愛はスミレの花よ (PART 1 OF 3)

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デンマンさん、お久しぶりですねぇ~。。。 何で急にあたしを呼び出したのですか?

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あのねぇ~、今日は、めれげさんじゃなく、どうしてもレンゲさんじゃなくてはならないのですよ。。。
どうしてですか?
それを説明すると、ちょっと長くなるのだけれど、辛抱して聞いてください。。。 まず次のリストを見てください。

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■『拡大する』

これはライブドアの僕の『徒然ブログ』の5月1日から15日までの約2週間の「人気検索キーワード」のリストですよ。。。

あらっ。。。 1番人気は「加藤清正 子孫」なのですわねぇ~。。。 確か、デンマンさんの姓は“加藤”ですわよねぇ~。。。 もしかして。。。、もしかして。。。、デンマンさんは加藤清正の子孫なのですかァ~?
あのねぇ~、その事についてはすでに記事に書いたのですよ。

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■『加藤清正ブーム?』

今日は、この記事のことではないのですよ。

でも。。。、でも。。。、デンマンさんが加藤清正の子孫だなんて知りませんでしたわァ~。。。
いや、僕は直系の子孫ではありませんよ。。。 とにかく、レンゲさんを呼び出したのは、加藤清正のことじゃないのですよ。。。 わき道へそれると、さらに記事が長くなるので、レンゲさんが興味があるのならば、この対談が終わってから上のリンクをクリックして読んでみてねぇ~。。。
。。。じゃあ、もしかして赤枠で囲んだ2番目の人気キーワードの事で あたしを呼び出したのですか?
その通りですよ。
つまり、「大宮五郎」で検索してデンマンさんのブログにやって来たネット市民が2番目に多いのですわねぇ~。。。 でも、「大宮五郎」というのは、最近人気が出てきた男性歌手なのですか? あたしは“野口五郎”は知ってますけれど、「大宮五郎」という歌手の名前は聞いたことがありませんわァ。

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レンゲさんも、ずいぶんと古いことを言いますねぇ~。。。 “野口五郎”は確かに若い頃はアイドル歌手だったようだけれど、「大宮五郎」というのは芸能界の人物ではないのですよ。。。 レンゲさんは忘れてしまったのですか?

あらっ。。。 「大宮五郎」さんという人は、あたしの知り合いの人なのですか?
レンゲさんが直接出会った人ではないけれど、レンゲさんも知っているはずですよ。
心当たりがありませんわァ~。。。
じゃあ、次の検索結果を見てください。

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■『現時点での検索結果』

「大宮五郎」を入れてGOOGLEで検索してみたのですよ。 赤枠で囲んだ2番目のタイトルに注目してください。

『愛はスミレの花のごとく』という記事はデンマンさんが 2006年4月17日にライブドアの『徒然ブログ』に投稿した記事ではありませんか!

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■『愛はスミレの花のごとく』

もう10年前の記事ではありませんか!。。。 ずいぶん昔ですわ。。。 ネットで3年は一昔ですから、もう大昔のことではありませんかァ~。。。 でも、少し思い出してきましたわァ。。。 確か、“阿部定事件”に出てくる人物ですよねぇ~。。。

思い出してくれましたか。。。 レンゲさんが思い出してくれないと話になりませんからねぇ~。。。 記事の中では次のようにして出てくるのですよ。
定さんの後半生
前代未聞の阿部定事件が発覚すると、それは野火のように瞬く間に日本全国、津々浦々まで広がる勢いを示した。
各新聞は一斉に号外を出して「阿部定逮捕」を報じた。
このとき、国会では2つの委員会が開かれていた。
ところがこの号外を耳にした委員長は緊急動機を発令し会議を中断するほどだった。
委員会の全員が号外を手にして、それこそ世界大戦争が始まったかと思うほどに、血眼(ちまなこ)になって号外を読み耽った。
当然の事ながら阿部定さんが異常性欲の持ち主だと言う事が噂され、この種の噂は後を絶たない。
定さんと関係した男たちは、彼女がオーガズムに達すると体が震え出し、それから1時間近く失神していたと証言した。
中京商業高校の校長の大宮五郎先生は、最初に定さんと関係したとき、欲情した彼女の淫水が多いことに驚いて、病気ではないかと思ったと述べている。

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大宮五郎先生
定さんの精神鑑定をした東京帝国大学の村松常雄教授は、彼女を先天的なニンフォマニア(nymphomania:淫乱症)と診断した。
大宮先生はこの事件のために失職したと書いてある記事が多いが予審調書には事件発覚前に辞めたと、次のように記述されている。

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今日やっと校長を辞めたので今までに一番気持ち良くお前に会っているのだと言いました。
私は何も知らない先生の朗らかな気持ちを考え一層申訳なく泣きましたが、久し振りで私と会った先生の気持ちを察して慰めるために、とにかく寝ましょうと言い、宿の人に布団を敷いてもらい。。。先生と寝ました。”
定さんと石田吉蔵さんが過ごした東京都荒川区の待合「満佐喜(まさき)」と定さんが逮捕された高輪南町の旅館「品川館」は事件後に大繁盛した。

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石田吉蔵さん
ところで、「品川駅前の旅館」あるいは「品川区の旅館」と書いてあるものがあるけれど、品川駅の前は港区高輪なのである。
品川駅は品川区の隣の港区にある。品川館は品川駅前にあったが品川区ではない。
「満佐喜」では事件のあった部屋に2人の写真を飾り、2人が使ったドテラや読んでいた『主婦の友』(1917年[大正6年]創刊)まで展示した。
「品川館」では定が泊まった部屋を逮捕時のまま保存し、旅館の主人はスクラップブック片手に、熱弁をふるってその夜の定を無声映画の弁士のように語ったと言う。
また、逮捕前日に定さんに呼ばれて体をもんだマッサージ師は新聞社や雑誌社の取材謝礼でマイホームを新築した。
定さんはこう言ったという。
「あんた、新聞読んだ? わたし怖いので見出しだけしか見なかったので、聞かしてちょうだい」
これを受けて、マッサージ師が下腹部を切った話しをすると、ニヤッと笑った様子がさも満足そうなので、ぞっとしたと言う。
阿部定事件はバスガイドにまで影響を与えた。
大阪のバスガイドの組合が会社に対して、「切符を切らせてもらいます」という言葉を変えて欲しいと申し出た。
大きい声で「切らせてもらいま~す」と言うと、客が一斉に笑い出す。それが恥ずかしくて耐えられないのだと言う。
昭和11(1936)年11月25日、東京地裁1号法廷で第1回公判が開かれた。
傍聴者は前夜から押しかけて列をつくり、やむを得ず、裁判所は午前9時開廷のところ、午前5時に入廷させた。
昭和11年12月21日、東京地裁は、定さんに対して懲役6年という軽い刑を言い渡した。
定も検事も控訴せず、刑が確定した。
定さんは栃木刑務所で服役した。
刑務所における定さんは模範囚で、普通の女囚が1日に1320枚ずつこなすセロハンの紙細工を2300枚ずつ、ほとんど2人分消化した。
定さんの人気は刑務所収容後もいっこうに衰えず、刑務所に送られてきた定さんへの結婚申し込みは400通以上、
出所後は1万円(当時で約1600万円)でスカウトしたいと申し込んできたカフェーが2つ、映画会社がひとつあった。
なかには定さんが所外作業か何かで外に出て来るかもしれないと期待して刑務所の門前に弁当持参で来る常連もいた。
定さんが予審判事に対して供述した調書が外部に持ち出され、印刷されて非公然に売買された地下出版本があった。
警察がその一部を押収して調書原本と照合したところ、内容が完全に同一であることが判明し、ますます値が上がった。
一説によると、研究のために、特に調書の筆録を許可された精神分析学者の高橋鉄氏が、研究費欲しさにこれを少部数刷り、好事家に高値で密売したものが、さらに暴力団によって拡大再生産されたのではないかと言われているが、真相は明らかになっていない。
1941年(昭和16年)5月17日、前年(1940年)の皇紀2600年祝典による恩赦で減刑され、刑務所を出所した。
ちなみに犯行は1936(昭和11)年5月18日に行われた。
1日違いで、ほぼ丸5年が経過していた。
刑務所長などの配慮で、阿部定さんは「吉井昌子(まさこ)」と名前を変えて、誰にも過去を知られず暮らすことになった。
定さんは「吉井」という姓が気に入っていたようだ。
予審調書によると26才の頃、丹波の篠山の「大正楼」で娼妓をしていたが、待遇がひどいので逃げて神戸に住に始めた。
その当時、吉井信子と名乗って二週間ばかりカフェーの女給をしていたことがある。
29才の時には東京の三の輪で吉井昌子と名乗って高等淫売をしていたことがある。
現代風に言えば“コールガール”という事になる。
定さんは、なぜこの名前が気に入っていたのか?
それは、この名前を名乗っていた頃知り合った中川朝次郎(37歳)氏が気に入っていた事と関係があるようだ。
中川氏は日本橋区室町で袋物商を営んでいた。
定さんは昭和8年10月頃、中川氏の妾になっている。
昭和9年9月頃、中川氏が病気になり定さんの面倒が見られなくなったので相談の上別れている。
その後、定さんは横浜市中区富士見町の「山田」という店でコールガールを始めた。
昭和9年の暮に、この仕事で知り合った政友会の院外団という笠原喜之助氏の妾になる。
ところが笠原氏は放埒で、まともな手当ても定さんにやらなかったらしい。
“愛情もなく私を獣扱いにし別れようとすると平身低頭して哀願するという品性下劣な男でした。直ぐ嫌になりました。”と定さんは予審調書の中で述べている。
中川朝次郎氏は定さんが関係した男の中では余程気に入ったらしく、“馴染の中川さん”が恋しくなり昭和10年1月、電話で中川氏を呼出し浅草の上州屋で同宿したこともある。
その後も、この中川氏と定さんは会っている。
そのようなわけで、中川氏と“吉井昌子”という名前が定さんの頭の中でしっかりと結びついていたようだ。
いづれにしても、定さんは出所後その名前で(中川氏とは別人と)結婚をし、戦時中は埼玉県に疎開していた。
だが、終戦後、定さんとその夫が平和に暮らしているところに、新聞記者が取材で訪れた。
これによって、夫は妻が世間を騒がせた定さんであることを知り、それまで平和であった暮らしが崩壊した。
また、カストリ雑誌ブームの中で再び、阿部定事件が脚光を浴び、興味本位の『昭和一代女お定色ざんげ』などいろいろ書かれた。
そのため、1947年(昭和22年)9月、定さんはその著者と出版社を名誉毀損で東京地検に告訴している。
その後、作家の長田幹彦主催の劇団で、自ら「阿部定劇」のヒロインを演じて全国を巡業した。
その後、温泉地の旅館の女中、料理屋の女中、バーやおにぎり屋の経営者になったりして、あちこちを転々とする。
自分の知名度を利用し、逆にそれを利用されたりした。
1959年(昭和34年)、某料理屋の女中頭として、東京料飲店同志会から優良従業員として表彰されている。

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1969年(昭和44年)に石井輝男・監督で『明治大正昭和 猟奇女犯罪史』という名の映画が作られた。
実際に起きた異常ともいえる五大愛憎事件を、スキャンダラスに描いて話題を集めた。
昭和35年に起きた“東洋閣事件”を皮切りに、“阿部定事件”、それに引き続いて各地でおこった“象徴切り事件”、
敗戦の年に七人の女を強姦・殺害した“小平義雄強姦殺人事件”、明治の代表的毒婦“高橋お伝事件”まで猟奇犯罪を実録タッチでショッキングに描いた。
事件の当事者である阿部定さんが特別出演するというので、公開当時大きな話題を呼んだ。
数分だが定さん本人(当時64歳)が橋の上でインタビューに答えて事件を語る部分がある。

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1971年(昭和46年)、千葉県市原市のホテルで、「こう」という名前で働いていた。
ここでは、66歳という高齢にもめげず、若い男に金品を貢いでは気を引いていたそうであるが、置手紙を残したまま、姿を消した。
以後、消息を断った。
その後、ある老人ホームに入っているらしいという噂が立った。
現在は生死不明。
『愛はスミレの花のごとく』より
(2006年4月17日)

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デンマンさんは、定さんにこだわりますのね?

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良いところも悪いところもレンゲさんと定さんは、よく似ているからですよ。こうして定さんの後半生を読むと、レンゲさんの後半生に参考になるのじゃないかと思ってね。。。
あたしを犯罪者扱いにするのですかああああ。。。。いけすかんわああああ。。。
そういうわけではありませんよ。僕はね、定さんの予審調書を読んで、あのショッキングな殺人さえ犯していなかったら、定さんはまともな後半生を送れたろうと思いますよ。
どういうことですか?
定さんは素直で正直で関係者に好感を与えているんですよ。それは上の文章の中にもよく表れていますよ。
どういうところですか?
たとえばね、次のような箇所に定さんの良い性格をうかがうことが出来ますよ。
(すぐ下のページへ続く)