明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



頂相や頂相彫刻と対していて感じることは、迫真的描写で高僧の姿形を写すことに対する執念のようなものである。人像、ヒトガタには様々な物がある。愛玩用、記念像、人物とは違うが仏像など、その多くが人の願いや尊敬の念や愛情を受け入れる容積のような物を役割として持っているが、頂相彫刻においては少々異なる気がする。禅宗では仏像を拝し、経を読むこと以上に、師との精神的結びつきを重んじ、それにより弟子がある境地に達した時、卒業証明のように師の頂相が与えられ、その肖像画を、師そのものとして守って行く。そのため、迫真的に写すことに意味があり、幼い私が百科事典の西洋彫刻ではなく、頂相彫刻を飽きることなく眺め、小学四年で母にねだって読んだ『一休禅師』に載っていた一休和尚の肖像画が深く残り、未だに和尚に手を加えている有様で、私にとって、人像表現の頂点と考えるに至った理由も、そこにあるだろう。 人形は人形から、写真は写真から学ぶべきでないと考えて来たが、蘭渓道隆と無学祖元を手掛けたことにより理解したことが多く、年内に。蘭渓道隆師の没年齢を超える前に、ここに至ったのは幸いである。



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