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明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



午前中に、神社額の前にひれ伏す河童の三郎を作る。いよいよ姫神様に人間どもへの復讐を願いでるわけである。そこでまず登場するのが、姫神の後見人?柳田國男の翁である。河童の皿がまだできていないが、後ろ向きで地面に頭をこすりつけている場面なので頭部が見えない。なんであろうとまず三郎を一カット撮りたかった。鏡花の文章は時に時間が前後する。おかげでたびたび作り間違えてしまった。読んですぐに画が浮かんでしまい、それが頭の中で固定してしまうせいである。そこで私も時間をいじってみた。右ページにひれ伏す三郎。左に初登場の翁。白い蝶を左から右に、一瞬前の時間に向け飛ばしてみた。書籍ならではである。 午後ようやく皿に毛を張り付ける。一度失敗していて二枚目。この一枚を使い回しするつもり。これで明日は怒濤の撮影に入る。制作となるとせっかちな私が、主役の河童の撮影を、何ヶ月待ったことであろう。

5時半に木場駅でYさんと待ち合わせ志らく一門会へ。私は国立の知人のお誘いで、嵐山光三郎さん主宰の落語会で志らくさんの噺を何度か聴いている。始めて伺ったときに二次会に参加したら、唯一空いている席が正面が嵐山さん。横が志らくさんという、人見知りには針のムシロだったことを覚えている。たまたま廊下で出番を待つ志らくさんの死にそうな?横顔を見てしまい、芸人魂に触れた気がした直後だったのでなおさらであった。 Yさんがゲストのミッキー亭カーチスことミッキー・カーチスさんの楽屋へ顔を出すというので、古今亭志ん生のプリントを持ってきた。志ん生を拝ませてやろうと他の楽屋に見せに行くミッキーさん。最初の結婚式の乾杯の音頭をとったのは志ん生だったそうである。いやはや。ひとくさり志ん生の口まね。そっくり。Yさんから聞いてはいたが、大変気さくで、TVで拝見するそのままの方であった。今日はまだ演目を決めていないという。 開演。しかしここで肝心なことが発覚。本日は志らく一門会にかかわらず志らくさんの出番はなし。なにしろ誘ってくれてチケットを取ってくれたYさんが、私と一緒に驚いている始末である。今日のハイライトはミッキーさんの『饅頭怖い』となる。饅頭怖いのが隣の外人というのがミッキーさんならでは。 休憩になりどっと疲れがでた。どうもさっきから足許がふらついている。寝不足である。そこで急遽有楽町のガード下に飲みに行くことに。Yさんと久しぶりにああだこうだと楽しく過ごす。

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漁師の若者は近所の町会の神輿担ぎの2人にお願いした。丸太に血だらけの大きな魚をぶら下げる。当初はフンドシ姿に抵抗がないだろう、ということで深川のお祭り男を選んだのであるが、当たり前といえば当たり前だが、むしろ丸太を担ぐ姿が堂に入っていて画になっている。鉢巻きも昨日今日ではこうはいかない。 怪獣映画でも最初に怪獣と遭遇する人物のキャラクターは重要である。そもそも河童の復讐譚であるが、河童を直接目撃するのはこの2人だけである。担ぐ姿が肝心で参加してもらったのだが、2人の顔があまりに良く、出演場面を増やすことになった。粘土で作った丸太を合成して完成。マンションの駐車場や屋上で撮影したが、完成作品を見て一番驚くのはこの2人であろう。一人は大学でラグビーをやっていたそうだが、河童に驚いて逃げる姿を、いかにもな鈍足に変えてしまった。申し訳ないことではある。 思えば担がれるイシナギの穫れたてを送ってもらってから、ずいぶんかかってしまった。最初に東北の鮮魚店のサイトを見つけ、撮影の際には、と安心していたら連絡がとれなくて慌てた。更新された日時を考えると震災の影響であることは明らかである。そして二軒目を見つけた。そこは毎日入荷した魚の画像をアップしていた。イシナギといってもあまりにも大きな魚であるし、鏡花も作中いっているが、一般人が簡単に目にする魚でもない。粘土で作ることも考えたし、編集者はスズキで代用したらどうか、といっていたが、小さいとはいえ、本物にこだわってよかった。鏡花は異常な潔癖性である。そう思うと、鏡花の描くところの河童の生臭いベトベト感や、血をしたたらせた魚の描写は、だからこその重要なポイントと考えていた。血糊こそ私のお手製だが、魚の生々しさは物語にひと味加えてくれているはずである。よく見たら、目玉に撮影している私と、屋上の手すりが写り込んでいたので修正した

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河童の着彩終了。甲羅は3つ目に制作した物である。1つ目が亀そのもの。2つ目は青磁風の色と質感にした。3つ目は、身体からはみ出す大きさだったのを、少々小型にしてフィットさせた。2つ目は青磁という頭もあり、艶のある質感にしたが、濡らして撮影することを考えると、ザラザラした質感の方が良いと考え、身体同様、甲羅も磨いたりせずそのままにした。甲羅は特に艶のある磁器のようにしてしまうと、水をはじき、水滴が玉のように付くであろう。この水滴の大きさが河童の本当のサイズを明らかにしてしまう。特撮の神様、円谷英二でさえ火炎とともに、水の飛沫、波などには苦労したはずである。模型を大きくすることで対処するしかない。身体の方も艶消しのざらざらのほうが、水気を表面に保持してくれるであろう。 来週はいよいよ主役の撮影に入る。打ち合わせが来週に延期になったので、それまでにできるだけ完成させておきたい。 そういえばどこへ仕舞ったろうか。河童のヌルヌルを表現するために入手しておいたさるローションは?検索してどこかのサイトで注文したのだが、使用法がにわかには判りかねるような物まで入手しそうになるので、早急に探し出さなければならない。ヌルヌルといえば柔道着に細工していた卑怯千万な柔道家がいたが、未だにツラを見ただけでムカついてくる。

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河童は鎮守の杜の姫神様に気をつかって、案山子の着物を剥いで着てくる。鏡花のことであるから、主役の着物がどんな模様だ、と書いていないのは無地だろうと思っていたが、20数センチほどの河童が、濡れて甲羅の形どころか色まで透けるような生地にしたい、と考えると、布の質感に期待はできない。となると無地ではあまりに愛想がない。正絹の端切をネットにて注文。河童のサイズを考えて小紋を選んでみた。 もうほとんどのカットの背景は完成していて、あとは異界の住人を参入させるだけである。河童が自分を棚に上げ、人間に復讐をしてもらおうと鎮守の杜に出かけてくるのだが、人間共が、自分たちが街中でしゃもじやスリコギを持って踊ってしまったり、こんな妙なことをしてしまうのは、神様に障ったせいであろう、と奉納の踊りを捧げる。ととたんに河童の機嫌がなおり帰っていくことになる。翁はカラスに付き添いを命じる。陽も暮れかかり街は行水時である。娘の尻を触ろうとしてケガをした河童が、行水中の娘のスネに迷って落ちてしまいかねないからである。このクライマックスを迎えるあたりがかなり性急であり、どう処理してよいか決めかねている。面白い描写満載ではあるが、数行ごとに画にしているスペースはない。子供の頃は、こうして機嫌が急に治ると“今泣いたカラスがもう笑った♪”とからかわれたものである。 去年の今頃だったろうか。ファンのR子さんに性転換して今は男だ、といわれてすっかり信じた60歳過ぎの陸(おか)河童がいた。何をバカなことを、とならずに私の方を向いて「知ってたの?!」といったときは笑うこともできず唖然としてしまった。それからしばらく下を向いて死んだフナみたいな顔をしていたが、「そんなわけないだろ」といってあげる人は誰もいない。そのほうが大人しくて助かるし、断然面白いからである。しかし撮影の手伝いに房総へ行ってもらうことになっていた私は「冗談に決まってる」。といってしまった。そのとたんの満面の笑みにすぐ後悔してしまい、今だに後悔しっぱなしである。R子さんにはそろそろ、次の妖怪封じの護符発行をお願いしたいところである。

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久しぶりに編集者から電話。進行具合を説明すると「もうライフワークですね?」と皮肉をいう。被写体を作って撮影しているのだから時間はかかる。背景にしてもほとんどそのままでは使えず、大改造しなければならない。今週久しぶりの打ち合わせが決まる。四回目であろうか。ライフワークの打ち合わせにしては少ないような気がするのだが。 前回の打ち合わせもそうだが、あれを入れようこれを削ろうということになる。作った作品は、すべて載せたいのは当然だが、客観的な編集者の目も必用である。 ビジュアル化するのであるから今の場面がどういう状況か、読む人がイメージできなくては話にならない。私が始めて鏡花を読んだ時は、いつのまにか私とあなたが入れ替わってしまう始末であったが、その後も良く判らないことがあっても、曖昧なまま鏡花のリズムに乗って読み進めてしまっていたな、と反省している。せっかく鏡花が原稿用紙を清めながら書いた作品である。隅々まで噛みしめ味わうべきであろう。 現在は絶版のようだが、河出書房新社の鏡花幻想譚全五巻は、それぞれの作品の冒頭に、簡潔なイラストの地図が掲載されており、鏡花的空間で迷子になった読者には親切である。『絵本春の巻』には『貝の穴に河童が居る事』も収められている。 そう思うと方向音痴の私が、最初に舞台とされている神社に行ったのは正解であった。ここをこう行って、そこを曲がるとおおよそ鏡花が書いた通りの光景だったのには感激した、間違いなく鏡花はこの細道を歩いたのだな、と。鏡花と私の2人だけが時間を超えてすれ違っているような奇妙な気分に襲われた。もっとも時代が違う。神社はともかく周辺等、劇的に変わってしまったのを、作中の光景に近づけてみた。 そしてモニターを前にこれを書いている窓の下には、鏡花が『葛飾砂子』で描いた川が流れており、鏡花は作中の人物のように舟に乗り、ここを通って州崎の遊郭街に出かけたことであろう。あらゆる病気の感染をおそれる鏡花が、どんな遊びをしたのか、興味深いところである。誰かが書いていたが、舟遊びをする鏡花の舟が通り過ぎるのを橋の上からでも目撃したのであろう。重箱の蓋の端を持ち上げ、覗き込むように隙間から肴を取り出すと、すぐ蓋をする。ハエがたかるのを恐れてのことであろう。

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制作中の『貝の穴に河童が居る事』は締め切りもなく、やりたいようにやっているせいで制作開始からそろそろ一年が過ぎようとしている。締め切りがない、というより編集者と話し合わないまま今に至っている。 堀辰雄は本作について『こんな筆にまかせて書いたやうな、奔放な、しかも古怪な感じのする作品は、あまりこれまで讀んだことがない。かう云ふ味の作品こそ到底外國文學には見られない、日本文學獨特のものであり、しかもそれさへ上田秋成の「春雨物語」を除いては他にちよつと類がないのではないかと思へる。』と書いているが、こんな作品に閉め切りなどという生臭いものは不似合いではないか。(河童はベトベト生臭いが)鏡花の幼児性が炸裂したようなこの作品には、締め切りなど気にせず、今こそ私の中に有りあまる幼児性をもって、挑まなければならないのは当然であろう。各方面に対する言いわけはこの辺にして。 それにしても今年は泉鏡花生誕140周年であり、柳田國男没後50年である。両者を作中に登場させることを考えると、見事に過ぎるタイミングである、しかし制作を決めた時点ではまったく知らず、ツイッターで妙に鏡花が盛り上がっているな。とそれで知った。まして父の命日すら覚えられない私が、柳田没後50年に気付くはずもない。 私の場合、こういう都合の良いことは、できの悪い表層の脳を使っていると起きることは皆無であり、何も考えない場合にしか起こらないのが問題といえば問題である。仮に私が寝ている間に、もう一人の別な私が目覚めて、世間の動向など研究していたらたいしたものであるが、夢を見て、笑いをこらえてその苦しさで目が覚めているようではあり得まい。 まあ発刊に際し、鏡花生誕140周年と柳田没後50年ですから、計画的に決まっているでしょう。という顔をすれば済むことである。

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灯ともしの翁と、ひれ伏して向かい合う河童の三郎。自分の腕を折った人間どもに復讐して欲しい、と願い出る。岩波だったかの解説では、翁の膝に三郎がすがりつく、というような解釈をしていたが、人間に対しては自分勝手な怒りをぶつけるが、こと異界においては姫神に失礼だ、と案山子の着物を剥いで着て、空を飛べるのにヨロヨロ石段を上がってくるほど礼儀正しい。それにびしょ濡れであるし、もともとベトベトと生臭い三郎である。自己紹介もまだだというのに、いきなり翁に取りすがるはずがない。ひたすらひれ伏す三郎を作る。 左腕は肩から折れて“ぐなり”と削げてしまっている。鏡花は詳細に書いてはいないが、折れた左腕は肩から後ろに折れ曲がり、あさっての方を向いてしまっていることにした。ヒドイ状態である。右腕だけでは身体を支えるのも大変で、身体が傾いてしまいながら翁を見上げている。自分で作っていて哀れである。さらにダブダブでぐしょ濡れのボロをまとわせればさらに哀れさが強調されるであろう。しかしこの三郎、何が哀れといって怪我は娘の尻を触ろうとした結果であり、翁にも、お前等一族は昔から皆そうして怪我をすると苦言を呈される。学習能力が欠如している河童一族である。 近所のやはり学習能力欠如の63歳から、例によって朝から飲んでしまいロレツの回らない電話が来た。 酔っぱらって頭から血をしたたらせ、半ベソかいているところを哀れな三郎のイメージに取り入れさせてもらっている。 私はいつか書いた。この人物、私に河童を造らせるためモデルにせよ、と舞い降りた妖精なのではないか?と。そしてこうも書いた。もう取材は十分なのでとっととお帰り下さいと。しかし妖精界へ帰りもせず、くたばりもせず、ただ私をウンザリさせ続けている。結局その後、飲み屋からつまみ出されたそうである。

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鎮守の杜の姫神様は、袖頭巾というものを被っている。始め時代劇に出てくる武家の女性が被るような頭巾だと思っていたら、それこそ着物の袖のように袋状になっているもので、頭部から襟元まで覆い、丸く穴が開いている所から顔を出す。発表された昭和6年当時は、日常的に見る物ではないにしても、読者には判るものだったのであろう。これこそ今となればビジュアル化のしどころであり、脚注の必用はなくなる。 姫神に仕える翁である柳田國男は揉み烏帽子というクタクタと柔らかい烏帽子を被っている。私としては、柳田國男の柳田らしい頭部のラインを隠さずに見せたいところである。ハゲ頭は作り所であり、作ったところは見せたいのが制作者である。 たとえば河童の三郎に対して、どれ、お前の言い分を聞いてやろう、としゃがみ込んだついでに烏帽子を、たとえばキャップやハンチングのように脱いだっておかしくはないであろう。なんならその際、ハゲ頭をなでてもよい。 しかし姫神となると、頭からすっぽり被る頭巾を、わざわざ脱いで、というシーンはないような気がしてきた。最後一件落着。空を飛んで郷の沼に帰っていく河童を見送る後ろ姿くらいは、頭巾を脱いでいても良いだろうと思っていたが、鎮守の杜に君臨する姫神からすると、沼に住む河童など身分違いもはなはだしい鼻糞みたいなものであろうから、それもおかしいであろう。 となると入手した人毛を姫神に植え付けたところで見えなければ効果はない。あれだけ人毛だなんだと騒いでおきながら。細部に目がいくようになると、充分考えたつもりでも、こういったことは起きてくる。 来週にはひれ伏す河童と踊る河童など作る予定だが、主役の河童もそろそろ佳境に入ってきた。

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やはり河童の甲羅を作り治すことにした。三度目の正直である。大きな甲羅を背負ったまま着物を着せると大きくなりすぎる。鏡花作品で河童を描くのであるから、それこそアトムのブーツ式で良いと思うのだが、改めて思いついたことがある。 河童の案山子から剥いだ着物は粘土で作るつもりでいた。小学校の家庭科2の私である。とても布は扱えない。ところがこの河童はずぶ濡れである。濡れて張り付いた着物から甲羅が浮き上がって見えたら面白いのではないか。特に河童初登場シーンは、石段を歩く後ろ姿である。透けて見える亀甲状の紋。ちょっと薄気味悪いところが良い。ということで甲羅を作りなおすことにした。 河童は小さいほうにはいくらでもサイズが変えられるようだが、普段90センチ程の身長である。案山子の着物はダブダブであろう。しかもボロに違いないし、ズブ濡れである。ちゃんと着物状に縫われている必用は無いのではないか。そういえば、かつて黒蜥蜴のドレスを、ただ布を巻いてごまかした前科もある。 昔JリーグにいたアルシンドがTVに出ていた。昔の映像を映していたが、ファンが床屋で自分の子供をアルシンド風河童頭にしていた。親はああいうことをしたがるものである。私もリボンやスカート姿の写真が残っている。あの頃の可愛らしさで親孝行はすでに済んでいるのだ、という説もあるが。親も私が後に、こんなことになるなんて想像もしていなかったのであろう。哀れな話ではある。写真を処分するなら今のうちである。 河童の毛は、最初人毛を使ったが、素材としての縮尺が合っていない。人毛の気持ち悪さが狙いであったが、小さな河童に人毛ではまるでピアノ線である。濡れそぼった河童の顔に張り付いた毛。この感じが欲しい。結局人形用の毛髪を粘土製の皿に張り付け、これを頭にかぶせることにした。とりあえずこの皿一つを使い回すことにする。

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河童に最初に取りかかったのは昨年の今頃ではなかったか。作っているうち気が変わって色や髪の毛、甲羅など変えることになったが。 河童の三郎は姫神様に、自分にケガを負わせた人間どもに対して仇討ちを願い出る。自分勝手な三郎だが、空を飛べるのに、上から飛込んでは失礼だ、と長い石段を登ってくる。さらに案山子の着物を剥いで着てくる。そこである。 三郎の背負う甲羅は、最初があまりに亀っぽいので大分変えた。それでも身体からはみ出す程度に大きい。作るときは後で案山子の着物を着たらどうなるかまでは考えなかった。つまり甲羅を背負った上から着せると不細工なのである。もっと身体にフィットした、小さめの甲羅にさらに作り替えるか。または着物を着る際は、甲羅を背負っていないかのように作る。つまり鉄腕アトムが空を飛ぶ時は、赤いブーツはどこかへ消えている。というようなことである。物心ついた時にはすでに活躍していた鉄腕アトムのブーツの謎について、一度も見聞きしないまま今に至っている。そんなことを問題にさせない手塚治虫である。そう思えばこちらにしても幻想文学の鏡花作品である。あまり細かいことを気にするのもどうか。だがしかし、アトムの角や丈矢吹の前髪はいったいどちらを向いているのだ、ということはおかまいなしの漫画とはちがう。明日には決めよう。 それにしてもそろそろ考えなければならないが、表紙に相応しい作品は未だにできていない。河童ができていないのだからしかたがないが、せめてイメージだけでも、と過去に撮りためたデータをチェックしていると、これぞ、というカットが一つ見つかった。季節その他のこともあり、そのままで使える物ではなかったが、幸い都内で撮影したカットだったので、いずれ再撮することに。何もかも湿気って写る旧東ドイツ製レンズの出番である。何故か緑色が鮮やかに写る。梅雨時の河童用に設計されたレンズのようである。

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制作していて一番楽しいのは頭部がすでに完成していて、身体の制作に入り、乾燥させるところに持っていくまでである。乾燥後は足首から下を作る。靴を履いていれば靴を作り、細部の修正をして完成する。 楽しい部分は、盛り上がって制作する分、どう引き延ばしてもすぐに終わってしまう。要する時間は増々短くなってきている。締め切りがある場合は、ギリギリまで肝心の頭部に時間をかけられる利点はあるのだが。 河童と見つめ合う柳田國男。本作で私の独想があるとしたらこのシーンであろう。昨年からずっとこの競演シーンを手がけるのを楽しみにしていた。一つには気持ちのどこかに、柳田が盟友鏡花のこの作品を、『河童を馬鹿にしてござる』と評していたことを知っていたこともあるだろう。その分、自分勝手な河童の三郎に愛情深く接する翁として、柳田を描かなければならなかった。 それにしてもあっけなく乾燥に入ってしまった。このシーンを思いついた時、すぐK本に飲みにいってしまったことは何度か書いた。この時の私は、三国連太郎と佐藤浩市の共演を思いついた人物と同じ心持ちではなかったか?いや、多分大分違う。

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昭和初期に郷土玩具を収集するブームがあったという一文を読んだ。 『貝の穴に河童の居る事』には笛吹きの芸人が出てくる。この人物、もとは麻布あたりの資産家で、郷土玩具や芸能を研究しているうち、趣味が高じて笛吹き方になった。始めて読んだ時はやや奇妙な設定のような気がしたが、鏡花が本作を発表したのが昭和6年であることを考えると、そんなブームの最中だったとしたら納得がいく。 この男が持つ郷土玩具。類似のものは東南アジアにもあるようだが、そのものは日本から姿を消してしまったようである。しかしこの玩具を入手したことが男の道楽のきっかけであり、作中手にしている場面も多く、どうしても必用なので想像で再現してみた。落語には頻繁に登場するが、旦那衆というものは“集めごと、調べごと、習いごと”に熱中するのが常である。 笛吹きの女房は踊りの師匠で、師匠仲間の娘を連れて3人で房総の海辺に遊びに来たのだが、身勝手な河童がかってにジタバタするだけで、河童に化かされても、3人は最後まで河童の存在を知らずに終わる。なぜ我々は奇妙な行動をとってしまったのだろう?と話し合う。そこでかつて郷土芸能など研究し、各地を巡っていた笛吹きがうんちくを語り、男の過去が生きてくる。さらに最後は鎮守の神様に障ってしまったに違いないと奉納の踊りを踊り、それをみた河童は人間に対する怒りが収まり大団円を迎えるのであり、踊りの素養がある芸人でなければならないだろう。 と書いていて、鹿嶋清兵衛を思い出した。大変な資産家で、しばしば写真史に顔を出す人物である。浅草の陵雲閣(十二階)を設計したバルトンに写真を習い、金にあかせて巨大な写真機を特注し、等身大もあるガラス乾板(ガラス板に感材を塗布したフィルムにあたるもの)をイギリスに発注し撮影した。受注したマリオン社より何かの間違いではないかと連絡がきた、という話も知られている。乾板の感度は低いので、屋内の撮影自体に大変な技術をようした時代に日本初の舞台写真となる劇聖、九代目市川團十郎『暫』の撮影に成功している。撮影にはおおがかりな照明が必要になる。その技術を買われた、泉鏡花作の舞台『高野聖』の花火の事故で指を失い写真を断念する。失意の清兵衛であったが、笛の名人でもあり、最後は能楽の笛吹き方になる。指を失った笛の名人というのもよくわからないが、火事で指が不自由になったギタリスト、ジャンゴ・ラインハルトのような名人もいる。 そして生来の凝り性があだになり、老女の弱さを表現するため食事を断ち、それがたたって亡くなる。まさに道楽者の鏡といってよい人物である。 少々桁違いの人物ではあるが、長面という点も共通している。没年が大正14年。鏡花の頭の中に鹿嶋清兵衛のイメージがあったとしたても不思議はないだろう。

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いよいよ灯ともしの翁役の柳田國男と河童の出会いのくだりに入る。身勝手な河童の三郎に対し、いさめながらも愛情深く接する翁である。 今まで作者を主役に添えてきたので、当初は鏡花に笛吹きの役をやってもらおうと思っていた。しかし今回はダイジェストではないので、人間との共演シーンも多くなる。人形と人間を同じ場面にいれるのは、そう簡単なことではない。先日入稿したロシアの文豪と著者の共演は、前後に距離を保っており気にはならない。しかし人間3人の中に一人だけが人形となるとそうもいかない。そこに面白さがない限り、素材感の違いは違和感ばかりが残るだろう。 鏡花は主役でなく、作者として登場するだけだが、その代わりに鏡花の盟友、柳田を翁にすることを思いついた時は、すぐ飲みにいってしまったが、柳田と河童の共演の機会は、柳田に物語内の住人になってもらうしかなく、絶好の機会といえるだろう。もちろん柳田に興味がない人にはただの老人と河童であるが、幸い神主姿の柳田には無理矢理な、当てはめた感がないところも決め手となった。 見開きで両者見つめ合う。しゃがむ老人とひれ伏す愛犬のイメージである。足許までいれずに、見つめ合うところを強調するつもりでいるが、気になっていることがある。翁は足中という草履を履いている。土踏まずのあたりからかかとの部分をカットしたような履物である。かかとをあげて歩くような健康サンダル的な効果もありそうだが、そんな履物があるのを私は知らなかった。鏡花作品は脚注がつきものである。しかしせっかくの鏡花作品のビジュアル化である。表現についてはともかく、見ればわかるよう、脚注を最小限、できればなくしたいくらいである。翁の足許、特に足中の様子が判る横向きを描けるのはここしかない。

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海女  


三島由紀夫のオマージュ『男の死』の中、『潮騒または真夏の死』の制作で、海女の画像を随分作った。テーマがテーマであるから、半裸の海女は殺伐感を和らげてくれた。海女の装束は市販されているものではないようで、鳥羽の友人がかつて実際使用されていた物を探し出してくれた。そのとき使用せずに終わったカットがかなり残っている。舞台は南房総である。遠景でかまわないが、その海女を使いたくてしかたがない。そもそも私自身がロシアの文豪から河童の制作で、連休中にもかかわらず、殺伐とはいわないまでも艶はまったくないので、つい考えてしまうのである。しかしいくら考えても結論は同じ。この河童が問題である。着物姿の裾からチラリと見えるふくらはぎにヨロッとくる河童。そして娘の尻を触ろうとして、結果ケガをする。そう考えると、河童は濡れて身体に海女着が張り付いた海女のほうに目がいってしまうだろう。それは近所に住む先日63歳になった河童に聞いてみるまでもないことである。 やはり河童の目の届く場所に配するわけにはいかない。となると、漁師の若者との海辺のシーンなら可能であり、本日試作してみたが、紙面にそのカットをねじ込むスペースはすでになかった。 江戸川乱歩の『盲獣』には海女が惨殺されるシーンがある。私の初出版の『乱歩 夜の夢こそまこと』はすでに廃版であるが、今見ると稚拙に感じる。そのわざとらしさが乱歩に合っていた気もするが、今でも作りたいのを我慢している乱歩であるから、いずれ海女の出番もあるだろう。

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連休中は放りっぱなしになっていた河童をできるだけ仕上げたい。まずマテ貝にしがみついた河童を作ることにする。タイトルは『貝の穴に河童の居る事』である。マテ貝はそれほどポピュラーとはいえない。そこでマテ貝だけのカットを制作するつもりであったが、それを差し挟むスペースがない。そこで人間に見つかりそうになった河童が逃げ込んだ貝の穴には、マテ貝がいた。つまりマテ貝を足すことにした。鏡花は穴の中にマテ貝がいたとは書いていないが、留守だった、とも書いていないのでまあ、いいであろう。穴をのぞく娘の目とマテ貝にしがみついて、それを見上げる河童。娘の瞳にみとれ、次の瞬間ケガをする大事なシーンである。私が作らなければ誰が作る、という奇妙なシーンである。 それにしてもこう書いていると鏡花作品のビジュアル化というのは、つくづく野暮な行為という気がしてくるが、読んでも状況がさっぱり見えないという人もいるから良しとしておこう。 某文庫用装丁のレイアウトが送られてくる。帯のことがあり、若干手前のロシアの文豪を拡大することになったが、私の想い通りになった。“やっぱりここに在った”。何度か書いているが、子供の頃、頭の中で思ったことはどこへ行ってしまうんだろうと本気で悩んだものである。それでいて、問いただしても気の利いた答えを返してくれそうな大人はいない、ということだけは判る子供はつらい。結局頭に浮かんだものを取り出し確認することが、私の創作行為の原点であろう。 マテ貝にしがみついた河童は画面上小さいので、小さな河童で十分である。といっても十数センチのパイプを2つ割りにしたような二枚貝である。直接乗せるには小さすぎるので大きく作って合成することにした。そこで目に入ったのが一升瓶である。数センチ焼酎が残っていたが、瓶の曲面をマテ貝に見立てれば丁度よさそうである。 ひとしきり作ったところで、明日が資源ゴミの日だと気がついた。面倒だ。河童が必死でしがみついている一升瓶をラッパ飲み。本日も独身者の部屋は、ノックしないで開けないほうが良いというお話であった。

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