べた。前述のように、膨大な遺骨が収容されていないにもかかわらず、だ。

実際はその後も続いた。しかし、年を追うとごとに収容は難しくなる。(1)もともと収容しやすいところから進めてきたこと(2)埋葬地などを知る戦争経験者が少なくなってきたこと(3)外国の場合、都市開発などによりもとの埋葬地が分からなくなってしまったこと、などによる。

このまま、本当に幕が引かれてしまうのか――。そんな遺族ら関係者の危惧をよそに、政治で動きがあった。戦後70年の2015年、戦没で亡くなった人たちの遺骨を帰還させるための超党派の議員立法「戦没者遺骨収集推進法案」(推進法案)がまとまったのだ。



ひとつの画期



中心になったのは、自民党の水落敏栄(みずおちとしえい)参議院議員である。水落議員の父親は海軍の整備兵で、敗戦直前、山形県の飛行場で米軍機に襲われ戦死している。

「推進法」の眼目は、遺骨収容を「国の責務」と明記したことだ。さらに2015年10月から10年間、集中実施することを国に課した。また関係各省の連携を義務づけた意味も大きい。

収容の主管は厚労省だ。スムーズに進めるためには、収容を行う外国と交渉する外務省、移送に関わる防衛省、予算の裏付けをはかる財務省など省庁の協力が不可欠だ。だが、従来は「縦割り行政」の弊害がしばしば指摘されていた。推進法はこれを改善しようとするものだ。

推進法は2015年9月11日、衆院を通過した。この日の本会議は、「改正派遣法案」を巡る反対演説で与野党議員の怒号が飛び交っていた。しかし推進法案が提案されると、雰囲気が一変。多くの議員が「異議なし!」と力強く応じ、全会一致で可決、議場は万雷のような拍手に包まれた。参院は時間切れで継続審議となり、結局成立したのは今年3月24日であった。集中実施期間は、2024年度までの9年間となった。

あまりにも遅すぎたとはいえ、推進法は戦後補償史における一つの画期ではある。衆院での様子をみれば分かる通り、政党や歴史観の違いを超えて同意できる事業でもある。

硫黄島で遺骨を掘ってから4年。筆者は今でも、70歳を過ぎた遺族たちが、記憶がほとんど、もしくは全く無い父親の骨を探している姿を思い出す。すべての遺骨が返ることはあり得ないだろう。だとしても、待っている人が元気なうちに、一人でも多くの遺骨を、その人たちに渡す。それが、戦争にまみれた大日本帝国につらなる政府、あるいは日本人の責任だと、筆者は思う。

でも、苦労して掘り出した遺骨の身元、分かるの?と疑問を持ったあなた。ごもっともです。実は、前述の推進法ができても、遺骨収容には課題がてんこ盛りなんです。それについては、次回の常夏通信で。