母という病(PART 1 OF 3)
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デンマンさん。。。。 オイラをお呼びですか?
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そうだよ。。。 首を長くして待っていたのだよ。
でも。。。、でも。。。、どういうわけでオイラをまた呼び出したのですか?
実は夕べ、バンクーバー市立図書館で借りていた本を読んでいたら次の箇所に出くわしたのだよ。
母性の欠如が生む病
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もう少し年齢が上がり青年期を迎えると、 (略) 良い子の優等生で通し、すべて順調に過ごしてきたように見えている場合であれ、母という病を抱えた人は、新たな危機を迎える。
誰もがこの時期に味わうアイデンティティの危機が、より深刻で困難なものとなりやすいのだ。
自分が自分であるということに不全感を抱き、存在すること自体への不安や空虚感を味わうようになりやすい。
それが、何らかの挫折や愛する人との離別といった傷つく体験をきっかけに悪化し、甚だしく不安定な状態になったのが境界性パーソナリティ障害だ。
境界性パーソナリティ障害は、両極端に変動する気分や対人関係、見捨てられることへの不安や自己否定、自傷行為などの自分を損なう行動を繰り返すことを特徴とするもので、この20年くらい急増している。
境界性パーソナリティ障害の人が、見捨てられることに敏感で、相手に死に物狂いでしがみつこうとすることにも表れているように、その根底には、見捨てられて傷ついた経験がある。
さかのぼっていくと、幼い頃、母親からの愛情を失ったり奪われたことが心の傷になっていることが多い。
それを反映するように、境界性パーソナリティ障害の人は、ほぼ例外なく母親との関係がぎくしゃくし、不安定な愛着スタイルを示す。
(中略)
ところが、当の母親の方は、子どもとの関係は悪くないと思っていることも少なくない。
虐待やネグレクトをした覚えもない。
手塩にかけて育ててきたはずなのにと、怪訝(けげん)な顔をする。
だか、実は子どもの方が母親に合わせていただけだということが多い。
母親に見捨てられないように、子どもは我慢しながら本音も言えず、ただ母親の機嫌を取り、母親が気に入るようなことしか言わなかったのだ。
(中略)
物事がうまくいっているときは、新たな目標や課題に向かって一生懸命取り組むことで、そんな空虚感を忘れていられることもある。
成果も出て自身も高まり、充実感も味わえる。
しかし、壁にぶつかったり目標を見失ったとき、もともと抱えている根源的な不安や満たされない思い、空虚感が一気に強まってしまう。
(中略)
母に無条件に愛されて育った人は、自分やこの世界というものを無条件に信じることができる。
当たり前のものとして感じることができる。
ただ普通にいるだけで、心が満たされ、幸せを感じることができる。
ところが、母という病を抱えた人は、自分やこの世界を無条件に信じることができない。
自分が当たり前にいるということ、そのことにさえ違和感を覚え、不安を感じてしまう。
当たり前の生活さえも、苦しみやつらさ、虚しさや落ち込みとして感じられやすい。
境界性パーソナリティ障害では、そうした困難がもっとも顕著な形で見られる。
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
121-125 ページ 『母という病』
著者: 岡田尊司
2014年1月7日 初版発行
発行所: 株式会社 ポプラ社
境界性パーソナリティ障害の判断基準
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■ 対人関係が不安定だ。
理想化とこき下ろしの両極端を揺れ動く。
■ 衝動性が強い。浪費、薬物乱用、過食、無謀運転、
見境なしのセックスなどに陥る。
衝動的に不倫に走ったりする。
■ 感情が不安定だ。
強い不快、イライラ、不安などに悩まされる。
■ 自分ではコントロールできない
不適切なほどの強い怒りが起こる。
■ 自殺の振る舞いや自傷行為などを繰り返す。
■ 自分自身に対するイメージが不安定。
自己同一性の顕著な混乱が見られる。
■ 慢性的な空虚感、退屈さがある。
■ 見捨てられる不安とそれを避けようとする
行為を繰り返す。
■ 妄想観念や解離性障害
(記憶喪失や現実感の喪失など)がある。
上の9つの項目のうち、5つ以上当てはまると
境界性パーソナリティ障害と診断される可能性が高い。
『ボダとキレた老人』より
(2016年5月10日)
つまり。。。、つまり。。。、オイラも“母という病”を患(わずら)っている、とデンマンさんは断定するのですか?
いや。。。、僕が断定しているのじゃなく、オマエが上の文章を読んでそう感じたのじゃないかア!
いいえ。。。 オイラは“母という病”なんかに罹(かか)ってません!。。。 だいたい、精神科の医者でもないのに、デンマンさんは勝手に決め付けないでください。
僕は別に、精神科の医者になったつもりで診断しているわけじゃない! 夕べ、上の本を読んでいたら、オマエのことが書いてある本だと実感したのだよ!
それは。。。、それは。。。、デンマンさんの極めて個人的な感じ方なのですよ!
いや。。。 決してそうじゃないと思うから、オマエをこうして呼び出したのだよ。
しかし。。。、しかし。。。、オイラが“母という病”を患(わずら)っている、という証拠も無しにデンマンさんが、こうして誹謗中傷の文章を書くということは、絶対に許されることではありません。
あのさァ~、ちゃんと証拠はあるのだよ。。。 オマエ自身が書いている告白の文章に、オマエが“母という病”を患(わずら)っていることが はっきりと表れている。。。 ここに、その文章を引用するから、オマエもじっくりと読んでみたらいいよ。
私は、この曲集を書き終えたとき、老人見習いから、正真正銘の老人になるのではないか、と思うこの頃である。
真の老人とは、もはや、失うべき何ものも無くなった人のことを言うのではないか。
長女は、私から去った。
次女は、中立を保つ為に、この家に寄りつかない。
家内と言えば、日本語も通じなくなってから何年にもなる。
私には、S.Kierkegaard の言った、一番易しく一番難しいこと、すべてを捨てること、が、案外、無理なくできるのではないか。
いや、その時には、捨てるべき何ものも見当たらなくなった境地であろう。
その意味では、老人になる前に、不慮の死で亡くなった人は気の毒である。
私は、若い時に、死ぬのはいいが風邪をひくのは嫌だ、などと言って、粋がって与太をほざいていた。
今も、願わくは、あまり苦しむことなく死を迎えられたなら、それにこしたことはない、と考えている。
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Kierkegaard は、また、永遠とは有限が無限に出会う瞬間である、と言っていた。
私の人生に、かつて、そのような瞬間があったであろうか。
いや、それもまた、超越の命題であろう。
私の人生は、無明に迷ったそれに終わるのかもしれない。
しかし、私の背後には、母の祈りがあった。
ある麻薬中毒患者が、お母さん、僕は、こんな遠くまで来てしまった、と淋しげに呟いていたが、私は、麻薬中毒者ではないけれど、その気持ちが解かっている、と思う。
どのみち、人生は、rehearsal無しの、ぶっつけ本番なのである。
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しかし、私は、F.M.Dostoevsky の「白痴」にある、あの「イッポリトの告白」に書かれているように、もし、生まれる前に、この条件を知らされていたとしたならば、私は、生まれるてくることを肯(がえ)んじなかったであろう、とは思っていない。
私は、感謝して死ねるように、今からでも、心の準備をしておこう。
S.D.G
コーダ(蛇足):
私の懐疑なるものが、深いのか、深くないのか、私自身も知る由もない。
仮に、深かったとしても、そもそも、懐疑の深さというものは、誇るべきものであるのか、という疑問が残る。
【デンマン注:】 改行を加え読み易くしました。あしからず。
S.Kierkegaard: キルケゴール (1813-1855) デンマークの哲学者
S.D.G.: Soli Deo Gloria (ラテン語) To God Alone the Glory(英語) 神に栄光あれ。
F.M.Dostoevsky: ドストエフスキー (1821-1881) ロシアの小説家・思想家
56ページ Michel-Richard de Lalande
『後奏曲集(後書きばかり)』 作品3
著者: 太田将宏
初版: 1994年1月 改定: 2006年9月
『馬鹿やって人気?』にも掲載
(2015年8月18日)
オマエは次のように告白しているのだよ。
私の人生は、無明に迷った
それに終わるのかもしれない。
しかし、私の背後には、母の祈りがあった。
ある麻薬中毒患者が、
お母さん、僕は、こんな遠くまで来てしまった、
と淋しげに呟いていたが、
私は、麻薬中毒者ではないけれど、
その気持ちが解かっている、と思う。
どうしてこの文章が オイラが“母という病”を患(わずら)っている、という証拠になるのですか?
あのさァ~、オマエは「お母さん、僕は、こんな遠くまで来てしまった、と淋しげに呟いていたが、私は、麻薬中毒者ではないけれど、その気持ちが解かっている、と思う」と告白している。。。 つまり、相手に死に物狂いでしがみつこうとすることにも表れているように、その根底には、見捨てられて傷ついた経験がある。 さかのぼっていくと、幼い頃、母親からの愛情を失ったり奪われたことが心の傷になっているから、オマエは母から遠く離れて こんなに遠くまで来てしまった人物の気持ちに共感できるのだよ。
しかし。。。、しかし。。。、オイラは相手に死に物狂いでしがみつこうなどとはしていません!
しているのだよ!
その証拠でもあるのですか?
あるから、オマエをこうして呼び出したのだよ!
じゃあ。。。、じゃあ。。。、余計な事は言わなくてもいいですから、細木数子のようにズバリ!とその証拠を見せてください。
オマエが そう言うのだったらまず次のリストを見て欲しい。
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■『拡大する』
■『エロいローマ再び(PART 2 OF 3)』
■『悪縁を断つ(PART 1 OF 4)』
■『レモンと孤独な老人(PART 1 OF 3)』
■『失意の太田将宏』
■『孤独で寂しい太田将宏(PART 1 OF 3)』
■『相変わらず馬鹿か?(PART 1)』
オマエは、昨日、5月28日 こうして GOO のブログに 相変わらず3人に成りすまして 愚かな同じ内容のコメントをきりもなく書き込んだ。。。
だから、どうだとデンマンさんは言うのですか?
あのさァ~、5月28日にオマエがコメントを書き込んだのは GOO の僕のブログだけではないのだよ! 次のリストも見てごらんよ!
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■『拡大する』
■『人類は滅びる!』
オマエは、こうしてアメブロの僕のブログにもコメントを書き込んだのだよ! 更に、オマエは Denman Blog にも同じ内容の愚かなコメントを書き込んだのだよ!
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■『拡大する』
■『相変わらず馬鹿か?』
■『5月のバレンタイン』
■『カレーライス@パリ』
つまり、手塩にかけて育てた実の娘二人に見捨てられ、心優しい妻にも見捨てられた寂しい孤独な70過ぎた老人のオマエは、これ以上 見捨てられないように相手に死に物狂いでしがみつこうとしているのだよ。
オイラが デンマンさんに見捨てられないように相手に死に物狂いでしがみつこうとしている、とデンマンさんは真面目に言うのですか?
そうだよ!
きゃははははは。。。 笑わせないでくださいよ! オイラがデンマンさんに死に物狂いでしがみつく理由がないじゃありませんか!
あるだろう!。。。 オマエは誰にも相手にされないので、僕に相手になって欲しいのだよ! オマエは僕が“仏のデンマン”であることを十分に知っている!
マジで。。。?
僕がオマエのコメントに返信したのを オマエは喜んでスキップしながら読んだのだよ!
(すぐ下のページへ続く)