十年後を見よ

2009年08月23日 | Weblog
先日、もと遠妙寺に所属していたご信者で、今は他のお寺に所属されているSさんにある御講席でお会いしました。
この方は、以前は他県に住んでおられ2時間の道のりを毎朝、遠妙寺まで通って朝参詣に励んでおられました。
もう10年も前に医師から、「貴方はもう幾ばくも寿命がない」と宣告されたそうですが、どっこい今も元気で暮らし、相変わらずよく参詣されています。ですから、毎日、朝参詣して本門八品所顕上行所伝本因下種の南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱える功徳は非常に深いのです。
このSさんに対して、知り合いの裕福なご婦人、Yさんは見下したように、また、「Sさんはおかしな格好をされているのねぇ」と言わんばかりに、もう一人の方と冷ややかに笑っていました。
もちろんこのYさんは本当のご信心、正法のご信心をなさってない方ですが、よく電車の中で会ったそうです。二人がいかにも悪口をささやき合っている様子で、Sさんの頭からつま先まで見ている、その冷たい視線はSさんの心に矢のように突き刺さりました。
ところがどうでしょう。10年経った今、Sさんは大変元気に明るく暮らしておられ、一方、Yさんとそのお友達は急に老け込み、寝たきりに近い生活をされているそうです。
まなほなる よき信者をば 軽しめて 無智とあざける ものしらずかな
と、開導日扇聖人は御教歌をお示しです。
「まなほ」とは「真直」。素直正直に生きる者。教えを素直に守る法華経の信者という意味です。そういう人を軽め、無智な者よと嘲笑し、見下す人こそ、真実の意味で「ものしらず」の馬鹿者であるという意味です。
法華経によれば、その昔、不軽菩薩というみすぼらしい身なりのお坊さんがいて、会う人ごとに、その人の持つ「仏性」(仏としての徳性)を礼拝して歩かれたと伝えられています。もし、拝まれた人自身が自らの仏性があることを知り、自らの足で起ち上がり、真実の信仰に目覚めて上行所伝の南無妙法蓮華経の御題目をお唱えすると、知らないうちに、その人も周囲も変わってきます。それまでのインドの雑多な信仰をしていた人々、また、仏教徒でも大多数の人は、人に仏性があることを教えられても、拒否して、不軽菩薩を異端者としてあざけり罵り、杖でうちつけ、石ころや瓦礫を投げつけたと言います。
それでも、なおかつ不軽菩薩は自らの信念を曲げることなく、仏性礼拝の修行を続け、大勢の人を真実の信仰にめざめさせ、たくさんの人を救ったのです。
人は見かけや身なりでもなく、身分でも学歴でもありません。その心がいかに気高く、いかに真剣に、真摯に、真実の御法をたもっているか、いないか。それが問題です。また、他の人を思いやり、本当の人助けとなることをなさっているか、どうか。それが菩薩と、それ以外の人の分かれ目です。
十年後に、本当に心の底から喜べるのは誰か、それを見極めなくてはなりません。
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