女と反戦 (PART 1)
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デンマンさん。。。 何で急に 女と反戦 なのですか?
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あのねぇ~、バンクーバー市立図書館で借りていた本を読んでいたら次の箇所に出くわしたのですよ。。。
昭和12年1月の野上弥生子
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弥生子と長男・素一
年頭の新聞に作家の野上弥生子が心からの願いを寄せている。
「…たったひとつお願い事をしたい
今年は豊作でございましょうか、凶作でございましょうか。
いいえ、どちらでもよろしゅうございます。
洪水があっても、大地震があっても、暴風雨があっても、……コレラとペストがいっしょにはやっても、よろしゅうございます。
どうか戦争だけはございませんように……」
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
53ページ 『歴史と戦争』
著者: 半藤一利
2018年3月30日 第1刷発行
発行所: 株式会社 幻冬舎
野上弥生子
(1885年〈明治18年〉5月6日 - 1985年〈昭和60年〉3月30日)
フンドーキン醤油の創業家に生まれた。
14歳の時に上京し、明治女学校に入学する。
1906年に夏目漱石門下の野上豊一郎と結婚した。
『ホトトギス』に『縁』を掲載して作家デビューし、死去するまで現役の作家として活躍した。
法政大学女子高等学校名誉校長も務め、「女性である前にまず人間であれ」の言を残した。
昭和初年のプロレタリア文学が流行した時代には、社会進歩のための活動の中にあった非人間的な行動を追及した『真知子』を発表する一方で、思想と行動について悩む青年に焦点をあてた『若い息子』『哀しき少年』などを書き、また日本が戦争へ傾斜していく時期には、時流を批判した『黒い行列』(戦後、大幅に加筆して長編『迷路』に発展させる)と、良識ある知識階級の立場からの批判的リアリズムの文学を多く生み出した。
中条(宮本)百合子や湯浅芳子とも交友を持ち、『真知子』は、百合子の『伸子』を意識して書いた作品であるといわれ1920年代の女性の生き方を描いた作品として日本文学に大きな位置を占めている。
第二次世界大戦が勃発した時期にはちょうど夫とともにヨーロッパに滞在しており、その前後の紀行文『欧米の旅』(現在は岩波文庫全3巻)はこの時期の激動の証言としての価値も高い。
戦後、弥生子は宮本百合子が中心人物であった新日本文学会に賛助会員として加わったがまもなく辞退している。
しかし百合子との交友は続き、1951年に百合子が亡くなったあとも、命日には宮本家に花を贈ることを恒例としていた。
宮本側からも1950年に亡くなった豊一郎の命日には、毎年花が贈られてきたという。
戦後も知識人の生き方を問う作品は多く、戦時下には書けなかった『黒い行列』の続編『迷路』で、敗戦までの日本の知識層のさまざまな生き方を重層的に描き、その後は秀吉という政治的人間と芸術的人間・利休の葛藤を描いた『秀吉と利休』を発表した。
最晩年には、自らの少女時代の周辺のひとびとから材料をとった『森』を執筆していたが後数章を残し完結には至らず、それが絶筆となった。
また『迷路』が完結した後に舞台となった中国を訪問し、延安まで足を伸ばすなど行動力も旺盛であった。
1956年の ハンガリー動乱に際しては、「ロシアといえば、第二次戦争の後漸くできあがったハンガリアの人民民主政体が一度独占資本家、地主、…軍人の支配に逆転しようとするのを、少々粗暴に引き戻そうとしたわけで…」と武力介入したソ連を擁護し、動乱により発生したハンガリー難民を救済しようとした日本ハンガリー救援会の活動を、「事件が起こるまで「ハンガリー」がどこにあるかすら知らなかった者が、にわかに地球儀を買いに走り、またにわかに募金活動をはじめだす光景に複雑な思いがする」、と批判した。
1985年3月30日、老衰のため成城の自宅で大往生した。99歳没。
弥生子が亡くなる直前までの日記が全集に入っている。
人物
弥生子は昭和初期から約60年、北軽井沢の大学村に春から秋にかけて過ごしていた。
最近では、同じく北軽井沢に隠遁生活を送っていた哲学者の田邊元と密かな恋愛関係にあったことが判明し、その往復書簡300通余りが『田辺元・野上弥生子往復書簡』として岩波書店から刊行されている。
若い頃、豊一郎の一高時代の同期生として知り合った中勘助に愛の告白をしたことがあり、その後何十年もわだかまりを抱き続けた。
この一件は、巌本善治の失脚、法政事件(豊一郎が大学を追われた学内紛争)と並び、弥生子の人生の腐植土になった出来事だったと述べている。
晩年、夫の死をきっかけに中とは再会し、中が没するまで交流が続いた。
親族
京都大学教授でイタリア文学者の野上素一は長男、
東京大学教授で物理学者の野上茂吉郎は次男、
保守派論客で哲学者の長谷川三千子は東京大学教授で物理学者の三男野上耀三の娘である。
高野岩三郎、穂積陳重らは遠戚にあたる。
出典: 「野上弥生子」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
野上弥生子という女性は、当時としてはずいぶんとリベラルな人生を歩んだのですわねぇ~。。。
ジュンコさんも、そう思いますか?
昭和12年というと1937年。。。 7月7日には北京(当時は北平と呼ばれていた)で盧溝橋事件が起きていますねぇ~。。。
そうです。。。 この事件がきっかけで「北支事変」が始まったのですよ。。。
つまり、野上さんは戦争が始まることを予感していたのですわね。。。
すでに1931年には満州事変が始まっていましたからねぇ~。。。 大きな戦争が始まるのではないかという予感は、恐らく当時の多くの日本人が感じ取っていたと思うのですよ。。。 でも、日清戦争に勝ち、日露戦争に勝ったから、戦争が始まっても勝つということを、多くの日本人が信じていたから、心配していたのは息子を戦争に取られてしまう野上さんのような母親たちだけだったかもしれません。。。
。。。で、結局、戦争は拡大して、やがて太平洋戦争へと突き進んでゆくのですわねぇ~。。。
そういうことです。。。 野上さんのような母親たちの心配は見事に的中してしまうわけですよ。。。 そして日本人の多くの母親たちは悲劇に見舞われることになるのです。。。
平和への悲願
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けさも庭のお花を仏前に供えて、亡き夫と次男の霊にお祈りを捧げる。
静かに立ち上がる香煙の彼方に、いまにも、「お母さん」と私の胸に抱きつかんばかりの次男の遺影を見つめて、思わず涙がにじみ出てくる。
次男が現役入隊したのは昭和16年、太平洋戦争開始の朝でした。
その前夜、柔道2段、たくましい体格の次男は、虫の知らせか、今晩が最後の別れかもわからんからと、赤児のように一晩中私の懐に抱かれてやすんだのでした。
決戦4年、次男は終戦の年1月、ついに東部ニューギニア、ブナの奥地で戦死しました。
水ももらさぬ優勢な米軍に包囲された日本兵は、木の芽、草の根、トカゲ、カエルを食べていたが、次第に体力を消耗し、ついには己が膝の上にきたカエルを捕える気力さえ失せ果てて、この世を去っていったのでした。
はるか太平洋の果て、南十字星輝くニューギニアの密林の奥深くには、無残にも幽鬼のようにやせほそり、むなしく戦死していった幾千、幾万もの前途有為な若人たちの白骨が、春風秋雨すでに十数年を経たいまもなお、るいるいとして横たわっていることでしょう。
老い先短い私の切なる願いは、ひとしく神の子である世界の人々が互いに殺し合う戦争という罪悪を、永遠にこの世から消滅させることであります。
そしてこの願いはただ一人でなく、子を、父を、はたまた夫を戦争に失った、みなさまのひとしく叫ばれる悲願であると、私は今、小石が一個入れてある次男の白木の骨箱を涙でふし拝みながら、かたくかたく信じてやみません。
1958(昭和33)年5月24日
平田常子 無職 69歳 福岡県
(110-112ページ)
おはぎ
アズキのいただき物があったので、おはぎを作ることにした。
火ばちの上でグツグツと煮えるアズキをまぜながら、わたしは遠い日の思い出にふけっていると、まぶたが熱くなってまいります。
第二次大戦もたけなわのころでした、次男に教育召集の令状が来たのは。
人一倍陽気な次男は、驚きと悲しみで動てんするわたしに、「なあに、教育召集だから心配することないよ」とかえって慰めるようにいうのでした。
いよいよあすが出発という日、物資不足で砂糖などめったに手に入らない貴重品というころでしたけれど、おはぎの好きな次男のためにあちこちと走り回って、やっとアズキと砂糖を手に入れておはぎを作ったのです。
「うまい、うまい」を連発しておはぎをパクつく次男に「からだに気をつけるのよ」だけしかいえず、あとは不吉な予感が胸を襲い、泣きだしそうになるのをじっとがまんしていました。
戦争の激化とともに、教育召集の期間も終わらないうちに、次男はわたしたちと最後の面会もできず、南方にやられてしまったのです。
それから数年して終戦となり、南方からの帰国船が着くたびに、わたしはイソイソとおはぎを胸にかかえてかけつけるのでしたが、むなしくまたおはぎをかかえて帰るのが常でした。
わらをもつかむ気持ちで、次男の消息を知っている方を広島までたずねて行きますと、次男は特攻隊に志願して戦死したとか。
さらにその方が、「急に日本をたつことになった日、K君の好きなおはぎが出たんですが、さすがにあのときはのどを通らないようでした」といわれたときは、張りつめていた気も抜けてしまって、激しく泣き伏したのでした……。
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でき上がったおはぎを仏壇の桃の花陰にそっと置いて、線香をたいているわたしに、次男の写真が明るく笑いかけていました。
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1960(昭和35)年4月12日
北村貞子 主婦 福岡市
(134-136ページ)
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
『戦争とおはぎとグリンピース』
婦人の新聞投稿欄「紅皿」集
編者: 西日本新聞社
2016年7月25日 第2刷発行
発行所: 西日本新聞社
私は全く戦争を知らない世代ですけれど、こういう手記を読むと、やっぱり悲劇を生む戦争には絶対に反対しなければと思いますわァ~。。。
でもねぇ~、馬鹿な軍人や、丸め込まれてしまう政治家がいて戦争を起こすのですよ。。。
ちょっと信じられませんわ。。。
あのねぇ~、終戦の年の3月に東京に大空襲があったのですよ。。。 ジュンコさんも聞いたことがあるでしょう?
東京大空襲
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東京大空襲は、第二次世界大戦末期にアメリカ軍により行われた、東京都区部に対する焼夷弾を用いた大規模な戦略爆撃の総称。
日本各地に対する日本本土空襲、アメリカ軍による広島・長崎に対する原爆投下、沖縄戦と並んで、都市部を標的とした無差別爆撃によって、民間人に大きな被害を与えた。
東京都は、1944年(昭和19年)11月24日以降、106回の空襲を受けたが、特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回は大規模だった。
その中でも「東京大空襲」と言った場合、死者数が10万人以上の1945年(昭和20年)3月10日の夜間空襲(下町空襲)を指す。
この3月10日の空襲だけで、罹災者は100万人を超えた。
出典: 「東京大空襲」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この大空襲を指揮したのが、あの悪名高いルメイ将軍なのだけれど、戦後になって馬鹿な日本の政治家や愚かな官僚が中心になって、名誉ある日本の賞を与えた。。。
だれが東京大空襲を指揮した男に
勲章を授けたか
3月の声を聞くと、もう20年ほども前になるが、アメリカの航空宇宙博物館に飾られていた下の一枚の賞状が思い出されてくる。
われながら執念深いことと思うが、こればかりはこの世をオサラバするまで永遠に思い起こすことになる。
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ちなみに、総理大臣は佐藤栄作となっているが、実はルメイ将軍に賞を授けることを決定したのは、佐藤の前の池田隼人内閣のときであった。
そして、叙勲に最大尽力したのが、そのときの防衛庁長官の小泉純也、小泉純一郎の親父どのである。
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
178-180ページ 『歴史と戦争』
著者: 半藤一利
2018年3月30日 第1刷発行
発行所: 株式会社 幻冬舎
昭和天皇は親授しなかった
1964年12月7日、日本に返還されたばかりの入間基地(旧・ジョンソン基地)で、勲一等旭日大綬章を浦茂航空幕僚長から授与された。
理由は日本の航空自衛隊育成に協力があったためである。
12月4日の第1次佐藤内閣の閣議で決定された。
叙勲は、浦がルメイを航空自衛隊創立10周年式典に招待したことを発端とした防衛庁の調査、審査に基づく国際慣例による佐藤内閣の決定であることが明かされている。
推薦は防衛庁長官小泉純也と外務大臣椎名悦三郎の連名で行われる。
防衛庁から首相佐藤栄作、賞勲局へ叙勲が適当であるという説明があった。
勲一等旭日章という種類の選定は大将という階級から慣例に基づいたものである。
ルメイが東京大空襲や原爆投下を行った部隊の指揮官だったことから授与に対し批判も大きく、現在でも「勲章は返還するべきである」と唱える者も居る。
当時、日本社会党、原水爆禁止団体、被爆者などから国民感情として納得できないという声が上がった。
国会でも叙勲に対し疑問視する声があった。
東京大空襲や原爆から叙勲は不適切ではないかという質問に佐藤は「今はアメリカと友好関係にあり、功績があるならば過去は過去として功に報いるのが当然、大国の民とはいつまでもとらわれず今後の関係、功績を考えて処置していくべきもの」と答える。
小泉は「功績と戦時の事情は別個に考えるもの。防衛庁の調査でも当時ルメイは原爆投下の直接部隊の責任者ではなく、原爆投下はトルーマン大統領が直接指揮したものである」と説明している。
佐藤もそれらを理由に決定を変える意思はないと表明した。
ルメイは12月7日に防衛庁で小泉を訪問予定であったが、当日は事務次官三輪良雄が代理で面会している。
勲一等の授与は天皇が直接手渡す“親授”が通例であるが、昭和天皇は親授しなかった。
後年『NHK特集 東京大空襲』(1978年3月9日 初回放送)でのNHKの取材で戦争責任についての問いにルメイはその勲章を見せた。
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ジョン・F・ケネディ政権時代の1960年から本格化したベトナム戦争では、空軍参謀総長の任にあり、「(北)ベトナムを石器時代に戻してやる」と豪語し北爆を推進した。
リンドン・B・ジョンソン政権下で1965年2月7日から北爆が開始された。
1965年2月に退役。1968年ベトナム戦争の推進、人種差別的政策を掲げた前アラバマ州知事ジョージ・ウォレス大統領候補とともにアメリカ独立党 (American Independent Party) の副大統領候補として出馬するが落選した。
1970年12月14日テニアンの福祉、生活向上への優れた功績でテニアン島民から表彰状を受賞した。
イギリス首相チャーチルからもらったイギリス空軍殊勲十字章が自慢だった。
デンマン注: 僕はこの人物がケネディ暗殺の黒幕だと信じている!
■『ケネディ暗殺の謎』
出典: 「カーチス・ルメイ」
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あらっ。。。 こういう人物に勲一等旭日大綬章を授与したのですか?
ちょっと信じられないけれど、授与したのですよ。。。 つまり、それほどまでに、アメリカにべったりな政治家や官僚が日本には大勢居るということなのですよ。。。 アメリカの占領はまだ実質的には続いていますからねぇ~。。。
じゃあ、また日本は大きな戦争に巻き込まれるでしょうか?
そうならない事を祈るばかりです。。。
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