坂本龍馬は流れ者か?(PART 1)
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神話化されたキャラクター
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NHKの大河ドラマ『龍馬伝』が放映されるまで、龍馬が「実際に何をした人物なのか」、ほとんどの日本人はよく知らなかったのではないだろうか。
大河ドラマは歴史にもとづいたかたちをとりながらも、あくまで創作ドラマである。
だが、このようなメディアで印象づけられた人物イメージは、それまで実像を知らなかった人々が漠然と抱いていたイメージと共振すると、それが「事実」のように定着していく。
もともと坂本龍馬が「維新の功労者」であるという従来のイメージ自体が、ここまでに指摘してきたようにつくられた物語だった。
明治維新以後の近代化を肯定するために、むりやり神話化された幻想の人物像が、近代に入って独り歩きしたと言っていいかもしれない。
この龍馬神話の元をつくったのは、明治政府の要人として重要な役割を果たした板垣退助だった。
彼は、明治になってから、同郷の龍馬を「豪放磊落、到底吏人たるべからず、龍馬もし不惑の寿を得たらんには、恐らく薩摩の五代才助、土佐の岩崎弥太郎たるべけん」と惜しみ、1915年、高知の桂浜に「坂本龍馬先生彰勲碑」を建てたが、そこには板垣の撰文が刻まれている。
また、岩倉具視という説もある。
板垣と岩倉は、維新後、李氏朝鮮への侵攻をめぐって争ったことで有名だが、その二人がともに「龍馬神話」の創作、宣伝を意図していたということは、当時いずれの立場でも、明治維新後の近代化を肯定するためには、江戸時代の封建制を徹底的に否定する必要があったことを裏づけているといえよう。
また、田中光顕もも龍馬神話の創出にかかわったという説もある。
いずれにせよ坂本龍馬は明治時代に「つくられた英雄」であったようだ。
このため、実際には当時も今も不明のままだった龍馬殺しの犯人を、まずは当時もっとも順当とされた「新撰組」の犯行であるという説を否定し、明治政府の公文書では、京都見廻り組と断定することで、龍馬の英雄性はより強化された。
幕府側が封建制を打破しようとした英雄を卑怯な仕方で殺害したことを強調し、それによって「坂本龍馬」の英雄的イメージがより強化されたのである。
(中略)
ぼくは、坂本龍馬がしばしば訪れていたいう場所をいくつか訪ねてみた。
京都三条河原町の「池田屋」はすでにビルに建て替えられ記念碑が残っているだけだが、伏見の「寺田屋」の部屋にはまだ刀傷が残ったままになっている。
さらに、長崎の丸山遊郭の料亭「花月」の部屋にも、先に述べたように刀傷が残されていた。
京都の三条龍馬通、河原町と木屋町の間にある材木商「酢屋」は、龍馬をかくまっていたことで有名であるが、先代の女主人の話では、当時、龍馬はピストルを常に持ち歩き、店の二階から発射練習をしていたという。 (略)
つまり、権力を上手に利用し、商才にたけた流れ者が、その遊興ぶりにつられた悪友たちとともに料亭を渡り歩き、遊びまわっていた姿が浮かび上がる。
そして、しばしば突然キレて、周囲の迷惑もかえりみず、刀や鉄砲を振り回す暴れん坊だったとも言える。
彼が中心になって結成した海援隊にしても、一攫千金を夢見た日本最初の武器商人であり、本当に近代的な商社をめざそうと考えていたのか、はなはだ疑問に思える。
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
136-141 ページ
『江戸<メディア表象>論』
著者: 奥野卓司
2014年5月29日 初版第1刷発行
発行所: 株式会社 岩波書店
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デンマンさん。。。 今日は坂本龍馬のお話でござ~ますかァ~?
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いけませんか?
だってぇ~、坂本龍馬のことはテレビや映画で嫌と言うほど取り上げられましたわァ~。。。
卑弥子さんもNHKの大河ドラマで『龍馬伝』を観たのですか?
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もちろんですわァ~。。。 毎週、楽しみにしながら観ましたわァ~。。。 あたくしは龍馬に扮した福山雅治の熱烈なファンになりましたァ。。。 あのような殿方と今年 結婚できればと思いながら観たのですわァ~。。。 うふふふふふふ。。。
卑弥子さん。。。 卑弥子さん。。。 ヨダレが垂れてますよ。。。 僕しか見えないからいいけれど。。。、きれいなオべべが濡れてますよう。 (微笑)
そのような事はデンマンさんが黙っていれば、誰にも分からないでござ~ますわァ~。。。 んもおおおォ~。。。
とにかく、卑弥子さんが『龍馬伝』を観たのならば、話は早いですよ。。。 上の本の著者は次のように言ってるのですよ。
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権力を上手に利用し、商才にたけた流れ者が、その遊興ぶりにつられた悪友たちとともに料亭を渡り歩き、遊びまわっていた姿が浮かび上がる。
そして、しばしば突然キレて、周囲の迷惑もかえりみず、刀や鉄砲を振り回す暴れん坊だったとも言える。
彼が中心になって結成した海援隊にしても、一攫千金を夢見た日本最初の武器商人であり、本当に近代的な商社をめざそうと考えていたのか、はなはだ疑問に思える。
デンマンさんは著者の意見に不満なのでござ~ますか?
確かに、坂本龍馬という人物については いろいろな解釈ができるかもしれないけれど、歴史を素直にたどってみれば もっと坂本龍馬にふさわしい人物像が見えてくるのですよ。。。 “流れ者”だとか“暴れん坊”だとか“武器商人”だとか。。。 そういう言葉は坂本龍馬にはふさわしくないのです。
つまり。。。、つまり。。。、デンマンさんは坂本龍馬の熱烈なファンなのですわねぇ~。。。!?
いや。。。 僕は卑弥子さんのようにヨダレをたらしながら話をするほどの熱烈な龍馬ファンではありません。。。 むしろ、志半(こころざしなか)ばで暗殺された龍馬を可哀想だという思いの方が強いのですよ。
確かに、満31歳の短い生涯を終えることになったのですから、本人に言わせれば無念だったでしょうねぇ~。。。
そうですよ。。。
。。。で、デンマンさんは上の著者の意見のどこに反発を感じるのでござ~ますか?
まず、卑弥子さんも次の龍馬の略歴を読んでみてください。
坂本龍馬
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天保6年11月15日(新暦・1836年1月3日) - 慶応3年11月15日(新暦・1867年12月10日)
坂本龍馬(さかもと りょうま)は、江戸時代末期の志士、土佐藩郷士。
諱は直陰(なおかげ)、のちに直柔(なおなり)。通称は龍馬。
土佐郷士株を持つ裕福な商家に生まれ、脱藩した後は志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)を結成した。
薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど倒幕および明治維新に影響を与えるなど、重要な働きをした。
大政奉還成立の1ヶ月後に近江屋事件で暗殺された。
1891年(明治24年)4月8日、正四位を追贈される。
勝海舟との出会い
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龍馬と千葉重太郎が開国論者の海舟を斬るために訪れたが、逆に世界情勢と海軍の必要性を説かれた龍馬が大いに感服し、己の固陋を恥じてその場で海舟の弟子になったという話が広く知られており、この話は海舟本人が明治23年に『追賛一話』で語ったものが出典である。
だが、春嶽から正式な紹介状を受けての訪問であること、また海舟の日記に記載されている12月29日の千葉重太郎の訪問時には既に龍馬は弟子であった可能性があることから、近年では前述の龍馬と海舟との劇的な出会の話は海舟の誇張、または記憶違いであるとする見方が強い。
いずれにせよ、龍馬が海舟に心服していたことは姉乙女への手紙で海舟を「日本第一の人物」と称賛していることによく現れている。
龍馬は海舟が進めていた海軍操練所設立のために奔走し、土佐藩出身者の千屋寅之助・新宮馬之助・望月亀弥太・近藤長次郎・沢村惣之丞・高松太郎・安岡金馬らが海舟の門人に加わっている。
また、龍馬が土佐勤王党の岡田以蔵を海舟の京都での護衛役にし、海舟が路上で3人の浪士に襲われた際に以蔵がこれを一刀のもとに斬り捨てた事件はこの頃のことである。
5月17日付の姉乙女への手紙で「この頃は軍学者勝麟太郎大先生の門人になり、ことの外かわいがられ候・・・すこしエヘンに顔をし、ひそかにおり申し候。エヘン、エヘン」と近況を知らせている。
船中八策と大政奉還
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いろは丸事件の談判を終えた龍馬と後藤象二郎は慶応3年(1867年)6月9日に藩船「夕顔丸」に乗船して長崎を発ち兵庫へ向かった。
京都では将軍・徳川慶喜および島津久光・伊達宗城・松平春嶽・山内容堂による四侯会議が開かれており、後藤は山内容堂に京都へ呼ばれていた。
龍馬は「夕顔丸」船内で政治綱領を後藤に“船中八策”を提示した。
1.大政奉還 2.議会開設 3.官制改革 4.条約改正 5.憲法制定 6.海軍の創設 7.陸軍の創設 8.通貨政策
長岡謙吉が筆記したこれは、後に成立した維新政府の綱領の実質的な原本となった。
龍馬の提示を受けた後藤は直ちに京都へ出向し、建白書の形式で山内容堂へ上書しようとしたが、この時既に中岡慎太郎の仲介によって乾退助、毛利恭助、谷干城らが薩摩の西郷隆盛、吉井友実、小松帯刀らと薩土討幕の密約を結び、翌日容堂はこれを承認した上で、乾らと共に大坂で武器300挺の買い付けを指示して土佐に帰藩していた。
この為、大坂で藩重臣と協議してこれを藩論となした。
次いで後藤は6月22日に薩摩藩と会合を持ち薩摩側は西郷隆盛・小松帯刀・大久保利通、土佐側からは坂本龍馬・中岡慎太郎・後藤象二郎・福岡孝弟・寺村左膳・真辺正心(栄三郎)が代表となり、船中八策に基づいた王政復古を目標となす薩土盟約が成立した。
後藤は薩摩と密約を成立させる一方で、土佐に帰って容堂に上書を行い、これから程ない6月26日、芸州藩が加わって薩土芸盟約が成立した。
後藤は9月2日に京都へ戻ったが、イカロス号事件の処理に時間がかかったことと薩土両藩の思惑の違いから、9月7日に薩土盟約は解消してしまった。
その後、薩摩は討幕の準備を進めることになる。
事件の処理を終えた龍馬は新式小銃1,000余挺を船に積んで土佐へ運び、9月23日、5年半ぶりに故郷の土を踏み家族と再会した。
10月9日に龍馬は入京し、この間、容堂の同意を受けた後藤が10月3日に二条城に登城して、容堂、後藤、寺村、福岡、神山左多衛の連名で老中・板倉勝静に大政奉還建白書を提出し、幕府が時勢に従い政権を朝廷に奉還することを提案していた。
慶喜がこの建白を受け入れるか否かは不明確で、龍馬は後藤に「建白が受け入れられない場合は、あなたはその場で切腹する覚悟でしょうから、後下城なき時は、海援隊同志とともに慶喜を路上で待ち受けて仇を討ちます。地下で相まみえましょう」と激しい内容の手紙を送っている。
一方、将軍・徳川慶喜は10月13日に二条城で後藤を含む諸藩重臣に大政奉還を諮問。
翌14日に明治天皇に上奏。
15日に勅許が下された。
この大政奉還・上奏の直前(10月14日)に討幕の密勅が薩摩と長州に下されていた。
大政奉還の成立によって討幕の大義名分が失われ、21日に討幕実行延期を命じられている。
展望が見えた龍馬は10月16日に戸田雅楽(尾崎三良)と新政府職制案の「新官制擬定書」を策定した。
龍馬が西郷に見せた新政府職制案の名簿に西郷の名はあるのに龍馬の名が欠けていて、新政府に入ってはどうかと勧めると龍馬は「わしは世界の海援隊をやります」と答えたという有名な逸話がある。
だが、尾崎の史料には龍馬の名は参議候補者として記載されており、この逸話は大正3年に書かれた千頭清臣作の『坂本龍馬』が出典の創作の可能性がある。
しかしながら、龍馬本人は役人になるのは嫌とお龍に語ったとされ、11月の陸奥への手紙には「世界の話もできるようになる」ともあり尾崎の案と西郷に見せたものは違う名簿という可能性なども考えられる。
尾崎の手控とされる資料は数種あり、参議の項に坂本の名の有無、大臣の項に慶喜の名の有無などの違いが指摘されている。
暗殺
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後藤象二郎の依頼で、慶応3年10月24日に越前へ出向き、松平春嶽の上京を促して三岡八郎と会談した後、11月5日に帰京した。
11月15日、龍馬は宿にしていた河原町の蛸薬師で醤油商を営む近江屋新助宅母屋の二階にいた。
当日は陸援隊の中岡慎太郎や土佐藩士の岡本健三郎、画家の淡海槐堂などの訪問を受けている。
午後8時頃、龍馬と中岡が話していたところ、十津川郷士と名乗る男達数人が来訪し面会を求めて来た。
従僕の藤吉が取り次いだところで、来訪者はそのまま二階に上がって藤吉を斬り、龍馬たちのいる部屋に押し入った。
龍馬達は帯刀しておらず、龍馬はまず額を深く斬られ、その他数か所を斬られて、ほとんど即死に近い形で殺害された。
享年33(満31歳没)。
当初は新選組の関与が強く疑われた。
また、海援隊士たちは紀州藩による、いろは丸事件の報復を疑い、12月6日に陸奥陽之助らが紀州藩御用人・三浦休太郎を襲撃して、三浦の護衛に当たっていた新選組と斬り合いになっている(天満屋事件)。
慶応4年(1868年)4月に下総国流山で出頭し捕縛された新選組局長・近藤勇は土佐藩士の強い主張によって斬首に処された。
また、新選組に所属していた大石鍬次郎は龍馬殺害の疑いで捕縛され拷問の末に自らが龍馬を殺害したと自白するも、後に撤回している。
明治3年(1870年)、箱館戦争で降伏し捕虜になった元見廻組の今井信郎が、取り調べ最中に、与頭・佐々木只三郎とその部下6人(今井信郎・渡辺吉太郎・高橋安次郎・桂隼之助・土肥伴蔵・桜井大三郎)が坂本龍馬を殺害したと供述し、これが現在では定説になっている。
その一方で、薩摩藩黒幕説やフリーメイソン陰謀説まで様々な異説が生まれ現在まで取り沙汰されている。
出典: 「坂本龍馬」
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