ロマンの昔話(PART 1 OF 3)
![](http://livedoor.blogimg.jp/barclay1720/imgs/4/7/475f09a6.jpg)
(4lies.jpg)
![](http://livedoor.blogimg.jp/barclay1720/imgs/e/d/edd7d7e2.jpg)
(sara02.jpg)
![](http://livedoor.blogimg.jp/barclay1720/imgs/a/1/a12b7864.jpg)
(yang04.jpg)
![](http://livedoor.blogimg.jp/barclay1720/imgs/6/0/6092d828.jpg)
(salon22.jpg)
![](http://livedoor.blogimg.jp/barclay1720/imgs/b/f/bf3e5274.gif)
(sayuri55.gif)
デンマンさん。。。 どういうわけで“ロマンの昔話”というタイトルにしたのですか?
![](http://livedoor.blogimg.jp/barclay1720/imgs/1/3/137892ff.gif)
(kato3.gif)
実は夕べ、バンクーバー市立図書館で借りていた本を読んでいたら次の箇所に出くわしたのですよ。
墨田の渡し
![](http://livedoor.blogimg.jp/barclay1720/imgs/f/4/f4916f1d.gif)
(sumida01.gif)
古代には関東から奥州を往来するには、この隅田川上流北端のところが交通の要所で、河水の難所でもあった。
そここに水神を祀ったのはその意味からだった。
この流域には、ヤマトタケル伝説から流罪となった平安貴族や、「更級日記」を書いた菅原孝標の女(すがわらたかすえのむすめ)、また源頼朝と関東武士や真言と天台僧たちの足跡が残っていて、だれもがここを通過しなくてはならなかった。
業平が川を渡って名高い言問いの歌を詠んだのは、じつは言問橋がかかるところではなくこの地であり、橋の名は後から付けられたものだ。
(中略)
梅若伝説 その哀しみの岸辺
春の墨田の渡しで、塗り笠ををかぶって笹を手にした狂女が船に乗る。
東岸には大勢のひとが集まっている。
何事かとたずねる乗客に渡し守が、ちょうど昨年の今日、人買いに連れられみちのくへ下っていく12,3歳の少年が行き倒れ、ここに柳を植えて葬られたという。
それを聞いた狂女は、それこそ都・北白河の吉田の某(なにがし)の一子、わが子の梅若だと気がつく……
伝説によると梅若は吉田少将惟房(これふさ)の子で、信夫の藤太に買われ、捜し求めた末に母は狂ったのだった。
梅若は「たずねきて問わばこたえよ都鳥 隅田川原の露と消えぬ」と詠んで息絶えた。
能の名作「隅田川」ではシテの狂女は、“深井”とよばれる老いはじめた中年女性の面(おもて)をつけて舞う。
![](http://livedoor.blogimg.jp/barclay1720/imgs/a/d/ada57a96.jpg)
(fukai01.jpg)
この梅若の塚を守るために建てられた木母寺(もくぼじ)は、墨田神社の北に隣接している。
<iframe width="420" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/_1t84-9Hwkk" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
163-165 ページ
『スカイツリー下町歴史の散歩道』
著者: 東京遊歩連
2012年12月10日 初版第1刷発行
発行所: 株式会社 山川出版社
![](http://livedoor.blogimg.jp/barclay1720/imgs/b/f/bf3e5274.gif)
あれっ。。。 『スカイツリー下町歴史の散歩道』という本があるのですか?。。。 私もスカイツリーの近辺を散歩しようと思っていましたわ。。。
![](http://livedoor.blogimg.jp/barclay1720/imgs/1/3/137892ff.gif)
マジで。。。? 僕が本を引用したので、取ってつけたようにスカイツリーの近辺を散歩したいと思ったのではありませんか?
そんな事はありませんわァ~。。。 お台場へは三男とよく出かけるのですけれど、何度も何度も足を運ぶのはつまらないし、最近 次はどこか他の所へ行こうと。。。 それでスカイツリーの近辺でも散策するのも面白いかと。。。 そう思っていたところですわァ~。。。
そうですかァ。。。 それは ちょうどよかったですねぇ~。。。
以心伝心ですわねぇ~。。。 うふふふふふふ。。。 で、どのようなロマンの昔話を聞かせてくれるのですか?
小百合さんは何か思い当たることはありませんか?
いいえ。。。
あのねぇ~、実は 以前にも『愛とロマンの昔話』という記事を書いたことがあるのですよ。
私のことが その記事の中に出てくるのですか?
そうなのです。。。 卑弥子さんと語り合っているのだけれど、その一部を取り出すので ちょっと読んでみてください。
13歳の少女と「武士」の出会い
![](http://livedoor.blogimg.jp/barclay1720/imgs/c/e/ce3bb977.gif)
(kiyomasa.gif)
旅の始まりで『更級日記』にふれます。
父の任地である東国で生まれた13歳の少女が、任期が満ちて京に帰る父に連れられて草深い武蔵野国を通ったのは寛仁四(1020)年のことでした。
たまたま望見した名も知らぬ人物について書き記します。
「馬に騎りて弓持(もち)たる」人物についてです。
広々とした空の下、馬に乗った武人はやがて草むらに消えて行きます。
点景のように草原に現れたこの人物のことを彼女が書きとどめたのは、よほどそのときの光景があざやかだったからに違いありません。
![](http://livedoor.blogimg.jp/barclay1720/imgs/e/d/edd7d7e2.jpg)
(sara02.jpg)
さりげなく書かれたこの一節が司馬さんの記憶に止まります。
そしてその時代から一挙に時間を360年ほど溯(さかのぼ)ります。
それより360年前の西暦663年。
朝鮮半島。
百済(くだら)が滅亡の危機に瀕(ひん)していました。
百済の救援に向かった約二万七千の日本軍は白村江(はくすきのえ)の海戦で大敗北。敗戦の混乱の中で多くの百済遺民を伴って帰国します。
百済人は長年、ツングース系の高句麗騎兵と戦っており、騎射に長じていました。
司馬さんの想像力は、少女が見た「馬に騎りて弓持たる」人物が、土着人と混血した360年後の百済人の子孫ではないかと見るのです。当時、武蔵野には二千余人の百済人が移住し、土着しました。
そして、中国的な国家の「かたち」である律令制を倒し、1192年に鎌倉幕府という日本的な政権を作った新興勢力である坂東(ばんどう)武士団とは、この人たちの後裔(こうえい)ではないかと考えるのです。
「この集団が、日本史上、われわれが誇る、最も典型的な日本人集団とされる坂東武者に変わってゆくことを思うと、東アジアの人間の交流や、文化の発生にかぎりないおもしろさを覚える。」(『街道をゆく』1)
日本人の原型体質とは、坂東武士団の中から結晶のように煮詰って現われ出た生き方であり、その広がりはアジア的スケールを持っていたかもしれないのです。
かれら坂東武士団のモラルこそ、「名こそ惜しけれ」でした。「坂東」とは箱根の東ということです。
(84-87ページ) 『司馬遼太郎の「武士道」』
著者・石原靖久 発行・平凡社
2004年8月25日 初版第一刷発行
『愛とロマンの昔話』に掲載
(2014年11月17日)
![](http://livedoor.blogimg.jp/barclay1720/imgs/b/f/bf3e5274.gif)
つまり、『更級日記』を書いた菅原孝標の女(すがわらたかすえのむすめ)が“墨田の渡し”を通ったことが『スカイツリー下町歴史の散歩道』に出てきたので、『愛とロマンの昔話』という記事を書いたことを思い出したのですか?
![](http://livedoor.blogimg.jp/barclay1720/imgs/1/3/137892ff.gif)
そういうことですよ。。。
。。。で、私も その記事の中に出てくるのですか?
そうです。。。 だから、今日 小百合さんを呼び出したわけです。。。 その部分を読んでみてください。
(すぐ下のページへ続く)