権十郎の芝居
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デンマンさん。。。 最近、歌舞伎でも観たのでござ~ますかァ~?
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いや。。。僕は歌舞伎は面白いと思わないし、これまでに歌舞伎をテレビで観て感動したことはないのですよ。。。
それなのに、どういうわけで芝居を取り上げたのでござ~ますかァ~?
あのねぇ~、僕は久しぶりに三遊亭圓生の落語を聴いたのです。。。
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「権十郎の芝居」という演目なのですよ。
デンマンさんは落語にハマっているのですか?
歌舞伎はほとんど興味がないけれど、落語はハマっているかもしれません。。。古今亭志ん生、彼の次男の古今亭志ん朝、それに三遊亭圓生が僕のお気に入りの噺家ですよ。。。残念ながら3人共すでにあの世の人ですけれど。。。暇があるとこの噺家さんたちの落語を よく聴くのです。。。
。。。で、上の演目はどのようなお噺なのでござ~ますかァ~?
9代目の市川團十郎が、まだ河原崎権十郎と名乗っていた頃の噺なのですよ。。。
市川團十郎 (9代目)
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生誕: 1838年11月29日(天保9年10月13日)
死亡: 1903年(明治36年)9月13日)
九代目 市川 團十郞(団十郎)は明治時代に活躍した歌舞伎役者。屋号は成田屋。
定紋は三升(みます)、替紋は杏葉牡丹(ぎょよう ぼたん)。
俳号に紫扇(しせん)・團州(だんしゅう)・壽海(じゅかい)・三升(さんしょう)、雅号には夜雨庵(ようあん)。
本名は堀越 秀(ほりこし ひでし)。
五代目 尾上菊五郎、初代 市川左團次とともに、いわゆる「團菊左時代」を築いた。
写実的な演出や史実に則した時代考証などで歌舞伎の近代化を図る一方、伝統的な江戸歌舞伎の荒事を整理して今日にまで伝わる多くの形を決定、歌舞伎を下世話な町人の娯楽から日本文化を代表する高尚な芸術の域にまで高めることに尽力した。
その数多い功績から「劇聖」(げきせい)と謳われた。
また歌舞伎の世界で単に「九代目」(くだいめ)というと、通常はこの九代目 市川團十郎のことをさす。
修業時代
七代目 市川團十郎の五男で、愛人の子であったため中絶の危機にあったところを河原崎座の座元・六代目 河原崎権之助から堕ろすなら養子にほしいと請われ、生後すぐ養子となり三代目河原崎長十郎を襲名する。
義父母とも長十郎の将来のためにと、幼い時より踊りや三味線、さらに書道や絵画なども学ばせた。
朝早くから夕方まで休みなしで稽古をつけられ、夜は早いうちに寝るという手厳しいもので、後に九代目自身がこの当時のことを、「体が自分のものになるのは便所に入っている時くらいのものだった」と語っている。
丈夫な体が自慢だった実父の七代目 團十郎もさすがにこれを心配して意見したが、義母は平然と「他の子は砂糖漬けだが、うちは同じ砂糖漬けでも唐辛子が入ってあるよ」と答えたという。
弘化2年正月(1845年2月)、8歳のとき河原崎座『魁源氏曾我手始』の小奴升平実ハ源太丸で初舞台を踏む。
雌伏の時代
嘉永5年9月(1852年10月)将軍家に男子が生まれ長吉郎と名付けられたので、「長」の字をはばかり初代河原崎権十郎と改名する。
その2年後、兄の八代目 市川團十郎が大坂で自殺、この頃から次弟の権十郎がゆくゆくは「市川團十郎」を襲名することが期待されるようになる。
そのため養父母の教育はさらに厳しいものになり、ある日ひどい頭痛で舞台を休もうとしていたところ、養父が「貴様は何だ、役者ではないか。役者が舞台へ出るのは、武士が戦場へ行くのと同じことだ。
舞台へ行って死んでこい」と叱責されて無理矢理舞台に出されたこともあった[2]。
その後、父の高弟だった四代目 市川小團次が後見人となる。
しかし『三人吉三廓初買』のお坊吉三や、『八幡祭小望月賑』(縮屋新助)の穂積新三郎などの大役を与えられても、立ち振る舞いが堅く科白廻しにも工夫がないので「大根」だの「お茶壺権ちゃん」だのと酷評された。
当時将軍家に献上される茶壺を護衛する役人の空威張りは巷では笑いの種だったが、権十郎はその役人よりもなお空威張りに見えたことを皮肉ったものである。
兄の当たり役『与話情浮名横櫛』(源氏店)の与三郎を勤めれば、外見は兄に似ていたが科白が重々しくて不評。
『勧進帳』の弁慶を勤めれば、芝居が未熟だと小團次にこっぴどく叱られる。
散々の酷評に次ぐ酷評で、本人も嫌気して芸が伸び悩んだ。
明治元年(1868年)秋には浪人の押し入り強盗によって養父が自宅で刺し殺され、自身も納戸に隠れて九死に一生を得るという惨事に遭遇。
そのときに聞いた養父の呻き声は終世忘れる事ができなかったという。
そんな不幸の中で相続した河原崎座の座元という重責をこなし、翌年三月に七代目河原崎権之助を襲名する。
しかし4年後には妻の甥にあたる河原崎蝠次郎に八代目を譲り、自らは河原崎三升を名乗る。
翌 1874年(明治7年)には非業の死を遂げた養父の遺志を継いで、安政2年(1855年)の失火全焼以後20年来絶えていた河原崎座を芝新堀町に再興。
これを養家への置き土産に実家の市川宗家に戻り、同年七月、37歳のとき、九代目 市川團十郎を襲名した。
飛躍の時代
市川宗家に戻って九代目團十郎を襲名した後も、團十郎はしばらくの間は河原崎座との縁が切れなかった。
河原崎座はその名を改め新堀座となっていたが、義理の甥の八代目権之助に座元の任は重く、すぐに経営難に陥って團十郎に泣きついたのである。
團十郎は結局新堀座の座元を兼ねて借財を背負わなければならなかった。
だが、1876年(明治9年)に十二代目 守田勘彌に招かれて新富座に出勤した頃からようやく芸が伸び始める。
負債の埋め合わせのために地方回りをすることもたびたびあった。
1877年(明治10年)に西南戦争が起こるとそれを題材とした『西南雲晴朝東風』で西郷隆盛を演じ、大当たりした。
文明開化の時代にあって、明治19年に学者や政治家が集まった演劇改良会による演劇改良運動が起こり、従来の荒唐無稽な歌舞伎への反省から歌舞伎の革新を志し、団十郎も学術関係者や文化人と組んで時代考証を重視した演劇に取り組んだ。
海外の演劇事情を知るため、欧米視察も考えた。
これがやがて「活歴」と呼ばれるようになる一連の演目を世に出すことになった。
しかし観客の支持は得られず、興行的には散々だった。
それ以降は古典作品の型の整備に取り組んだ。
1887年(明治20年)には演劇改良運動の一環として、明治天皇の御前で初の天覧歌舞伎を催すという栄誉に浴し、『勧進帳』の弁慶などを勤めた。
この天覧歌舞伎は外務大臣・井上馨邸で開催されたが、九代目は井上のほかにも演劇改良会を通じて伊藤博文や松方正義などの元老とも交流を持ち、歌舞伎俳優の社会的地位の向上につとめた。
1889年(明治22年)、歌舞伎座が開場、先任者の守田勘彌は座頭に九代目を招いた。
ここでも活歴を演じたたため客足が伸びず、おっぺけぺー節で一世を風靡していた川上音次郎の一座が歌舞伎座を使うこととなり、九代目は明治座に退いた。
音二郎一座が海外公演に出たのち再び歌舞伎座に招かれた際には、川上に汚された舞台に鉋をかけることを要求したという。
活歴を諦め再び歌舞伎に立ち戻った九代目は1893年(明治26年)に『勧進帳』で人気を回復。
この頃から九代目は五代目 尾上菊五郎・初代 市川左團次らとともに東京の劇界を盛り上げ、「團菊左」と呼ばれる明治歌舞伎の黄金時代を築いた。
またこの時期に作者・河竹黙阿弥を得て『北条九代名家功』(高時)、『極付幡随長兵衛』(湯殿の長兵衛)、『天衣紛上野初花』(河内山)、『船弁慶』、『大森彦七』などを完成し、また福地桜痴と組んで『春興鏡獅子』『侠客春雨傘』などを創り上げるなど、数多くの名作を残した。
また父・七代目の撰した「歌舞伎十八番」18種を補足するかたちで、自らの得意芸を多く盛り込んだ「新歌舞伎十八番」32~40種も撰している。
晩年は『娘道成寺』の白拍子花子をオルガンやバイオリンの伴奏で勤めたりして、最後まで新しい歌舞伎を追求していた。
後進の指導にもあたり、十五代目 市村羽左衛門、五代目 中村歌右衛門、初代 中村鴈治郎、七代目 松本幸四郎、六代目 尾上菊五郎、初代 中村吉右衛門などの有望な若手を育てた。
家族と後継者
九代目は、明治歌舞伎の頂点にあって「劇聖」とまで謳われ、その存在はそれ自体が歌舞伎を体現するほど神格化されたものだったが、自らの後継者となると最後まで恵まれず、そして悩まされた。
男子だけでも5男を儲けた子福者の父・七代目とは対照的に、九代目が授かったのは2女のみだった。
そこで九代目は門人ながら早くから「天才」と呼ばれてその資質を見せていた五代目市川新蔵を養子とし、これを手塩にかけて育成して成田屋のお家芸を伝えていた。
新蔵もその期待に応えて芸を伸ばし、自然周囲からも「いずれは十代目團十郎」と期待されるようになっていった。
九代目が二人の娘に結婚を急がさず、むしろ梨園の外の知識人と自由に恋愛することを推奨するという、当時としては仰天するほど進歩的な考え方を持っていたのも、この新蔵が控えていてくれたからに他ならなかった。
ところが1897年(明治30年)、その新蔵が37歳で急死するという痛恨事に見舞われる。
眼病で片目を失明、眼帯をかけながら舞台を務めていたが、病状は快方に向かうことなく力尽きてしまったのである。
九代目の落胆ぶりは並大抵ではなかった。
それでもあえて長女の二代目 市川翠扇には恋愛結婚を許した。
日本橋の商家に生れ、慶應義塾に学び、日本通商銀行に就職した稲延福三郎というサラリーマンである。
しかもこれを婿養子に取るとまでいう。
福三郎は一介の銀行員だったが、その父はやがて東京市会議員になるほどの地元の名士で、福三郎の陽性な性格の中にもそうした育ちの良さが感じられた。
しかもなかなかの勉強家で、書画骨董の素養もあり、話題に豊富な文化人だった。
そしてなによりも、長女の良き伴侶として文句の付けようがない夫だった。
稲延福三郎が堀越福三郎として市川宗家に婿養子に入った2年後、團十郎はついに後継者の件についてはなんら手を打つことなく、静かにこの世を去った。
出典: 「市川團十郎 (9代目)」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
上のクリップを聴いてみれば分かるけれど、噺の中では若い権十郎はかなりの人気者なのです。。。でもねぇ~、上の説明にも書いてあるけれど、当時の権十郎は決してうまい役者ではなかったのですよ。。。
どのようなお噺なのでござ~ますか?
次のようなあらすじです。。。
落語のあらすじ
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江戸時代においては芝居(歌舞伎)は庶民の娯楽であったから、観るのは町人と職人が大半で、武士は大手を振って芝居小屋へ通うことは出来なかった。
しかも10年程前に、見物していた武士が主殺しの役を演じた役者に逆上して斬り掛かる事件があり、大小(刀)を芝居茶屋に預けることが義務付けられ、同時に武士の鑑識眼は馬鹿にされた。
江戸の町奉行の組与力を勤める藤崎与一郎は大の芝居好きで、母と下女との3人暮らしをしている21歳の下級武士である。
「お前、明日は芝居見物だそうね。でも、あなたの嫌いな権十郎の舞台なんでしょう?」と、母が怪訝そうに訊くと、「ええ、河原崎権十郎(山崎屋)は下手くそな役者で大嫌いなんですが、他の出演者が豪華なので見逃せないのです」、「でも、権十郎は若い人を中心に大変な人気者なんでしょう?」、「彼らは観る目がないんですよ」と、母子が話をしているところへ、同輩で無二の親友の寺井が訪ねて来た。
「明日、講武所で剣術の試合があるんだ。尊王攘夷と世の中が騒がしい折から、君も顔を出しておいた方がいいんではないか?」、「ありがとう、だが、明日はどうしても芝居を観に行きたいんだ。よろしく言っておいてくれ」と、藤崎の気持ちは変わらなかった。
翌日、芝居茶屋へ着くと顔馴染みの女将が枡席へ案内してくれた。
商家の夫婦、職人2名らの6人との相席で7人が入った枡席。幕が開いた。
商家の夫婦は「待ってましたッ、山崎屋ッ!」、「権ちゃんッ!」と声援を送る。
場内からも「山崎屋ッ!」の掛け声があちこちから掛かる。
人気度は随一で相席の6人も皆、権十郎のファンであった。
藤崎は苦虫を噛み潰すような顔をして、「相変わらず下手くそだな権十郎は、この大根役者!」と思わず口走った。
これを聞いた商家の夫婦が咎めて来た。
「権十郎のどこが下手くそなのです?」、「素人芝居だよ、あいつの演技は」、「わざと素人っぽく演じているのよ」と、応酬が続く。
同席の職人が「うるさいね、あんたも役者へ斬り掛かった侍と同類かね?」と、仲裁というより藤崎を揶揄し、夫婦の味方をした。
藤崎は怒り心頭に発したが無礼討ちも出来ず、ぐっと我慢をした。
茶屋の若い衆が気を利かして藤崎を別席へ連れて行き、場は収まった。
刀を受け取って芝居小屋を出た後、藤崎はいつもの鰻屋へ入り、鬱憤晴らしに酒を飲み始めた。
芝居見物のお定まりのコースで、例の4人組も後から入って来て、藤崎を見てひそひそ話や含み笑いをしながら食事を始めた。
藤崎は自分が馬鹿にされているのを感じ、酒の勢いもあって殺意を抱いた。
先に店を出て、待ち伏せした。雨が降り始めていた。
やがて4人が通り掛り、藤崎は夫婦を斬り殺し、職人2人は逃げて行った。
酔いが覚めて後悔した藤崎は母に全てを打ち明け、切腹しようとした。
母はこれを止め、組頭に相談することにした。
組頭は「成り行きをみよう」という裁断を下した。
職人の証言で、芝居好きの腕の立つ侍という線で捜査が行われたが、芝居茶屋の女将が「まったく知らない一見(いちげん)さんでした」と嘘の証言をしてくれたこともあって、奉行所は通りすがりの正体不明の辻斬りと断定し、捜査は終わった。
寺井が訪ねて来て、「犯人はお前だろう?」と言う。
藤崎はこれを認めて経緯を話し、「今後一切、芝居と酒を断つ」と約束した。
文久2年のことでした。
6年後の明治元年、明治新政府(官軍)と彰義隊(徳川家側)が東京・上野の寛永寺一帯で対峙した。
藤崎も寺井も彰義隊に加わっていた。
いよいよ明日は決戦という夜、藤崎の姿が見えない。
「逃げ出したか?」と、同志は言うが、寺井には分かっていた。
深夜に柵を乗り越えて藤崎は帰って来た。
寺井が出迎えると、「この世の名残に芝居を観に行っていた。権十郎が見違えるほど実に上手くなっていたのには驚かされた。あの夫婦の鑑識眼の方が高かったのだ。恥じると共に改めて申し訳ないと思っている」と打ち明ける。
翌日、戦いの火ぶたは切られた。
藤崎は大向こうから「待ってました、藤崎屋ッ!」という掛け声を聞いたような思いで敵陣へ斬り込み、討ち死にした。
懐にはお経本の代りに芝居の番付を抱いていた。
権十郎は後の日本一の大看板、九代目市川團十郎である。
こういうあらすじなのですよ。。。
どうして若い頃の権十郎が まるでアイドルのような人気者に仕立て上げたのでしょうか?
そうしないと噺が面白くならないからでしょう! 権十郎の芝居を見て多くの観客から「大根役者!」という掛け声がかかったとしたら、この落語の話にはならなかったのですよ。。。
でも実際の権十郎は、むしろ大根役者だったのでござ~ますかァ?
そうですよ。。。歴史的事実としては、上のウィキペディアに書いてあるとおりだったと僕は思います。。。でもねぇ~、大根役者として落語に登場させたのでは、この噺にはならないでしょう!?
。。。で、当時のお芝居は昼間だけだったのでござ~ますか?
そうだったのです。。。現在では夜、芝居見物するのが当たり前だけれど、当時は昼間だけだった。。。
どうしてでござ~ますか?
電気がなかったし、色々と不便なことがあったのでしょう。。。
でも、昼間働いている庶民にとっては、観に行けないでしょう!
あのねぇ~、貧乏人の庶民は、観に行けなかった。。。観に行けたとしても、せいぜい立ち見席だった。。。なぜならチケットが高かったのですよ。。。
■江戸時代の歌舞伎チケット代
四世鶴屋南北が活躍した、文化・文政期、おおよそ以下の通りです。
交換相場は、金1両=銀60匁=銭4000文とします。1両=8万円で計算。
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・ 上桟敷席(最上等席=二階などの特別席)が、銀35匁(47000円)
・ 下桟敷席(別名、鶉桟敷席=一階の舞台正面席)が、銀25匁(33000円)
・ 高土間席(1等席)が、銀20匁(27000円)
・ 平土間席(2等席)が、銀15匁(20000円)
・ 切り落とし席(3等席=立ち見)が、銭132文(2640円)。
切り落とし席は、土間の枡席のことで、ひとマスに7人詰め込まれた。
今と違って、正面の枡席の方が左右の席より安かった。
またこれだけのチケット代が掛かるので、女性は着物も新調し髪も結い直して前の晩から準備、一大行楽になった。
出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 (以下同様)
だから、裕福な人か、よほどの芝居好きでない限り歌舞伎を観にはゆかなかった。。。
確かに、今でも歌舞伎座にお芝居を観にゆくのは、よほどの芝居好きですわよねぇ~。。。
それに、今と違って余計にお金がかかる。。。
それは、どう言うわけでござますかァ~?
普通、芝居茶屋を通して劇場に入ったからですよ。。。
■芝居茶屋
江戸時代の芝居小屋に専属するかたちで観客の食事や飲み物をまかない、チケットの手配、小屋への案内、幕間の休憩所、終演後の食事歓談。通常は、そこを通して劇場に入った。
芝居小屋からは目と鼻の先にあった。
大茶屋、小茶屋が有り、小茶屋のなかには、出方と言って接客用の店構えのない仕出し専門のものもあり、こうした茶屋では出方とよばれる接客業者を専属で抱えていた。
出方は訪れた観客を座席まで案内したり、仕出し茶屋でこしらえた小料理・弁当・酒の肴などを座席に運んだりした。
落語「鍋草履」に出てくる料理持ちが出方である。
その経営者や使用人のなかからは、後代に大名跡となる歌舞伎役者も生まれた。
その代表的な役者は、八代目市村羽左衛門、四代目市川團十郎、初代尾上菊五郎、六代目市川團十郎、五代目澤村宗十郎、初代實川延若、初代市川右團次、三代目澤村田之助、二代目河原崎権十郎、五代目中村時蔵等がいる。
茶屋代を払ったり世話人にはチップをやらなかればならない。。。チェケット代金だけでは済まない。。。弁当代や酒代も払わねばならない。。。もちろん、弁当代や酒代は現在でも自腹だけれど。。。
なるほどォ~、ずいぶんとお金がかかるのですわねぇ~。。。
とにかく、芝居を見にゆくには5時頃に起きて、6時には茶屋に入って、それから7時には芝居が始まり、5時に終わったとして、それから茶屋で食事をしながら芝居の話で盛り上がる。。。家に帰るのは8時から9時ですよ。。。丸一日がかりの芝居見物です。。。
映画も、テレビも、野球も、プロレスもない。。。スマホも、ネットもなかった頃ですから、芝居見物は相撲と並んで一大娯楽だったのでしょうねぇ~。。。
そういうことです。。。
ところで、見物していた武士が主殺しの役を演じた役者に逆上して斬り掛かる事件があり、大小(刀)を芝居茶屋に預けることが義務付けられたようですけれど、どう言う事件だったのでござ~ますかァ~?
次のような事件だったのです。。。
■武士の刀傷事件
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斬り捨て御免は正当防衛的な行為と認識されていた。
しかし、それはあくまで建前であり、喧嘩による斬り捨て御免も「無礼討ち」として処理されていた。
あくまでも正当防衛の一環であると認識されているため、結果的に相手が死ぬことはあっても、とどめを刺さないのが通例である。
また無礼な行為とそれに対する切捨御免は連続している必要があり、以前行われた無礼を蒸し返しての切捨御免は処罰の対象となった。
無礼討ちには、武士に対する名誉侵害の回復という要素と、その生命を脅かす攻撃から自身の身を守る正当防衛の要素が含まれていた。
幕府直轄地である江戸で町民に危害を加えた場合は、江戸幕府への反逆行為とみなされる恐れがあった。
このため諸藩は江戸在勤者に対し、直接切捨御免には言及していないものの、「町民と諍いを起こさずにくれぐれも自重すべき」旨の訓令をたびたび発した記録が残っている。
このため、簡単には斬れない事情を知っていた町民の中には、粋をてらったり、度胸試しのために故意に武士を挑発する言動をする者もいたという。
そのようなトラブルを避けるために江戸中期以降にはこのような芝居小屋・銭湯・遊廓などの大抵の公共施設では刀を預ける刀架所が下足所の横に設けられた。
この噺のように、激高して舞台に飛び上がって役者へ斬り掛かった侍は、明らかに自身への正当防衛でも無く、名誉毀損でも無く、身柄を拘束されていて、江戸市中で起こったことなので、厳しく処罰された。
実際の話は、安政4年(1857)4月14日、肥後細川藩士の小倉力次郎が、浅草・猿若町の森田座で観劇中興奮して舞台へ飛び上がった。
この時の出し物は鶴屋南北作「天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべい いこくばなし)」で、市川市蔵が天竺徳兵衛に扮し、母親を殺害するシーンで起こった。
どんな名演技で有ったか、勤番侍の力次郎、芝居であることを忘れて徳兵衛に切りつけてしまった。
幸い市蔵は浅傷だったが、止めに入った裏方2人が重傷を負って大騒ぎ、直ぐ人を走らせたので、北町奉行所から与力服部孫九郎が出役、暴れる力次郎に縄を打った。
召し捕った藩士はどう処分されたかというと、重罪は幕府法で処罰して、その旨を所属藩へ通知する。
しかし、軽罪は所属藩へ身柄を渡して処罰させる。
小倉力次郎は乱心と言うことで、特に内済(和解)にしたようである。
いくら名演技でもあれ、芝居であることを忘れて役者に飛びかかるなんて、狂人と思われても仕方がありませんわねぇ~。。。
乱心したとあるので、やはり、狂人扱いになって和解したのですよ。。。肥後細川藩に帰った小倉力次郎が、その後どうなったのか? 調べてみたけれど、ネットで調べてもその後のことはどこにも書いてない。。。おそらく、切腹は免(まぬが)れても、狂人扱いになって座敷牢で一生を終えたのかもしれません。。。
落語の噺の藤崎与一郎も、ちょっと異常ですわよねぇ~。。。いくらムカついたからと言って、意見が対立したご夫婦を斬り殺すことはないと思うのでござ~ますわァ~。。。
「無礼討ち」がまかり通っていた時代ですからねぇ~。。。そういう事件も実際にあったのですよ。。。辻斬りや試し切りが行われていたのだから。。。
今の時代は、江戸時代から比べると、ずいぶんとマシな時代になったものですわねぇ~。。。
でもねぇ~、いつの時代にも狂気に走る人はいるものですよ。。。
あらっ。。。現代にもそういう人がおりますかァ~?
鉄砲を自作して安倍晋三元首相を撃ち殺した山上徹也容疑者がいるではありませんかァ~! 江戸時代の侍でも、こういう事件は夢にも思いつかないものですよ。。。
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でも、安倍晋三元首相は役者ではござ~ませんわァ~。。。
山上容疑者の目から見たら、憎き大根役者だったのですよ。。。
そうかしら。。。?
山上容疑者に訊いてみないとわかりませんけどねぇ~。。。
ところで、明治元年、明治新政府(官軍)と彰義隊(徳川家側)が東京・上野の寛永寺一帯で対峙した時に藤崎与一郎は友人の寺井と共に彰義隊に加わっていたということですけれど、相手の官軍の志士たちは歌舞伎を見に出かけたのでござ〜ましょうか?
そんな暇はなかったでしょう。。。当時は、明治維新を目前にして幕末の事件続きでしたからねぇ〜、江戸に出てきた志士たちは目明しや同心の目から逃げ回っていたのですよ。。。芝居小屋などの人目のつくところに出てゆくはずがないのです。。。ちなみに、当時の志士たちが写っている写真が残っています。。。
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■ 『拡大する』
この写真は写真家の上野彦馬が慶応元年(1865年)に撮影したものです。。。
あらっ。。。そうそうたる幕末の志士たちが写ってますわねぇ〜。。。
この志士たちの殆どは田舎の下級武士たちですよ。。。当時の歌舞伎の入場料は高かった。。。歌舞伎を見るどころではなかったでしょう。。。
赤枠で囲んであるのは上野公園に銅像がある西郷さんではござ〜ませんかア!
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銅像のお顔は、写真とは全く似てませんわねぇ〜。。。
この銅像が完成したとき、未亡人になった奥さんが見て「うちの人は こげんな顔はしておらんかった」と言ったそうですよ。。。
この銅像の作者は写真を見なかったのでござ〜ますかァ?
弟の西郷従道の顔を参考にして作ったそうです。。。
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確かに弟の西郷従道によく似ていますわ。。。
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【ジューンの独り言】
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ですってぇ~。。。
確かに、名演技を観たとしても、まるで現実に起きていることだと錯覚して役者を斬りつけるなんて、ちょっと考えられませんわよねぇ~。。。
あなたは、テレビでドラマを見て、嫌な役者にムカついて、役者に殴りかからずとも、テレビをぶっ壊したことがありますかァ~?
ええっ。。。「そんな事は、どうでもいいから、もっと他に面白い話をしろ!」
あなたは、そのような強い口調で あたくしに ご命令なさるのですかァ~?
分かりましたわァ。。。。
では、あなたもビックリするような
忠臣蔵のとっても古い映画をご覧くださいまし。。。
なんと。。。昭和3年(1928年)制作の『忠臣蔵』ですわよう!
無声映画ですけれど、弁士の方がなかなかうまい説明をしてくださいますわ。。。
つい、引き込まれて観てしまうのですわ。。。
浅野内匠頭がどうしてヘマをしでかしたのか?
そのへんのところが詳しく映像に残っております。
観るだけの値打ちがありますわ。。。
では、どうぞ。。。
ところで、どうして小百合さんが
「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれるのか?
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あなたは ご存知ですかァ?
実は簡単な事なのですわよう。
小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。
小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。
分からない事ではござ~ませんわァ。
そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。
現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。
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それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。
そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。
軽井沢・雲場池の紅葉
軽井沢のイルミネーション
秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩
とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。
だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。
じゃあねぇ~~。
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■『生パンツカテゴリー』
■『大衆文学』
■『車中も亦臭し』
■『聖徳太子の母親』
■『笑える電報』
■『忠臣蔵のウソ』
■『天照大神@マレーシア』
■『エロ@韓国』
■『レオタード姿@女子大』
■『美人と接吻』
■『パンツに下痢』
■『阿仏尼』
■『楊貴妃@満州』
■『ズロースを探して』
■『四睡図』
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