この歌を詠んだ人たちは一体どのような人だったのだろうか?僕は、まずその事を考えてみたのですよう。
アイヌ人の人たちがたくさん住んでいたのでござ~♪~ますわ。だから、この歌を詠んだ人たちもアイヌの人だったのですわよう。
それは違うと思いますよう。
なぜですか?
まずアイヌの人たちは日本人に同化した人を除いて明治時代まで文字を使わなかった。和歌を書き残す訳がないのですよう。
アイヌ人は主に東北地方と
北海道に住んでいた。
7世紀頃には、蝦夷(えみし・えぞ【アイヌ人】)は現在の宮城県中部から山形県以北の東北地方と、北海道の大部分に広く住んでいたと推察されている。
大化年間ころから国際環境の緊張を背景とした蝦夷開拓が図られた。
大化3年(647年)の渟足柵設置を皮切りに現在の新潟県・宮城県以北に城柵が次々と建設された。
658年、阿倍比羅夫が水軍180隻を率いて蝦夷を討った。
しかし、個別の衝突はあったものの蝦夷と朝廷との間には全面的な戦闘状態はなかった。
道嶋嶋足のように朝廷において出世する蝦夷もおり、総じて平和であったと推定されている。
蝦夷征討
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
確かにアイヌ人も関東に少しは住んでいたでしょう。でもねぇ、そういう人たちは日本人に同化してしまった人たちですよう。この歌が詠まれた当時はアイヌの人たちのほとんどは東北地方に追いやられていたのですよう。万葉集の編者の大伴家持(おおともやかもち)は、718年に生まれ、785年に亡くなっている。この大伴家持は防人を集めて世話をする役人だった事があるのですよう。だから、彼の手元に集められてきた歌を家持が記録し、取捨選択して万葉集に載せたものと考えられているのですよう。
つまり、上の歌が詠まれたのは750年頃ですか?
そう考えてほぼ間違いないでしょう。
その頃までに、ほとんどのアイヌ人は東北地方に移住していたのでござ~♪~ますか?
そうですよう。
。。。んで、アイヌ人の人たちが関東から東北に移住したとして、そのあとに収まったのはどのような人たちだったのでござ~♪~ますか?
大伴家持が上の歌を万葉集に載せる約100年ほど前に、日本はたくさんの難民を受け入れたのですよう。
難民って。。。一体どこからの難民でござ~♪~ますか?
この事について、僕は以前、記事に書きました。その記事の中から抜粋しますよう。読んでみてください。
東国人は天智天皇によって
防人(さきもり)として狩り出された
天智天皇は百済(くだら)を助けるために古代韓国で戦争に加担した。
それで、663年に白村江(はくすきのえ)の戦いで敗れた!
天智帝(まだ正式には天皇ではありませんが、政治を担っています)にとっては、決定的な痛手だった。
先ず人望を失います。
これとは反対に、多くの人が、大海人皇子(後の天武天皇)になびいてゆきます。
ちょうど、太平洋戦争に負けた日本のような状態だったでしょう。
当時の大和朝廷は、まだ唐と新羅の連合軍に占領されたわけではありません。
しかし、問題は白村江で大敗したという重大ニュースです。
おそらく、天智天皇は『一億玉砕』をさけんで、しきりに当時の大和民族の大和魂を煽り立てたでしょう。
しかし厭戦気分が広がります。それを煽り立てるのが大海人皇子を始めとする新羅派です。
国を滅ぼされてしまった百済人が難民となって続々と日本へやってきます。
天智帝が援助の手を差し伸べます。
しかし戦費を使い果たした上に、さらに重税が割り当てられるのでは、大和民族にとっては、たまったものではありません。
そういう税金が百済人のために使われると思えば、ますます嫌になります。
天智天皇の人気は底をつきます。
そればかりではありません。天智天皇はもう必死になって、九州から近畿地方に至る大防衛網を構築し始めます。
しかし、天智天皇は重大な間違いを犯してしまった。
唐・新羅同盟軍の侵攻を防ぐために、天智帝は上の地図で示したような、一大防衛網を築いたのです。
(現在で言うなら、テポドンに備えるようなものですよ!
その防衛網を実際に構築したんですよ!
その実行力は確かにすごい!)
そのために、一体何十万人の人々が動員されたことか?
しかし、天智天皇の防衛計画を本当に理解している人は、おそらく10パーセントにも達しなかったでしょう。
「何でこんな無駄なことをさせられるのか?」
大多数の人は理解に苦しんだことでしょう。
魏志倭人伝に書いてあるとおり、原日本人(アイヌ人の祖先)というのは、伝統的に町の周りに城壁を築くようなことをしません。
したがって、山城を築くようなこともしません。
これは朝鮮半島的な発想です。
原日本人にとって、山は信仰の対象です!
聖域に入り込んで、山を崩したり、様相を変えたり、岩を積み上げたりすることは、神を冒涜することに等しいわけです。
このことだけをとってみても、天智天皇は土着の大和民族、古代アイヌ人から、総スカンを喰らう。
「今に見ていろ。きっとバチが当たるから!」
しかも、これだけでよせばいいのに、東国から、防人(さきもり)を徴用する。
東国には、当時アイヌ人の祖先がたくさん暮らしていた。
つまり、大和人に同化したアイヌ人もたくさん居た。
この人たちは、文字通り、万物に神が宿ると信じて、平和に感謝して生きる人たちだった。
この防人というのは、九州の防衛に狩り出される警備兵です。
そのような素朴な人たちまでもが警備兵として狩り出される。
往きは良い良い帰りは怖いです。
というのは、帰りは自弁当です。
つまり自費で帰国しなければなりません。
したがって金の切れ目が命の切れ目で、故郷にたどり着けずに野垂れ死にをする人が結構居たそうです。
それはそうでしょう、新幹線があるわけでありませんから、徒歩でテクテクと九州から関東平野までテクシーです。
ホテルなんてしゃれたものはもちろんありません。
途中で追いはぎに襲われ、身ぐるみはがれたら、もう死を覚悟しなければなりません。
さんざ、こき使われた挙句、放り出されるように帰れ、と言われたのでは天智天皇の人気が出るわけがありません。
人気どころか怨嗟の的になります。
「今に見ていろ。きっとバチが当たるゾ!」
それで、バチが当たって(?)天智天皇は暗殺されたわけです。
『万葉集の謎と山上憶良 (2006年7月1日)』より
分かるでしょう。天智天皇は百済を助けるために古代韓国で戦争に加担した。でも、663年に白村江(はくすきのえ)の戦いで敗れた!百済は国が無くなってしまったのですよう。
つまり、百済人が難民になって日本にたくさんやってきたのでござ~♪~ますか?
そうですよう。天智天皇は難民を受け入れるより他に仕様がなかった。だから、土地が空いている関東平野に防人の予備軍として送り込んだ訳ですよう。
要するに上の歌を詠んだ人は、この難民の子孫でござ~♪~ますか?
その可能性が強いですよう。難民たちが関東平野に移住してから100年経っているから、上の歌を詠んだ人は、おそらく孫の代でしょうね。当時は学校があるわけではないから、漢字は親から教わる。万葉集の歌はすべて漢字で書かれている。日本語の読みに漢字を当てて書いたのが当時の歌ですよう。
分かりましたわ。それで、あたくしの祖先の女の子の事ですけれど。。。どうして京都に居るはずのあたくしの祖先が関東平野に居るのでござ~♪~ますか?
次の文章を読んでみてください。
この列島にいつ「武士」が現れたのか
武士はいかにしてこの日本列島に「出現」したのか…。
この謎ときに対して、司馬さんの筆は期せずして一編の壮大な叙事詩をつむぎだしているかに見えます。
『街道をゆく』の第一巻は「甲州街道 長州路ほか」です。「甲州街道」は近藤、土方、沖田、井上ら新撰組の主力メンバーが少年時代をすごした土地を野太く貫く古い街道です。
『燃えよ剣』をおもしろく読む鍵がここにある気がします。
「甲州街道」編には、一炊(いっすい)の夢を見るような、あるいは古代から今日にわたる“時間飛行”のような詩情が潜んでいます。
旅の始まりで『更級日記』にふれます。
父の任地である東国で生まれた13歳の少女が、任期が満ちて京に帰る父に連れられて草深い武蔵野国を通ったのは寛仁四(1020)年のことでした。
たまたま望見した名も知らぬ人物について書き記します。
「馬に騎りて弓持(もち)たる」人物についてです。
広々とした空の下、馬に乗った武人はやがて草むらに消えて行きます。
点景のように草原に現れたこの人物のことを彼女が書きとどめたのは、よほどそのときの光景があざやかだったからに違いありません。
さりげなく書かれたこの一節が司馬さんの記憶に止まります。
そしてその時代から一挙に時間を360年ほど溯(さかのぼ)ります。
それより360年前の西暦663年。
朝鮮半島。
百済(くだら)が滅亡の危機に瀕(ひん)していました。
百済の救援に向かった約二万七千の日本軍は白村江(はくすきのえ)の海戦で大敗北。敗戦の混乱の中で多くの百済遺民を伴って帰国します。
百済人は長年、ツングース系の高句麗騎兵と戦っており、騎射に長じていました。
司馬さんの想像力は、少女が見た「馬に騎りて弓持たる」人物が、土着人と混血した360年後の百済人の子孫ではないかと見るのです。当時、武蔵野には二千余人の百済人が移住し、土着しました。
そして、中国的な国家の「かたち」である律令制を倒し、1192年に鎌倉幕府という日本的な政権を作った新興勢力である坂東(ばんどう)武士団とは、この人たちの後裔(こうえい)ではないかと考えるのです。
「この集団が、日本史上、われわれが誇る、最も典型的な日本人集団とされる坂東武者に変わってゆくことを思うと、東アジアの人間の交流や、文化の発生にかぎりないおもしろさを覚える。」(『街道をゆく』1)
日本人の原型体質とは、坂東武士団の中から結晶のように煮詰って現われ出た生き方であり、その広がりはアジア的スケールを持っていたかもしれないのです。
かれら坂東武士団のモラルこそ、「名こそ惜しけれ」でした。「坂東」とは箱根の東ということです。
(84-87ページ) 『司馬遼太郎の「武士道」』
著者・石原靖久 発行・平凡社
2004年8月25日 初版第一刷発行
つまり、上の引用の中に現れる13才の少女があたくしの祖先の一人だとデンマンさんはおっしゃるのでござ~♪~ますか?
直系の祖先ではないけれど、卑弥子さんの遠い親戚筋に当たるのですよう。
『更級日記』を書いた女性は、確かに名前が今日に伝わっていませんわ。でも、彼女の父親は菅原孝標(たかすえ)でござ~♪~ますわ。確か4代前には、あの有名な右大臣・菅原道真(みちざね)がおりますわ。
ほおォ~。。。さすがですねぇ~。。。京都の女子大学で「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授ですねぇ~。。。知ってますねぇ~。。。
こういうところで煽(おだ)てないでくださいましな。
僕は詳しく知らないので調べてみました。ちょっと読んでみてください。
更級日記(さらしなにっき)
菅原孝標女によって平安時代中ごろに書かれた日記。
作者13歳の寛仁4年(1020年)から、52歳頃の康平2年(1059年)までの約40年間の回想録。
全1巻。
作者は菅原道真の5世孫にあたる菅原孝標の次女で、母方の伯母に蜻蛉日記の作者である藤原道綱母がいる。
日記文学に列なるものの、製作形態としてはまとめて書かれたものであろうとされる。
東国・上総(現在の千葉県)の国府に任官していた父とともに寛仁4年9月京の都(現在の京都市)へ帰国するところから始める。
源氏物語を読みふけり、物語世界への憧憬に過ごした少女時代、度重なる身内の死去によって見た厳しい現実、祐子(ゆうし)内親王家への出仕、三十代での橘俊通(としみち)との結婚と仲俊(なかとし)らの出産、夫の単身赴任そして康平元年秋の病死などを経て、子供たちが巣立った後の孤独の中で次第に深まった仏教への傾斜までが平明な文体で描かれている。
書名の「更級」は、古今和歌集の一首「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」に由来する。
逆に更級日記にちなんだものとして、千葉県市原市に「更級通り」がある。
更級日記の現存する写本は全て藤原定家が書写した御物本の系統である。
7か所に及ぶ錯簡を抱えて古来難解とされて来た本文も、大正13年(1924年)、佐佐木信綱・玉井幸助によって訂正・整理された。
爾来、広く楽しまれて平安女流日記文学の代表作の一に数えられる。
菅原孝標女(すがわらたかすえ の むすめ)
寛弘5年(1008年)に生まれる。
没年は定かでないが康平2年(1059年)頃とされる。
平安時代の貴族の女性。
本名は伝わっていない。
10歳頃から50歳頃までの人生を綴った『更級日記』の作者として知られ、更級日記御物本奥書により、『浜松中納言物語』などの物語の作者ともされる。
略歴
彼女の父は、菅原道真の血を引く上総・常陸の受領・菅原孝標であり、母は藤原倫寧の娘で、伯母(母の姉)は『蜻蛉日記』の作者である藤原道綱母であった。
兄定義、甥在良もともに学者である。
彼女は寛弘5年(1008年)に生れた。
寛仁4年(1020年)、父の上総介の任期が果てたので一家で上京し、三ヶ月ほどの旅程を経てようやく京へと入った。
この頃彼女は13歳で、更級日記はこの頃からはじまっている。
当時、物語への熱がさめず、伯母から『源氏物語』50余帖をもらった時は、昼夜を問わず読み耽ったという。
万寿元年(1024年)には姉が二女を残して亡くなり、なお物語に耽読した。
しかし、この頃から「信心せよ」との啓示を夢に見るようになる。
祐子(ゆうし)内親王(後朱雀天皇第三皇女)に仕え、長久元年(1040年)頃、橘俊通(たちばな としみち)と結婚。
寛徳2年(1045年)に一子・仲俊(なかとし)をもうけたが、俊通は康平元年(1058年)に亡くなり、子も独立して彼女は孤独になった。
このとき彼女の更級日記は終わりを告げた。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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