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明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



昨年入手しておいた冷凍マテ貝を解凍し撮影。背景はすでに用意してあるので、どう撮影するかは決まっている。数カットで終了。とりあえず網で焼いて食す。寒い。ついでに芋焼酎。すぐ合成作業に入る。イメージとしては穴の中の河童が、ちょうど諏訪の御柱祭のようにマテ貝にしがみつく予定である。砂浜に100円ライターがただ突っ立っているようなマテ貝より面白いであろう。  鏡花は時間を微妙にずらす。今の事かと思うとさっきのことで、もうすでに済んでしまった事を、思いだしたように差し挟む。こういったことも鏡花作品のリズムに貢献しているのであろう。しかしおかげで勘違いして、人の向きから地面の様子から、何度作り直したことであろう。ビジュアル化している私としては、混乱のもとだと、時間にそって律儀に描いていたが。  昨晩、河童の三郎が長い石段を上り、ようやく境内にたどり着き「願いまっしゅ」と、かしずくあたりを作った。左のページのカットは、神社額の影から白い蝶が飛ぶ。鱗粉をまき散らすようにユラユラ飛ぶ雰囲気も出て完成した。 私は完成した、と思ったとたん未練がましく、合成データを統合せずに保存しておくのが嫌いである。普段はだらしなくノンビリしているくせに、作品制作に関することはせっかちで、完成した。と思ったら要らなくなった物はすぐ捨ててしまう。 マテ貝に焼酎の午後。おおまかなレイアウトを眺めていて、蝶が、右側のページに時間を無視して飛び込んできたらどうだろうか。と思いついた。たいした表現ではないが、1カットで完結させる写真作品とは違い、ページを開く書籍ならではのやり方があるだろう。律儀に時間に沿って描くよりも効果的なシーンが他にもあるかもしれない。 それにしてもすでに作業を昨晩終えてしまっている。“夜書いたラブレターは一晩寝てから投函せよ”である。後悔しても遅い。もう一度作りなおさなければならなくなってしまった。未練がましいことへの嫌悪というのは東京の下町育ちと無縁ではない。どうせもともと未練がましい人間に限って、そんな見栄を張るに違いないが。そんなにさっぱりしているのなら、まず部屋を片付けろ、と自分にいいたい。

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『貝の穴に河童の居る事』のマテ貝は、細長い筒のような形をした10センチほどの貝である。穫る場合は、穴の上に塩をかけると、塩分濃度の変化にビックリしたように頭を出し、そこをすかさず引っこ抜く。この作品が発表された昭和の初め頃はどうだったか判らないが、現在はアサリやハマグリのように、誰しもが知っている貝ではない。せっかくビジュアル化するのであるから登場させてみたい。すでにニョッキリ砂から顔を出しているカットは用意してある。100円ライターが砂浜に突き刺さっているようではあるが。 ところが紙面にそのカットを差し挟むスペースがない。編集者は要らないのでは、というが、細長い奇妙な形で、砂の中を上下する“穴”なのであり、それをイメージしてもらうことは悪くないだろう。 本日、改めてマテ貝を登場させるシーンを思いついた。 河童の三郎がマテ貝の隠れ家である穴に逃げ込み、そうとは知らない娘が覗き込む。実際は外から見える穴は2、3ミリ程度のもので、着物姿の娘が砂浜に這いつくばって覗き込むことはあり得ないが、覗く娘の瞳の美しさに三郎がうっとりしているところを、貝を掘り出そうとした旅館の番頭のステッキで突かれて腕を折られる。 瞳が覗き込んでいる様子はすでに作っており、三郎が半身海水に浸かりながらぼーっと見上げている所を作るつもりでいた。それをマテ貝の住処は留守でなかったことにしようと考えた。穴の中で小さく変身した三郎が、大木のようなマテ貝にしがみつきながら娘の瞳を見上げている。作中マテ貝自体は登場しないが、この奇妙な場面こそ私が作るべきであろう。思いついてしまったらもう終わりである。これは物心ついて以来患いっぱなしの持病である。そう思うと、この場面だけでなく、制作中の作品全体が病気のたまものといえなくもない。この病気を悟られないためには、「鏡花や乱歩がそう書いているんだから仕方ないでしょう」。そういいながら溜め息の一つもついて見せるしかない。

 “大荒れの台風の日。佃の渡し船の絵を描いていて、煙突の東京都のマークがどうしても描きたくて、マンホールのマークを見に行った幼稚園児の私を止められなかった母”が写経したものを深川不動に持っていくというので付き合い、その後T千穂へ。せっかくなので、まだ隙間だらけの原稿を見せた。母も顔なじみの人に出演してもらっている。「Kさんは出てこないの?」「主役の河童にホンモノ使ってどうすんだよ」。

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私の世代は妖怪、怪獣ブームの洗礼をまともに受けている。受けるには適切な年齢で適切な洗礼を受けたといえるであろう。始めて映画館で観た『キングコング対ゴジラ』はどちらがゴジラだか知らなかったが、ねだったわりに、キングコングの顔のアップで父の背中にかくれ、しばらくどこへ逃げてもキングコングと目が合ってしまう悪夢に悩まされた。生まれた時から、こんな感じだったような気がしている私にも、可愛らしい時代があった、と想い出せる数少ない記憶である。小学生になると映画館は同級生だらけ。舞台に何故だかムシロが敷いてあった。そこに寝転がって『大魔神』を観てみたら近すぎて判らなかった。妖怪映画も封切られ。まさにブームであった。先日書いた、親戚の子が遊びにきて父に連れて行ってもらった『薮の中の黒猫』も怪談映画だ、と私がねだったのは間違いがないだろう。『四谷怪談』など18禁だったのが悔しかった。 漫画でいえば、それはもう水木しげるなわけである。鬼太郎はゲゲゲより墓場のほうが好みであったが。 子供が妙な物に出くわし、「今のはきっと○○に違いない」。とかブツブツいいながら一人、細密に描かれた田舎道を歩いている場面などは無性にひかれた。 水木作品には始終、画面にモヤのような物が漂っている。異界にはあれが漂っていなくてはならない。只今神社の境内に漂わせてみたが、誰かが焚き火をしているような感じになってしまい、やり直したら今度は昔のアメリカのTV漫画の、ごちそうの香りが漂っているようで、さてどうしたもんだろう。とこれを書いている。 何度かブログに載せているので改めて載せないが、昔、靖国神社の通りを隔てた画廊で撮影した写真には、画面中に白いモヤが尾をひいて漂い、中にはホップしているものまで写っていた。カメラ内蔵のフラッシュが発光したホンの一瞬である。たまたまそんな物が現れても、あまりにもスピードが早く、人間には目視できないのではないかと思ってみたりした。

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踊りの師匠の丸髷は、鏡花の時代の挿絵をみると、ちょっと雰囲気が違う。調整してみたらぐっと良くなった。髪型は時代により様々である。櫛、笄はネットオークションで落札しておいた物がある。モニターでみても良い物だと判ったので、どうせ落ちるわけがない、とそのまま飲みにいってしまったが、帰ったら落札していた。これでお礼をいわれてはまったく申し訳ない品で、ベッコウに漆に金彩などの櫛と笄がいくつも届いた。いくつも届いたところで、たった一日の物語である。櫛はともかく、髷の中から頭を出す笄はそう取り替える物でもなさそうである。 河童の三郎は鎮守の社の姫神に、腕を折った人間どもへの仇討ちを願い出る。そこでまず用件を聞くのが柳田國男演ずる、禰宜姿の翁である。今の所、ただ突っ立っている翁しかないので、かがんで三郎の話を聞く翁を作ることにした。 娘の尻を触ろうとした三郎は、見つかりそうになりマテ貝の穴に隠れる。そうとも知らない人間が、貝を掘り出そうとしてステッキで穴を突く。翁もいうが、それで仇討ちとは道理がとおらない話である。しかし翁はあくまで三郎に愛情深く接し、一応姫神に伺ってみようということになる。 三郎はマテ貝の穴に入るくらいだから、小さい方にはいくらでも変われるが、普段の大きさは90センチ程度である。この場面はひれ伏す子犬に接する老人。そんな場面をイメージしている。私は柳田が、盟友鏡花のこの作品に対し、「河童を馬鹿にしてござる」と評していたのを知っている。それを承知で出演いただくのであるから、ここは一つ、それに見合う場面にしたいところである。

それにしてもつくづく思うが、手前勝手な理由で喜んだり腹を立てたり、三郎と身も心もそっくりな人物が近所にいる。違いをあえてあげるならば、執着箇所が尻より胸であることくらいであろう。先日の夜、飲んだ別れ際の信号待ち。何かぐずぐずいっている。要約すると、自分の置かれている状況の問題点は、女性が自分に焼きもちをやくせいだ。ということのようである。一度鎮守の杜の姫神様に相談したほうが良かろう。私はこの男の頭頂部に金ダライが直撃する様を想像していた。

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この作品は、ほとんど全編にわたり梅雨の曇天でしかも夕暮れ時である。気分としては鏡花作品でもあるし、多少煙っていても月の一つも浮かべたい所であるがしかたがない。しかしその日の昼間は晴天で、印旛沼あたりに住む河童の三郎が海辺へやってきて日向ぼっこをしていて事が起こる。が本作について堀辰雄が本作に対し「なんと色っぽいのだろう」という友人がいると書いている。もしどこか色っぽいシーンがあるとしたら、現代人の野暮な私の目から見ると、娘の着物のすそから覗くふくらはぎくらいしか思い当たらない。書かれた昭和6年という時代を考えれば、なかなかの光景であったろう。好色な河童はそのおかげで怪我をすることになる。それに全体像が見えてくると、全編にわたる曇天の中に、娘の裾から覗く裏地の赤が際立って効いている気がしてきた。赤色といえば他には漁師の赤フンドシと、彼らが捕らえた巨大魚がしたたらす血が出てくるが。白いふくらはぎとセットになった娘の裾は、唯一陽を浴び、海面の反射を受け輝く赤である。もう1カット増やすことにした。

せっかく泉鏡花像が手元にあるのに出番がない。いつもは主人公を作者にやってもらっていたので、本来は人間側のリーダーである笛吹きの芸人をやってもらうべきであったが、数カットならともかく、今回は人間との共演場面が多い。動きもなく質感も違う人形では長丁場は持たないと判断し、異界の住人以外は生身の人間にやってもらうことにした。残る可能性は姫神に仕える翁であったが、異界の人物が眼鏡をかけているのはどうかということもあったし、河童といえば過去に制作した柳田國男があった。(柳田のヒゲも、異界の住人にしては形が少々俗っぽくはあるが)。これで鏡花登場の場面はないはずであったが、一つ役があるのを見落としていた。作中、話のポイントとなる巨大魚イシナギの、大きさの表現に筆者として悩む鏡花である。

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ミミズクは2カット木に止まらせた。前作とは比べ物にならない出来である。あと1カット作って女性の顔を合成する予定。ミミズクが泊まる杉の木だが、以前杉だと思って撮影していたら杉でなかったことがある。どんな植物でも枯らしてみせる植物音痴の私だが、近所の神社にはあんな紛らわしいものは生やしていまい。撮りに行くことにする。 本日、ようやく冒頭の河童が石段を上がって行く背景を、2転3転のあげく。いや5転はしただろう。良い石段が各シーンに使われて行き、後ろ姿の小さな河童ごしに見えるには絶妙の角度の1カットを見つけた。 河童の三郎は、このままでは姫神様に失礼だ、と。カカシのボロを剥いで着ている。それがまだ決まっていない。粘土で行くか布でいくか。鏡花は布地に模様があれば、たとえカカシだろうと書くのではないか。よって無地ということだけは決めている。 ここへ来て細かいデイテールを追い込んでいる。なぜあの頃、この程度で喜んでいた。と呆れるばかりで時間ばかりかかるが、おかげである場面だけが目立つ、ということがなくなってきて、各場面が共鳴してきている気がする。

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某神社は百段はあろうかという石段を上がり鳥居をくぐる。作中では鳥居はなく、杉の古木が生えている。忠実に現場を描写する鏡花であるから、当時は鳥居の場所は違っていたのであろう。作中のままだとしたら、今は家が立ち並んだあたりにポツリとあったのかもしれない。私は街自体を消し、荒れた水田と畑で覆った。 現場は石段を上りきると、右に折れ、さらにだらだらとした石段があった。左の崖側には紫陽花が群生していて、ここのカットを使うことは最初に決めていた。陰鬱に写る東ドイツ製レンズのおかげで紫陽花が妖しい。しかし鏡花はここを“坂”と書いており、石段とは書いていない。鏡花は目に見えない物をあれだけ描きながら、見える物に関しては律儀である。しかたがない。鏡花が坂と書けば石段ではない。石段は後に作られた物であろう。紫陽花はどうしても削除しがたく、別の所から山道を持ってきて合成し、紫陽花を生かした。   私は作品として風景を撮るのは本来好きではない。良い日に良い場所にいました。それを証明しているに過ぎないように思えるからである。もちろんそういうものではないのだが。しかし今回、様々な風景をでっち上げてみて、そんなカットに限り愛着が湧いた。なにしろ探したってどこにもない風景である。写真は本来光画と訳すべきで、まことを写すという意味の写真という言葉が嫌いなことは何度もいっている。まことなど扱ってたまるか、と画面からまことを排除することにファイトを燃やしている。鏡花のおかげで頭の中に浮かんだ風景をねつ造するのが楽しくなってきた。 坂を突き当たると急な角度でさらに折れ、再び石段がある。ここでようやく境内が見える。最初の石段と違い、二つ目の石段は、6、7段程度の物である。鏡花はその長さ、段数は書いていない。もっと長い石段だと思わせたかったのかもしれない。異界の社は近づきがたく在るべきである。少なくとも私はそう思い込んで2つ目の石段を見て拍子抜けした。だったら再び長い石段と書いてしまえばいいものを鏡花は書かない。私がここに持ってきた石段は、実際よりはるかに長い石段で、なぜこれだけ放っておいた、というくらい雑草が茂っている。おかげでこの先にアンタッチャブルな存在が生息している雰囲気が実際より出ただろう。

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『貝の穴に河童が居る事』には異界の妖怪が登場するが。蛇なら蛇、カラスならカラスのままだが、唯一違うのが女の顔をしたミミズクである。千里眼で、離れた旅館に滞在する芸人三人の情報を異界の森にもたらす。上野動物園の金網越しのミミズクで1カット作ったのだが、けっこう重要な役どころでセリフも多い。これでは使い物にならない、と作り直すことにした。数ヶ月、ミミズクの撮影場所を検索していたら、近所に『鳥のいるカフェ』ができてしまった。これでいつでも撮れる。あとは撮りたくなるのを待つだけである。周囲では何故はやく撮りにいかないといぶかる向きもあったが、撮りたくなって撮ると違いがでるのである。食べ物が空腹で食べると美味しいのと原理は同じである。ショーウインドウには鷹と世界最大クラスになるというミミズクがいる。メスなのでオスはさらに大きいと訊いたかもしれない。しかし撮ってみると、兵隊の位でいうと私よりよっぽど貫禄があり、女顔のミミズクにはちょっと怖い。結局店内の椅子につながれた小さいミミズクを撮影した。これがやたら可愛い。長年飼った熱帯魚も全滅して久しい。撮りながら欲しくなってしまった。天気の良い日にもう一度撮らせてもらうことにしたが、空腹で撮ったものだから、やはり出来が良く、本日の撮影で間に合ってしまいそうである。問題はこれをどう女顔にするかである。申し訳ないくらい顔を潰して合成することになるだろう。

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画像を合成する場合、後で何があるか判らないので、画像を統合せずに、ある程度経った時点で統合して1カットにすべきであろう。しかし私の場合、これで大丈夫。と思った時点で、未練がましく保存しているのが嫌で、良いと思った時点で、未練を断ち切るように統合してしまう。部屋の中と違って作品に関しては整理好きである。 しかし今回のように長丁場で制作していると、開始当初と考え方、技術、見え方が変わってくる。読み違えに後で気付くことも出てくる。 本日は人間の登場人物が全員集合する初登場のシーンである。長い砂浜を旅館の番頭に先導され、芸人三人組とタクシーの運転手。これは随分前に完成し、良いでしょう、とばかりに、自慢気に出演者の皆さんの携帯に送ったりしたものであったが、数ヶ月前に、この連中が、海辺の岩があるところを歩いていることに気がついた。しかしまあ良いだろう、とやり過ごしていたのだが、鏡花はコツコツなどと、足音まで書いている。本日諦めてもう一度。 自分が切り貼りして統合した作品を、自ら切り抜くほど情けない作業はない。前回はどこまでも続くような砂浜であったが、今回は岩だらけのところを抜けて、砂浜に出たあたりの風景を選んだ。これなら良いだろう。 画面手前に、足跡がある。おそらく私の足跡であろう。消す前にそれを利用し、砂に履物がめり込んだようにした。これでいう事なし。もう後悔などするわけがない。懲りずにとっとと1枚に統合してしまう私であった。

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河童が棲み家に帰って行くラストシーンは、当初曇天のドンヨリとした太平洋を飛び去るところを考えていた。たまたま暗雲たれ込める太平洋のカットが手元にあったからだが、こいつは名場面になるぞ、と思ったのもつかの間。房総の海辺から内陸の沼に帰るのだから、太平洋に向かって飛び去ってはいけない。どうも昔の怪獣映画によくあるラストシーンが頭にあったのではないか?随分前に気がついたから良いようなものの。 カラスをお供に飛ぶカットは2カットを考えている。空中を翼を広げて飛んでいるカラスをまず作った。曇天にカラスは黒と銀で描かれたようで、それまでのカラーから最後を飾るにふさわしいように思える。見開きに後続のカラスを大きく描き、前をいくカラスを追って、機嫌を回復した河童がはしゃぎながら飛ぶ予定である。ちょうど暴走族が蛇行して走っている感じが浮かぶ。河童のこういう状態を子供の頃“泣いたカラスがもう笑った”といった。あれだけドタバタ泣いて、人間どもに仇討ちを願い出たはずなのにケロッとしている。河童は単純である。 近所に住むほうの河童のK公は、検査に行くといいながら怖がってなかなかいかない。これから行く、と何度だまされたか。心配するだけ損である。行っても頭のレントゲンは撮らない方が良いよ。梅干の種みたいなのがコロコロいってるだけだから。といってある。

書籍表紙用の某社長。現役の方なので、追加撮影してもらった大きめのプリントが送られてきた。これなら部屋にずらっと並べ、あっちを見たりこっちを見たりして作れる。資料として常に本に掲載されている1センチ角や幼い頃の写真まで利用してきたことを考えると、こんな贅沢はない。真正面と真横の写真があれば大丈夫なのだが、送られてきた写真は頭のテッペンや、のけぞって顎を下から撮ったもまであった。その辺りは資料がなくても自動的に出来上がる部分である。おそらく立体なので、テッペンや顎もあったほうがいいんじゃないか、と撮影者と話し合われたかもしれない。レンズの前に頭頂部や、顎の下を差し出している社長。この方の人間性が伺われる気がして、少々照れた表情とともに、むしろそちらが参考になったのであった。

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河童の三郎は、房総に遊びにきた芸人三人組の中の娘の尻を触ろうとして怪我をする。自分が悪いくせに、怪我をさせられた人間どもに復讐しようとする。最終的には機嫌をなおし、空を飛んで住まいの沼に帰って行く。 柳田國男演ずる姫神様に仕える翁がカラスに河童を送って行くように命ずる。街は行水時である。好色な三郎が白い脛にまた迷い、横道にそれないとも限らない。河童とカラスは「ひょうひょう」と梅雨空を飛んで帰って行く。クライマックスシーンを作ってみた。飛んでいる三郎はまだ作っていないので、カラスを二羽飛ばせてみた。モノトーンの良い感じになった。改めて見ると、カラスの目は案外可愛らしい。すくなくともパンダの目よりは善良そうである。 河童は大騒ぎしたあげくに帰って行ったが、自分勝手な性格で、学習能力に欠けている。今回は腕を折っただけで済んだが、鎖骨を折った時は、数週間後に額をへの字に23針縫っている。房総で酔っぱらって自転車でカーブを曲がりきれずにガードレールにぶつかった時は、携帯の声は情けなさで涙声であった。定年後の3年だけでも、すでに救急車に3回は乗っている。私は同じ事を何度も繰り返す、こんな馬鹿な河童は見たことがない。独特の笑顔をみせるが、頭をぶつけすぎた河童の顔はこうなる。と柳田國男は書いていなかったろうか。 いつの間にやら近所に生息する、妙な生き物の話になってしまった。

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今月ようやく編集者と三回目の打ち合わせの予定である。ただ出版の話をした1回を含めてもたったの4回目である。 ここへ来て未だに見落としを見つけて修正している。本日の修正点。フンドシ姿の漁師二人。河童と遭遇して担いでいた獲物を放りだして逃げる。巽の方角に海があり、そちらからやってきて、そちらに逃げることになっているのだが、となると向きが違う。左右を反転した。幸いひきの画なので反転しても漁師二人に違和感はない。このカットは面白い画になったが、一人は大学でラグビー選手だったのに、申し訳ないくらい一目で判る鈍足に変えた。この時点で制作したカットは70カットを超えている。これにはただシャッターを切って色調整しただけのようなカットは含まれていない。 昨日も話になったが、完成した暁には、参加者で集おうということになっている。マンションの駐車場でフンドシ姿で演技したり、おかしな踊りするはめになった出演者だけが、いかに事実と違うかを知っている。作者としては、たまたまロケをしたらこんな都合の良い場所がありました。という顔をしなければならず、本当のことは公開できない。協力したはいいが、いったいいつになったら完成するのだ、と内心思っているであろう出演者限定で披露するつもりでいる。 嵐山光三郎さんが、鏡花は現場を克明に取材しているとおっしゃっていたが、モデルにした房総の神社に行き、あまりにも書かれたとおりで感動した。ここを撮影しなければ、さらに風景作りに苦労したであろうと思うとゾッとする。それもこれも事前にネットで検索して、神社が作中の神社と酷似していることに気付いたおかげである。私はてっきり鏡花が書斎でイメージだけで書いた作家だと思い込んでいたのであった。

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生臭くてベトベトしている河童。いよいよ以前入手したさるローションの出番だが。どうせヌルヌルしているなら、とテカテカした塗装も考えたが、ローションをはじいてしまってうまくいかないような気がして結局、いつものように艶消しにした。この方がローションが表面に保持されるであろう。いずれ雨でも降ったら、草木の陰で撮影したいが、ローション片手にカメラを持っての河童の撮影である。できるだけ許可を取らずに済む所で撮影したい。ローションはあらかじめ水に薄めて粘度を調整したものを、別のボトルに移し替えておくのはいうまでもない。 河童の撮影には晴天の房総で、梅雨の曇天の景色を撮らざるを得ず、かろうじて助けてくれた東ドイツ製の古レンズを使うことになるだろう。フラットな光線で撮ると実に陰鬱に写る。それでいて緑は美しいという、河童の撮影用に東ドイツが開発したと思われるレンズである。逆に画面に強い光があるとフレアーが噴出し、絞ったら余計出て横でサンマを焼いているようであった。なんでこんなことになるのか解らない。つまり駄目レンズの典型だが、道具は使いようである。マクロレンズなみに寄れるところも人形用として有り難い。今後こんなレンズが作られることは永久にないので、飛び道具として念のためもう一本確保しておきたい。 人形用の頭髪も届いた。皿に貼付けておけば、数枚の皿の使い回しですむだろう。河童の皿は水を溜めるため凹状でなければならない。顔かたちを優先するため凸の皿の河童も見かけるが、あれではいけない。 一息つきK本へ。最近またTVに取り上げられたらしく、見かけない顔ばかりである。私の指にこびりついたままの緑色を見て常連が「河童?」。

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甲羅を改造して見違えて良くなったが、以前より一回り大きくなった。三郎は姫神様に会いにいくのに、カカシのボロをはいで着ていく。冒頭、とぼとぼと階段を上る後ろ姿から始めるつもりであるが、そう思うと背負った甲羅が邪魔である。それがあったので改造中、ボロを着ると甲羅が目立たないくらい、背中にフィットした大きさにしようかと迷ったが、なにしろ妖術を使う妖怪である。マテ貝の小さな穴にも隠れられるくらいであるから、身体の大きさも小さくするぶんには自由自在である。甲羅を目立たなくするぐらいできるだろう。甲羅を気にしなければポーズも自由になる。鉄腕アトムにしたって、飛ぶ時赤いブーツはどこへいってしまうんだという話である。 三郎は疣々(えぼえぼ)が立って、と書かれている。ただでさえ可愛らしくないので、そこまでしていなかったが、アップになることもある。疣々を立たせた。

どういうわけだか、パソコンからネット上に書き込めるようになった。こういうところがこのいい加減な機械のよく判らない所である。今までも、何もしていないのにある日なおっていた、ということも随分あった。起動したら何事もなく。ということもあり得るのではないかと昨年まで使っていたウインドウズマシンも未練がましくそのまま置いてある。

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制作  


柳田國男の翁は揉み烏帽子という物をかぶっている。柔らかい布製のふにゃふにゃしたものである。粘土で作ってみたが、ふちが薄いので、とったりかぶせたりしているだけで壊れる。撮影用なので壊れようとかまわないが、柔らかいものということで、場面によっては形を変えるべきではないかと思い出した。また余計なことを、と思うが、三郎が始めて目にした姿と、いったい何事じゃ、と見つめ合った横顔の場面では、いくらか烏帽子の形を変えたくなってきた。歩くたびに形が変わるほどの物ではでないにせよ。粘土で製作中に、鉄腕アトムの角ではないが、どっち側に傾けたら様子が良いか、と幾度か迷った。何個か作るのはかまわないが、額に接する部分は所詮粘土で、いくら薄くしても縮尺から見れば厚ぼったい物になってしまう。そこで和紙で作ってみることにした。私は実は器用でないので、なんでも粘土で済ませたいところなのだが。 河童の三郎の甲羅、スッポン調に柔らかい感じになった。あまりに亀の甲羅じみていたことと、固い甲羅がポーズに制限をあたえそうだ、ということで、スッポンのような柔らかい甲羅にしようというわけである。しかしただスッポンも芸がない。亀甲模様を全部削り取らず、真ん中の一列を残してみた。 今の所身体は、座っているのと立っている2体だけなので、各場面に合わせたポーズを作る必要があるが、とりあえずこの2体に表情の違う頭部を取り付け、ある程度のカットはこなすであろう。人形用の頭髪が届き次第、撮影に入ることにする。 それにしても制作中の独り言のようなつまらない話は、読んでいただいて申し訳ないので、河童のリニューアルした姿をできるだけ近いうちにアップしてみたい。 周囲にもこんな話は興味がなく、Kという文字を探して読むという輩がいる。当ブログ内で馬鹿な人物といったらKに決まっているので、できるだけKと書かずにすませたいところである。

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