150年の空白
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デンマンさん。。。 空白の150年 という記事を書いたばかりではござ〜ませんかァ〜!
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そうです。。。10月8日に投稿しました。
どういうわけで、また似たような記事を書くのでござ〜ますかァ〜?
ちょっと次のリストを見てください。。。
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■『拡大する』
■『空白の140年』
■『驚異の大洪水』
■『月さえも』
■『混浴女子大生に誘われて』
あらっ。。。デンマんさんが10月8日に投稿した『空白の140年』が人気記事ランクインで 51位に躍り出たのでござ〜ますわねぇ〜。。。
そういうことですよ。。。
でも、51位ということがそれほどすごいことなんでござ〜ますかァ〜?
すごいことなんですよ。。。アメブロで1日に平均何本の記事が投稿されると卑弥子さんは思いますかァ?
そうですわねぇ〜。。。50,000本ぐらいの記事が投稿されるのですかァ〜?
いや。。。もっと多いのですよ。。。次のリストを見てください。。。
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これはアメブロの僕のブログ『バークレーの書きたい放題!』の最新の記事 リストですよ。。。僕は、1日に2本の記事を毎日投稿しているのですよ。。。上のリストには10月8日から12日までの5日間の10本の記事が掲載されています。。。アメブロではURL を決めるのに、投稿するたびに1つづつ URL の番号が増えてゆくのですよ。。。つまり、この5日間に次のように 685,799本の記事が投稿されたのですよ。。。
12769114002 - 12768428203 = 685,799本の記事
つまり、1日平均 137,160本の記事が投稿されるのですよ。。。
要するに、10月8日にデンマんさんが投稿した『空白の140年』が 137,160本中、人気で 51位に躍り出たということでござ〜ますかァ〜?
そういうことですよ。。。
あらっ。。。それはすごいことではござ〜ませんかァ〜! いったい、どういうところにネット市民の皆様は感心して記事を読んだのでござ〜ますかァ〜?
知りたい?
もちろんでござ〜ますわァ〜。。。
じゃあ、もう一度記事を読んでみてください。。。
あのねぇ〜、調べることがあって、たまたまYouTubeのクリップを観ていたら、次のクリップに出くわしたのですよ。。。
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中国の歴史書には書いてなくとも日本の最古の歴史書「古事記」に、その空白の150年のことが書いてあるのではござ〜ませんかァ?
いや。。。「古事記」にも、この150年の空白の間の出来事は全く書かれてない。。。古事記の編纂者も中国の史書を読んでいたに違いないのだけれど、全く触れてない。。。『魏志倭人伝』に卑弥呼の事が出てくるのだけれど、古事記の編纂者は、全く無視している。。。似たようなことが古事記に書かれているけれど、卑弥呼じゃなくて「神功皇后」が大陸に遠征したというようなことが書かれている。
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つまり、「古事記」の編纂者は、中国の史書を読んでいたにもかかわらず、そこに書かれている倭(当時の日本)のことを無視していたのでござ〜ますかァ?
そうです。。。無視していたとしか考えられない! おそらく、当時の権力者にとって、卑弥呼のことも含めて 日本の「空白の150年」の事件は書きたくなかったに違いない。。。
いったい、「古事記」とは、そもそもどういう歴史書なのでござ〜ますか?
古事記
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古事記は、現存する日本最古の書物で歴史書であるとされる。
その序によれば、和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上されたことで成立する。
上中下の3巻。内容は天地開闢から推古天皇までの記事である。
8年後の養老4年(720年)に編纂された『日本書紀』とともに神代から上古までを記した史書として、近代になって国家の聖典としてみられ、記紀と総称されることもあるが、『古事記』が出雲神話を重視するなど両書の内容には差異もある。
和歌の母体である古代歌謡(記紀歌謡)などの民間伝承の歌謡や、古代神話・伝説などの素材や記録を取り込んだ『古事記』は、日本文学の発生や源流を見る上でも重要な素材の宝庫となっている。
『古事記』の原本は現存せず、いくつかの写本が伝わる。
成立年代は、写本の序に記された年月日(和銅5年正月28日(ユリウス暦712年3月9日))により、8世紀初めと推定される。
内容は、神代における天地の始まりから推古天皇の時代に至るまでの出来事が、神話や伝説などを含めて、紀伝体で記載される。
また、数多くの歌謡を含む。
「高天原」という語が多用される点でも特徴的な文書である。
『古事記』は『日本書紀』とともに後世では「記紀」と総称される。
内容には一部に違いがあり、『日本書紀』のような勅撰の正史ではないが、『古事記』も序文で天武天皇が、
訓読文:帝紀を撰録(せんろく)し、旧辞を討覈(とうかく)して、偽りを削り実を定めて、後葉に流(つた)へむと欲(おも)ふ。
と詔したと記載があるため、勅撰とも考えられる。
しかし史料の上では、序文に書かれた成立過程や皇室の関与に不明な点や矛盾点が多いとする見解もある。
『続日本紀』には『日本書紀』の記事があるのに対し、『古事記』にはそのような記述を欠いている。
稗田阿礼の実在性の低さ、序文の不自然さから、偽書説も唱えられている。
『古事記』は歴史書であると共に文学的な価値も非常に高く評価され、また日本神話を伝える神典の一つとして、神道を中心に日本の宗教文化や精神文化に多大な影響を与えている。
『古事記』に現れる神々は、現在では多くの神社で祭神として祀られている。
一方文化的な側面は『日本書紀』よりも強く、創作物や伝承等で度々引用されるなど、世間一般への日本神話の浸透に大きな影響を与えている。
編纂の経緯
中大兄皇子(天智天皇)らによる蘇我入鹿暗殺事件(乙巳の変)に憤慨した蘇我蝦夷は大邸宅に火をかけ自害した。
この時に朝廷の歴史書を保管していた書庫までもが炎上したと言われる。
『天皇記』など数多くの歴史書はこの時に失われ、『国記』は難を逃れて天智天皇に献上されたとされるが、共に現存しない。
天智天皇は白村江の戦いで唐と新羅の連合に敗北し、予想された渡海攻撃への準備のため史書編纂の余裕はなかった。
その時点で既に諸家の『帝紀』及『本辭』(『旧辞』)は虚実ない交ぜの状態であった。
壬申の乱後、天智天皇の弟である天武天皇が即位し、『天皇記』や焼けて欠けてしまった『国記』に代わる国史の編纂を命じた。
その際、28歳で高い識字能力と記憶力を持つ稗田阿礼に『帝紀』及『本辭』などの文献を「誦習」させた。
その後、元明天皇の命を受け、太安万侶が阿礼の「誦習」していた『帝皇日継』(天皇の系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)を編纂し『古事記』を完成させた。
成立
成立の経緯を記す序によれば『古事記』は、天武天皇の命で稗田阿礼が「誦習」していた上述の『帝皇日継』と『先代旧辞』を太安万侶が書き記し、編纂したものである。
かつて「誦習」は、単に「暗誦」することと考えられていたが、小島憲之(『上代日本文学と中国文学 上』塙書房)や西宮一民(「古事記行文私解」『古事記年報』15)らによって「文字資料の読み方に習熟する行為」であったことが確かめられている。
帝紀と旧辞
『古事記』は『帝紀』的部分と『旧辞』的部分とから成る。
『帝紀』は初代天皇から第33代天皇までの名、天皇の后妃・皇子・皇女の名、及びその子孫の氏族など、このほか皇居の名、治世年数、崩年干支・寿命、陵墓所在地、及びその治世の主な出来事などを記している。
これらは朝廷の語部などが暗誦して天皇の大葬の殯の祭儀などで誦み上げる慣習であったが、6世紀半ばになると文字によって書き表されたものである。
『旧辞』は、宮廷内の物語、皇室や国家の起源に関する話をまとめたもので、同じ頃書かれたものである。
武田祐吉や岡田精司、関根淳などは、『古事記』の本文が推古朝で完結していることから、『古事記』の元となった『帝紀』が推古朝で終わっていた=推古朝から遠くない時期に記されたと指摘している。
ただし、舒明天皇を「岡本宮に坐して天下を治らしめしし天皇」と記していることから、舒明朝段階の加筆はあったとされる。
なお、笹川尚紀は、舒明天皇の時代の後半に天皇と蘇我氏の対立が深まり、舒明天皇が蘇我氏が関わった『天皇記』などに代わる自己の正統性を主張するための『帝紀』と『旧辞』を改訂と編纂を行わせ、後に子である天武天皇に引き継がれてそれが『古事記』の元になったと推測している。
構成
上つ巻(序・神話)
中つ巻(初代から十五代天皇まで)
下つ巻(第十六代から三十三代天皇まで)
の3巻より成っている。
特徴
『古事記』の系譜記事で特徴的なのは、収録している氏族系譜が多く統一性が高く、母系の系譜を重視している点が挙げられる。
『日本書紀』で記される登場する系譜は110氏族だが、『古事記』は201氏を数える。
加えて、一祖多氏型の系譜も多いとされる。
また、『日本書紀』で用明天皇の皇后について述べた部分は「穴穂部間人皇女を立てて皇后とす。
是に生ませる四の男、其一は厩戸皇子と曰ふ」と記し、その後に厩戸皇子やその親族について記した後に、「蘇我大臣稲目宿禰の女石寸名を立てて嬪とす。
是に田目皇子を生ませり」と記されているのに対し、
『古事記』では「稲目宿禰大臣の女意富芸多志比売を娶りて生ませる御子、多米王。また庶妹間人穴太部王を娶りて生ませる御子、上宮之厩戸豊聡耳命」となっており、蘇我氏が優先され、上宮王家についての記述が後になっている。
そして、『古事記』には聖徳太子に関する記事が一切見えないため、『古事記』は聖徳太子の存在を蘇我氏より後退させたり、聖徳太子の歴史を無視しているとされる。
7世紀後半から8世紀初頭にかけての『日本書紀』の編集作業では、聖徳太子を礼賛する思潮が見えるのに対し、同じ時期に成立した『古事記』ではそのような思潮が見られないどころか、その事績を無視している上に、蘇我馬子が主導した崇峻天皇の暗殺に関する記述も『古事記』には存在しない。
『古事記』の皇女の記載方法には統一性がなく、「比売命」や「郎女」などが混在しており、「皇女」で統一されている『日本書紀』とは大きく異なっている。
しかし、『古事記』の欽明記・敏達記では皇子も皇女も「王」で統一されている。
これは、欽明王統と蘇我氏が結びついた政治形態が成立していたからであると考えられる。
加えて、『古事記』の通常の用字法では「葛木」と表記されるべきであるが、仁徳記・履中記では「葛城」と好字に改められている箇所があり、これは蘇我馬子が「葛城臣」を称したためであると考えられている。
また、『古事記』では孝元天皇-武内宿禰-蘇我石河-蘇我氏という系譜を記しているのに対して、『日本書紀』ではそれを記していない。
また、欠史八代の皇居と御陵は蘇我氏の勢力基盤である葛城・高市地域に集中している。
これは「欠史八代や武内宿禰の系譜が推古朝において蘇我氏の手によって形成されたからである」と考えられるが、推古朝の段階で蘇我氏の全ての系譜が確定していたのではなく、「蘇我石河宿禰」は蘇我倉山田石川麻呂によって創作されたものであると考えられる。
出典: 『古事記』
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
古事記は、和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上されたのですわねぇ〜。。。それに対して、日本書紀は8年後の養老4年(720年)に編纂され、両書ともに、神代から上古までを記した史書として、近代になって国家の聖典としてみられ、記紀と総称されているのでござますわねぇ〜。。。
そういうことです。。。
でも、今から考えれば、ほぼ同じ時期に編纂されたのに、ずいぶんと違うでは ござ〜ませんかァ! 例えば、『古事記』には聖徳太子に関する記事が一切見えないため、『古事記』は聖徳太子の存在を蘇我氏より後退させたり、聖徳太子の歴史を無視しているのですわァ〜。。。
そうなのですよ。。。そういうわけで、聖徳太子は実在しなかったのではないか? 今でも、そういう歴史家がいるほどです。。。
あたくしが不思議に思うのは、『古事記』があるのに、なぜ『日本書紀』をわざわざ書いたのか?…ということでござ〜ますわァ〜。。。
あのねぇ〜、『古事記』は天武天皇が書くように命じたのですよ。。。それに対して『日本書紀』は持統天皇と藤原不比等が自分たちの政権の正当性を書くために書かせた。。。
でも。。。、でも。。。、ウィキペディアで調べても『日本書紀』には序文・上表文がないので、編纂の経緯はわからないと書いてあるのでござ〜ますわァ〜。。。
でもねぇ〜、『古事記』には聖徳太子に関する記事が一切見えないのに、『日本書紀』には聖徳太子を礼賛する話が出てくる。。。これはなぜなのか?。。。ということを考えると、持統天皇が浮かび上がってくる。。。
どういうわけで持統天皇が浮かび上がってくるのでござ〜ますか?
つい最近、僕は次の記事を書いたのですよ。。。
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女帝誕生
讚良(さらら)
皇女が
皇位を継ぐ。
殺人鬼の父親の陰謀により祖父が自決。
祖母も祖父と共に自殺。
母親は二人の死が夫の陰謀だと知って
半狂乱になる。
その夫の子供を宿していたが、
建皇子(たけるのみこ)を出産すると
幼少の讚良皇女に我が子を託して
二人のあとを追うように自殺。
建皇子は家庭の暗い影の下で
唖者として生まれ
体も不自由だった。
8才の短い命を閉じた。
讚良皇女は女帝になったが、
その生い立ちは不幸の連続だった。
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あらっ。。。 このような新聞が当時あるわけあらへん。。。 あんさんがデッチあげたのですやろう?
わてが劇的に書いてみたのやがなァ~、わてが当時生きており、しかも日本新聞の編集長やったら、このような新聞を出していたかもしれへん。 これは歴史家が誰も言うてないことやけど、わては讚良皇女、つまり 後の持統天皇が境界性人格障害者やったと信じてるねん。
でも。。。、当時、そのような病名はなかったのとちゃうん?
もちろん、なかったのや。 でもなァ~、わての話を聞けば、めれちゃんも納得すると思うのやァ~。。。
どないな話やのォ~?
あのなァ~、讚良皇女は4才の時に可愛がってくれたおじいさんとおばあさんが亡くなってしもうたのやがなァ~。。。 しかも、お母さんは半狂乱になって精神に異常を来たし、二人のあとを追うように自殺してしもうたァ。
マジで。。。?
このような悲惨な事件を満5才になるかならないかのうちに讚良皇女は経験したのやでぇ~。。。 この悲劇が幼少の頃の讚良皇女の心に与えたトラウマは、境界性人格障害となって後の彼女の性格形成に大きな影響を与えたのやァ。
ホンマかいなァ~。。。?
ホンマやでぇ~。。。 成長するにつれて父親(後の天智天皇)が行った非情な所業のことも讚良皇女は知るようになるねん。 この父親の生涯は、敵対する者や皇位継承のライバルを謀略でもって抹殺する歴史やったァ。 その手にかかって亡くなった相手には、次のような人たちがおるねん。
● 蘇我蝦夷
● 蘇我入鹿
● 古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)
● 有間皇子
● 蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)
。。。
あらっ。。。 この人たちは中大兄皇子(後の天智天皇)によって命を奪われたのォ~?
そうやがなァ~。。。 ところで、讚良皇女は満12才の時に、姉の大田皇女(満13才)と共に(天智天皇の弟だと言われている)大海人皇子に嫁いだのやでぇ~。。。 もちろん、政略結婚やァ。 中大兄皇子(後の天智天皇)にとって一番のライバルは大海人皇子やった。 何とかして大海人皇子を自分の協力者にしたい。 言ってみれば、二人の娘を人質として大海人皇子に渡したようなものやァ。 それほどまでにして中大兄皇子は大海人皇子を懐柔しようとしたのやがなァ。
。。。で、大海人皇子は懐柔されはったん?
いや。。。、その甲斐もなく、やがて天智天皇は大海人皇子によって暗殺されてしまうねん。 目には目を歯には歯を! この当時の必然やったァ。
そのような話は歴史の時間に聞いたことがあらへん。
ここでは詳しく話をする時間があらへん。。。、めれちゃんも ぜひ次の記事を読んでみて欲しいのやァ。
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■『天武天皇と天智天皇は同腹の兄弟ではなかった』
■『天智天皇は暗殺された』
■『天智天皇暗殺の謎』
頭の良い讚良皇女は、そのような事も充分に知っていた。 この皇女は父親を憎み恨みながらも、自分が父親の血を最も濃く受け継いでいる事も知っておった。 後に、讚良皇女が甥の大津皇子を死に追いやった事件では、正に天智天皇と同じやり方で抹殺してるねん。
あらっ。。。 讚良皇女は為政者として父親と同様に冷徹な非情さと冷酷さを持っていたのォ~?
そうなのやァ。。。 とにかく、讚良皇女、後の持統天皇は独占欲の強い人やった! それは、天武天皇の血を引く天皇後継者の息子たちがたくさん居たにもかかわらず、持統天皇は断固として、自分の血が流れていない者には皇位に就(つ)かせなかったことからも実に良く表れているねん。
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上の系図を見て欲しい。 青枠で囲んであるのが持統天皇の血がつながった子孫やがなァ~。。。 この人たちに皇位が渡されてゆくねん。。。 それを藤原不比等が自分の娘を皇室に入れてサポートしたのやがなァ~。。。
つまり、この点で、この二人の権力独占志向の人間の気持ちがひとつになりはったん?
その通りやァ。。。 幼少の頃から、この二人は、信じることのできるものは“権力”しかないということを身にしみながら自分の目で見てきたのやがなァ。
讚良皇女の幼少の頃の事件を
もう一度振り返ると。。。
乙巳の変(いっしのへん)から4年後の649年3月、当時右大臣であった蘇我倉山田石川麻呂が謀反を企てていると、石川麻呂の弟の日向が中大兄皇子に告げ口したのが事件の始まりとなった。
石川麻呂は当時の孝徳天皇に身の証をして助けを求めたのだけれど、聞き入れてもらえなかった。
中大兄皇子と石川麻呂では政治的に意見が対立していたので中大兄皇子はさっそく兵を石川麻呂の邸宅に向かわせた。
危険を察した石川麻呂は飛鳥の自宅である山田寺にすでに逃げていた。
しかし、その山田寺もやがて包囲され、石川麻呂は観念して妻(讃良皇女にとってはおばあちゃん)とともに自害してしまう。
事件はそれだけではすまなかった。
やがて陰謀が夫の中大兄皇子のしわざと知った遠智娘(おちのいらつめ)は半狂乱の状態になってしまう。
無実の罪を着せられて、夫に父親を殺されたと思い込んでいる遠智娘は、身重な体を抱えながら心が晴れないままに日を送った。
“父親殺害者”の子を宿していたのだった。
その年の暮れに建皇子を生み、“この子を頼むわね”と満4才の讚良皇女に言い残して20代半ばの短い人生に終わりを告げて遠智娘は命を絶ってしまったのだった。
後に、中大兄皇子は義理の父である石川麻呂の忠誠の心を知り、死に追いやった事を後悔したという。
ところで、当時の結婚は“妻問い婚”が普通でした。
男性が女性宅を訪れ一夜の契りを結べばそれが結婚となり夫婦になるわけです。
男はその家にとどまることなく自由に女の家を出て自分の家に帰り、
女は男のまたの訪問を待ちます。
子供が生まれればその子は妻の家で養育し、父が子供に会うのは女性宅を訪れる時だけです。
その子供の養育費はすべて女性任せで、子供は女性の実家で養育される事になります。
当然の事ですが、子供はたまに会う父よりも、母方の祖父母への愛着が深くなります。
したがって、優しいおじいさんとおばあさんが一緒に亡くなり、そのあとを追うようにお母さんが亡くなってしまった。
満4才の童女は、当時そのことは知らなくとも、やがて自分の父親が祖父母と母の三人を“殺した”と知ることになります。
可愛がってくれていた3人が死んでしまった。しかも、父親の陰謀がその背景にあった。
その衝撃はトラウマになって、その後の讚良皇女の人格形成に大きな影響を与えた事は想像に難(かた)くありません。
しかも、この生まれてきた建皇子は唖者でした。つまり、生まれつき言葉が話せなかった。
体も不自由だったらしい。
母親が受けた精神的なショックで胎児にも悪い影響が出た事も充分に考えられますよね。
建皇子は、生まれながらの犠牲者でした。
おじいさんとおばあさんと母親の死。そして、弟をそんな悲劇に巻き込んだのは、ほかの誰でもない、父の中大兄皇子であると讚良皇女は知ることになります。
斉明天皇も、この不幸せな孫をずいぶんと可愛がったようです。
でも、建皇子は658年5月に亡くなっています。8年の短い命でした。
つまり、讃良皇女は、幼少の頃、次々と身近の人の悲劇にあったのです。
政略結婚で、姉大田皇女と共に大海人皇子に嫁いだ後、大田皇女も幼い子どもたちを残して亡くなっています。
大海人皇子にはたくさんの妻があり、大田皇女亡き後、身分は一番高くなったものの大海人皇子の心は
万葉集の歌を読んでも分かるように、
讃良皇女にあるのではなく、額田女王に向けられていたようですよね。
このことについては次の記事に書きました。
■『日本で最も有名な三角関係』
つまり、讃良皇女は幼い頃から愛してくれる人、愛している人を奪われ続けてきたんですよね。
ある意味で“家庭崩壊”の中で生きてこなければならなかった。
そこに僕は境界性人格障害の病根を見るのですよ。
“愛”を奪われる人生だった。
幼い頃は、父親の中大兄皇子の陰謀が基でが近親者が亡くなって行く。
その父親の政略で大海人皇子に嫁がされてからも、皇子の愛は讃良皇女には注がれない。
そんな中で讃良皇女の心の支えは子の草壁皇子だけだった。
この我が子の将来を脅かす存在になったのが姉から預かった子、大津皇子だった。
大津皇子は実力も人気もあり、草壁皇子の皇太子としての地位を脅かす最大の存在になっていた。
天武天皇亡き後、皇后として最初に行なったことが大津皇子を謀反の疑いで逮捕、刑死させることだった。
しかしその後、皮肉にも、あれ程皇位につかせたかった我が子の草壁皇子が病気で亡くなり、
讃良皇女が持統天皇として即位することになります。
高市皇子を補佐役にし、藤原京への遷都を進める。
持統天皇は在位中頻繁に吉野に行幸しました。
それは天武天皇とともに過ごした数少ない愛の日々を
思い出すためだったのでしょうか?
草壁皇子亡き後、期待をかけたのが草壁皇子の忘れ形見、軽(珂瑠)皇子でした。
そして、この孫を天皇につけたのです。文武天皇です。
持統はその名の通り、皇統にこだわった人だったのです。
聡明で非情である持統天皇が
なぜ怨霊を恐れるのか?
ここで持統天皇が詠んだ和歌をもう一度読んでみて欲しい。
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春すぎて 夏来たるらし
白妙(しろたえ)の
衣(ころも)ほしたり
天(あめ)の香具山
この有名な持統天皇の歌は、ただ単に四季の移り変わりに感興を催(もよお)して詠んだのではないねんでぇ~。。。
それやったら、何を感じて詠みはったん?
これまでの持統天皇の波乱に満ちた人生を考えたのやがなァ~。。。 愛する人を奪われ続けてきたこの女性の性(さが)と業(ごう)を考えるとき、わては次のようにしか解釈できへん。
春が過ぎて夏が来たようだ。
天の香具山に美しく真っ白な衣が
干してあるなあぁ~
でも、私の心はあの山の裏にある
磐余(いわれ)の池を見ているのです。
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大津皇子が自害する前に池の端で
辞世の歌を読んだという。
自害の後で、皇子の妻であり、
私の腹違いの妹でもある山辺皇女が
髪を振り乱し、裸足で駆けて行き、
共に殉死したという。
痛ましいには違いない。
しかし私は、ああせねばならなかったのです。
怨霊になって
私を憎んでいるのかもしれないけれど、
私には他にとるべき道はなかったのです。
どうか、心安らかに眠っていて欲しい。
上の歌を持統天皇は藤原京の宮殿から香具山を見て詠んだやがなァ~。。。
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この地図で見れば分かるように、香具山の裏に磐余(いわれ)の池があるねん。 この池の端で大津皇子は辞世の句を詠んだのやがなァ~。。。 現在では、ほとんどの歴史家が大津皇子は持統天皇の陰謀によって死なされたと見てるねん。
ホンマかいなァ~。。。?
わては次のように考えておるねん。
つまり、持統天皇は結果として自分と血のつながりがある甥の大津皇子と腹違いの妹を死に追いやったわけです。
この当時は怨霊ということがマジで信じられていた。
“怨霊の崇り”ということが現在でいえば“テポドンで攻撃を受ける”程度に怖いこととして考えられていた。
持統天皇だって、テポドンを宮殿に打ち込まれたくないので怨霊を鎮魂するために上の歌を詠んだ。
それが僕の解釈ですよ。うへへへへ。。。。
僕の知る限り、このような解釈をする人をこれまでに見た事がありません。
では、なぜ持統天皇はここまでする必要があったのか?
そしてなぜ、彼女は怨霊をそれほどまでに恐れねばならないのか?
天武天皇が亡くなれば皇太子が皇位を継承するのが順序であり、
皇后の実子である草壁皇太子が即位する事は約束されていた事です。
この時点で、大津皇子は皇位継承権第2位でした。
それにもかかわらず、皇后はこの甥である大津皇子を排除しようとした。
なぜか?
草壁皇子は病弱だったのです。
大津皇子と比べると歌においても人望においてもすべての面で劣っていたようです。
それが証拠に草壁皇子のことはたった1行『日本書紀』に記載があるのみです。
それに比べ、大津皇子については『万葉集』にも『懐風藻』にも記載があります。
それも、大津皇子の才能をほめたたえ、その人柄を偲んでいるような書き方になっています。
詳しくは次の記事を読んでください。
■『性と愛の影に隠れて -- 万葉集の中の政治批判』
つまり、当時の誰が見ても大津皇子の方が天皇にふさわしいと見ていた事が実に良く表れているのです。
草壁皇子が即位すれば皇太子として草壁皇子の異母弟である大津皇子を立てなければなりません。
なぜなら、草壁皇子の長男の軽皇子(かるのみこ)は当時4歳で皇太子にするにはふさわしくない。
ところが、病弱な草壁には、いつ不測の事が起こるかも知れず、その時には大津皇子が皇位につくことになってしまう。
そうなると、皇統が大津皇子に移ってしまう。
つまり、讃良皇女の血を受け継いだ後継者が、そこで絶えてしまう。
独占欲の強い讃良皇女には、このことは絶対に容認できない事です。
この事は持統天皇として即位してから、自分の血に固執したこの女性の性(さが)と業(ごう)を考えれば、容易に察しがつきます。
上の系図を見れば、そのことが良く分かります。
この独占欲と権勢欲は讃良皇女の生い立ちを考えない限り理解できません。
しかも、この女性はその先例を父親の天智天皇と自分の夫である天武天皇との間に見ているのです。
つまり、この場合なら、草壁皇子が天智天皇にあたり、大津皇子が天武天皇にあたります。
天智天皇の皇太子になったのが大海人皇子(後の天武天皇)だったのです。
このような状況を許せば、大海人皇子が天智天皇を暗殺して、その子の大友皇子を亡き者にしたように
大津皇子が草壁皇子を暗殺して皇位につくかもしれない。
その“禍の芽”を摘み、取り除くために大津皇子を亡き者にしなければならなかったのです。
なぜ大津皇子の怨霊を恐れたのか?
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現身(うつそみ)の
人なる吾(われ)や
明日よりは
二上山を
弟背(いろせ)とわが見む
(巻2-165)
この世に生き残った私は、
明日からは、
弟が葬られている
二上山を弟と思い見て、
慕い偲ぶことにしよう。
上の歌は大津皇子の死体を飛鳥の墓から掘り出して、葛城(かつらぎ)の二上山(ふたかみやま)に移して葬った時に、大津皇子の実の姉である大伯皇女(おおくのひめみこ)が痛ましい思いに駆られて詠んだ歌です。
死体を掘り起こして他の場所に埋めなおす。
なぜそのような酷(むご)いことをしなければならないのか?
大伯皇女も、そう思って心が痛んだことでしょう。
つまり、大津皇子を偲んで大伯皇女が詠んだ歌を大伴家持が万葉集に取り上げた本音には、
この事実を後世に伝え“謀反”が持統天皇の“でっち上げ”であった事を暗に伝えるためだった。
僕はそう信じることができます。
大伯皇女は、大津皇子が自害した15年後、
大宝元年(701年)に独身のまま41歳で亡くなっています。
彼女は天武2年(673年)に父・天武天皇の指図に従って
伊勢神宮に奉仕する最初の斎王(いつきのみこ)となり、
伊勢の斎宮(いつきのみや)に移ってお勤めをするようになったのです。
しかし、大津皇子が自害した1ヶ月余りの後に、
弟の罪により斎王の任を解かれて飛鳥に戻ったのです。
平安時代の長和4年(1015年)に書かれた『薬師寺縁起』には次のように書かれています。
大津皇子の霊が龍となって崇りを起こしたため、
大津皇子の師であった僧の義淵(ぎえん)が
皇子の霊を祈祷によって鎮めた。
つまり、大津皇子は無実の罪を着せられて自害させられたのですね。
その罪を着せたのは誰あろう持統天皇なのです。
そして、大津皇子の死体を二上山に移して、
皇子の霊を飛鳥から15キロ離れた山の中に閉じ込めたのも持統天皇のしたことです。
持統天皇の心にも“後ろめたさ”があったのでしょうね。
だからこそ大津皇子の霊に恐れを感じた。
しかも、“大津皇子の霊が龍となって崇りを起こし”ていると言うもっぱらのうわさが流れている。
持統天皇が大津皇子の死体を掘り起こし
二上山にその怨霊と共に閉じ込める気持ちが分かるような気がします。
怨霊信仰
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非業の死を遂げたものの霊を畏怖し、
これを融和してその崇りを免れ安穏を確保しようとする信仰。
原始的な信仰では死霊はすべて畏怖の対象となったが、わけても怨みをのんで死んだものの霊、その子孫によって祀られることのない霊は人々に崇りをなすと信じられ、疫病や飢饉その他の天災があると、その原因は多くそれら怨霊や祀られざる亡霊の崇りとされた。
『日本書紀』崇神天皇七年・・天皇が疫病流行の所由を卜して、神託により大物主神の児大田田根子を捜し求めて、かれをして大物主神を祀らしめたところ、よく天下大平を得たとあるのは厳密な意味ではただちに御霊信仰と同一視し難いとはいえ、その心意には共通するものがあり、御霊信仰の起源がきわめて古きにあったことを思わしめる。
しかし一般にその信仰の盛んになったのは平安時代以後のことで、特に御霊の主体として特定の個人、多くは政治的失脚者の名が挙げられてその霊が盛んに祭られるようになる。
その文献上の初見は『三代実録』貞観五年(863)「所謂御霊者 崇道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原夫人(吉子)及観察使(藤原仲成か)、橘逸勢文室宮田麻呂等是也。・・・」ものと注せられているが、この六所の名については異説もあり、後世さらに吉備大臣(真備)ならびに火雷神(菅原道真)を加えてこれを八所御霊と呼ぶようになった。・・・」
SOURCE: 国史大辞典
持統天皇は怨霊信仰に基づいて大津皇子の霊を祈祷によって鎮めて、
後でまた崇りをしないようにと二上山に皇子の霊を閉じ込めたわけです。
つまり、これは持統天皇が無実の罪を着せて大津皇子を殺したことの何よりの証拠なんですよね。
大伴家持は大伯皇女を万葉集に取り上げることによって、
この事実を我々に伝えようとしたわけです。
僕はそう信じているんですよ。
『愛の擬人法再訪』より
(2022年10月4日)
中大兄皇子(後の天智天皇)は天皇になるために、当時の“皇太子”と思われていた 古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ) を殺したのですよ。。。そういうことを天智天皇の娘の持統天皇は十分に知っていた。。。「親の因果が子に報い」と信じられていたように、持統天皇は娘時代から、不幸な目にあってきた。。。
古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ) は、皇太子だったのでござ〜ますかァ〜?
当時、次期天皇になる最も有力な候補者だと見られていた。。。しかも、人望ある聖徳太子の長男だった。。。中大兄皇子(後の天智天皇)が天皇になるには、目の上のたんこぶだった、ぜひとも、排除する必要がある人物だった。。。
それで、中大兄皇子(後の天智天皇)は古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ) を殺してしまったのでござ〜ますかァ〜?
そうです。。。だから、持統天皇は、また怨霊に悩まされることになった。。。
つまり、聖徳太子の長男である古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)の怨霊を慰めるために、『日本書紀』の中で聖徳太子を礼賛したのでござ〜ますかァ〜?
そうですよ。。。『古事記』には聖徳太子のことは一切出て来ない。。。つまり、持統天皇以外に、聖徳太子のことをあえて『日本書紀』に書く理由がないのですよ。。。
。。。で、空白の150年のことをなぜ書かなかったのでござ〜ますかァ〜?
邪馬台国のことを書くと、大和朝廷の正当性がなくなることを心配したのです。。。だから、『古事記』に書かれていたように、卑弥呼を天照大神として書き、大和朝廷の持統天皇まで、脈々として天皇の血筋が続いていることにしたのですよ。。。
つまり、あえて中国の史書を無視し、邪馬台国を倒して大和朝廷ができるまでの歴史を書き込まずに、持統天皇は、わざと空白の150年をそのまま『日本書紀』に持ち込んだのでござ〜ますかァ〜?
そういうことです。。。
『空白の150年』より
(2022年10月8日)
なるほどォ〜。。。持統天皇が、あえて中国の史書を無視し、邪馬台国を倒して大和朝廷ができるまでの歴史を書き込まずに、わざと空白の150年をそのまま『日本書紀』に持ち込んだのでござ〜ますわねぇ〜。。。
そういうことです。。。その事が分かったので、本当にすごいことだと思って、日本史の授業でクラスメートは「ねえ、ねえ、ねえ…なんだかすごいことが書いてあるわよゥ〜。。。あなたも、ちょっと読んでみてよう」と隣りに座っている友達に勧めたのですよ。。。
それで、人気が 51位に躍り出たのでござますかァ〜?
それ以外に考えられないでしょう!
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