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デンマンが徒然につづったブログ

ロマンと弥勒と阿修羅(PART 1 OF 3)

2013-02-10 13:10:39 | 日本人・日本文化・文学論・日本語


  
ロマンと弥勒と阿修羅(PART 1 OF 3)





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デンマンさん。。。 今日はなんだか楽しそうな話題でござ~♪~ますわねぇ~。



卑弥子さんも、そう思いますか?

だってぇ~、ハートがたくさん舞い上がっているではござ~ませんか?

ハートが舞い上がると卑弥子さんは楽しくなるのですか?

そうですわ。 バレンタインデーがもうすぐそこまで来ていますものォ~。。。 ハートが舞い上がるのを見ていると何か良い事があたくしにも起こりそうな気がしてまいりますわァ~。。。

ほおォ~。。。 卑弥子さんはバレンタインデーに何か期待していることでもあるのですか?

もちろんでござ~ますわァ。 あたくしは、お目当ての殿方に本命のチョコを上げようと思っているのでござ~ますう。

あのォ~。。。 僕には何もくれないのですか?

義理チョコを上げますわよう。 うふふふふふ。。。 どうぞお受け取りくださいましなァ。





これを僕にくれるのですか?



そうですわ。 あたくしからの義理チョコですわ。。。 もっと嬉しそうなお顔をしてくださいましなァ~。。。

これだけですか?

他にまだ、もらいたい物があるのでござ~ますか?

愛の手紙のようなものが一緒に付いてくるはずでしょう!?

義理チョコにはそのような手紙は付いてないのでござ~ますわァ。。。 んで、どういうわけでバレンタインデーと弥勒と阿修羅が関係あるのでござ~ますか?

僕は「バレンタインデーと弥勒と阿修羅が関係ある」とは言ってませんよ。 「ロマンと弥勒と阿修羅」というタイトルにしただけですよ。

だってぇ、バレンタインデーが、もうすぐそこですわ。 ハートを舞い上がらせておいて「ロマンと弥勒と阿修羅」というタイトルにすれば、この記事を読み始めたネット市民の皆様方は当然バレンタインデーと関係あるものと想像しますわよう。

それは卑弥子さんの極めて個人的な発想ですよ。 第一、弥勒菩薩とか阿修羅像が作られていた時代に大和の国にはバレンタインデーなどというものは無かったのですよ。

じゃあ、どのようなわけで「ロマンと弥勒と阿修羅」というタイトルにしたのでござ~ますか?

あのねぇ~、僕はバンクーバー図書館から『ひらがな日本美術史』という本を借りたのですよ。


(lib30123.gif)



赤枠で囲んである本でござ~ますか?



そうです。 その本に次のように書いてあったのですよ。 卑弥子さんも読んでみてください。



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 中宮寺の《菩薩半跏像》


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 広隆寺の《半跏思惟像》


中宮寺の《菩薩半跏像》と並んで有名な広隆寺の《半跏思惟像》はどうやら弥勒菩薩像で、これは木彫の金箔が剥落したものだ。
剥落して、しかしまだ木肌の赤みを残した広隆寺の菩薩像は、どうあっても「木彫りの木像」に見えて、“黒い仏像”とは思えない。

 (中略)

黒ずんで、今は“黒い仏像”になっている奈良東大寺の大仏も、薬師寺の三尊像も、そのフォルムはあきらかに“仏像のフォルム”で、たとえこれがブロンズ色であろうと金色であろうと、あるいは彩色された肌の色を持つものであろうと、石であろうと、その“仏像としての印象”は、大して変わらないだろうと思う。


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 東大寺の大仏


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 薬師寺の三尊像


これらの“黒い仏像”は、私達がよく知ってよく馴染んでいるような、“仏像”なのだ。
しかしところが、この中宮寺の菩薩像は、やはり違う。

その黒さはひとまずおいて、この黒い漆の艶(つや)やかな表面を持つ菩薩像は、どうやらその昔、この漆の上にさらに肌色の顔料が塗られていたらしい。
肌色の肌を持ち、朱色の布を腰に巻き、豪華に彩色された衣の掛けられた台座に腰を下ろすこの菩薩像は、どうやらその裸の肌の上に、金色に輝くアクセサリーをつけ、冠を頭に載せていたらしい。
そうなるとこれは、とんでもなく生々しくて艶(なま)めかしい半裸像になってしまう。
仏像というよりは、あまりにも人間的な、あまりにも生々しい少年の肉体を持つ半裸の彫像になってしまう。 (略) 平安時代の定朝(じょうちょう)様式の仏像が艶めかしいと言っても、その艶めかしさは、この中宮寺の菩薩像の元の姿とは比べものにならないだろう。
この中宮寺の菩薩像は、類を絶する艶めかしさを持つような彫像でもあったのだ。

黒さの以前にその艶めかしさはあって、それは“黒い仏像”となった今でも残っている。
それでは、なぜこの中宮寺の菩薩像の艶めかしさが、類を絶するようなものなのだろうか?

それは、我々がこの菩薩像と似たような種類の仏像を、見たことがないからだ。
だからこそこの菩薩像を、うっかりと「近代的だ」などとも言ってしまう。
私がそう言って、「違う」と言う人はそうそういないだろう。
この菩薩像は明らかに“近代的”で、その近代性は、「今までの仏像にまとわりついていた様々の意味を振り払って、近代の新しい信仰のシンボルとして、近代の某有名作家によって刻まれたもの」と言ってもいいようなものだ。
そして、この菩薩像がそんな“新しさ”を持つということは、この菩薩像が、日本の如何(いか)なる歴史時代の仏像とも似ていないからではないだろうか?
私は、中宮寺のこの菩薩像を、そういう意味で、「類を絶した仏像」だと思う。

(「類を絶した仏像」ということになると、私はもう一つ、奈良興福寺の《阿修羅像》を思う。 少年の悲しみのような表情を湛えたあの《阿修羅像》は、ちょっと他の仏像とは違う)


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 奈良興福寺の《阿修羅像》

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




64-66ページ 『ひらがな日本美術史 (1)』
著者: 橋本治
2001年6月5日 第6刷発行
発行所: 株式会社新潮社




つまり、橋本氏が言っている事を否定して、中宮寺の弥勒菩薩像と奈良興福寺の阿修羅像はロマンの化身だとデンマンさんはおっしゃりたいのでござ~ますか?



少なくとも中宮寺の《菩薩半跏像》と奈良興福寺の《阿修羅像》は女性がモデルになっているのですよ。

マジでござ~ますかァ~?

あのねぇ~、奈良興福寺の阿修羅像については僕は何度かブログに書いたことがある。

あらっ。。。 あたくしは覚えておりませんわ。

卑弥子さんはすっかり忘れてしまっているようだから、もう一度ここに書き出しますよ。 読んでみてください。


日本女性の愛と美の原点





この女性は西暦734年当時16才でした。
どうですか?
なんとなく現在でも通用する容貌を備えていると思いませんか?

。。。と言っても、これは興福寺の国宝館に安置されている阿修羅像です。
僕は、この仏像のモデルになった女性のことを話しています。

この阿修羅像を造ろうと言い出したのは誰あろう光明皇后(光明子)なんですよね。
しかも、その目的は亡くなった母親である橘三千代の供養のためなのです。
そして、そのモデルになった女性と言うのは、聖武天皇と光明皇后の娘---当時16才の阿部内親王なのです。

この阿部内親王こそ、後に孝謙天皇(称徳天皇)となる女性なのです。2度女帝になった人です。

阿部内親王は、聖武天皇が皇太子時代の18才の時(718年)に、安宿媛(あすかべひめ:光明子)との間に生まれました。

聖武天皇が即位して3年後(727年)に、光明子との間に男の子が誕生します。
この子は基(もとい)親王と呼ばれ、生後わずか1ヶ月あまりで正式に皇太子になります。
まだ立つことすらできない乳児を皇太子にすることは、当時でも無法なことでした。

藤原一族が、何が何でも自分たちの血とつながりのある親王をゆくゆくは天皇にしたいためだったのです。
ところが、このような無法なことをあたかも天が許さないかのように、この基親王はその1年後に亡くなったのです。


 (すぐ下のページへ続く)



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