応天門の火事(PART 1)
(emaki00.jpg)
(emaki03b.jpg)
(himiko22b.gif)
デンマンさん。。。 「応天門の火事」ってぇ平安時代の火事でござ~♪~ますか?
(kato3.gif)
そうです。 平安時代の前期に次のような事件があったのですよ。
応天門の変
(rashomon6.gif)
応天門の変(おうてんもんのへん)は、平安時代前期の貞観8年(866年)に起こった政治事件である。
大納言・伴善男(とものよしお)は左大臣・源信(みなもとのまこと)と不仲であった。
源信を失脚させて空席になった左大臣に右大臣の藤原良相がなり、自らは右大臣になることを望んでいたともされる。
(emaki03b.jpg)
応天門が放火され、大納言・伴善男(とものよしお)は左大臣源信の犯行であると告発したが、太政大臣・藤原良房の進言で無罪となった。
その後、密告があり伴善男父子に嫌疑がかけられ、有罪となり流刑に処された。
これにより、古代からの名族伴氏(大伴氏)は没落した。
藤原氏による他氏排斥事件のひとつとされている。
藤原良相は源信の逮捕を命じて兵を出し、邸を包囲する。
放火の罪を着せられた左大臣・源信家の人々は絶望して大いに嘆き悲しんだ。
参議・藤原基経(もとつね)がこれを父の太政大臣・藤原良房に告げると、驚いた良房は清和天皇に奏上して源信を弁護した。
源信は無実となり、邸を包囲していた兵は引き上げた。
朝廷は伴善男らを応天門の放火の犯人であると断罪して死罪、罪一等を許されて流罪と決した。
伴善男は伊豆国、伴中庸は隠岐国、紀豊城は安房国、伴秋実は壱岐国、伴清縄は佐渡国に流され、連座した紀夏井らが処分された。
また、この処分から程無く源信・藤原良相の左右両大臣が急死したために藤原良房が朝廷の全権を把握する事になった。
この事件の処理に当たった藤原良房は、伴氏・紀氏の有力官人を排斥し、事件後には清和天皇の摂政となり藤原氏の勢力を拡大することに成功した。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
でも、どうして急に「応天門の火事」を持ち出したのでござ~♪~ますか?
あのねぇ~、たまたま夕べ次の本を読んだのですよ。
(lib30123.gif)
あらっ。。。 またバンクーバーの市立図書館から本を借りて読んだのでござ~ますか?
いけませんか?
ケチらないで買って読んで下さいましな。
図書館で読めるのだから、わざわざ買うこともありませんよ。 僕は本を買わない主義なのですよ。
どうして。。。?
買い始めるときりが無い。 私設図書館を作るようなものですからね。 (微笑)
。。。で、英語で書かれた『ひらがな日本美術史』なのでござ~ますか?
もちろん日本語ですよ。 次の箇所に出くわしたのですよ。
物語であるようなもの
「伴大納言絵巻」
「一体これが何のために作られた絵巻物なのか?」ということを考えてみると、この作品が「不思議」としか言いようのない絵巻物であることは分かるはずだ。
《伴大納言絵巻》は、《源氏物語絵巻》のような、“有名な古典物語の絵画化”ではない。
《信貴山縁起絵巻》のような、宗教色のある縁起の絵巻でもない。
《年中行事絵巻》のような、「宮中儀式を壮麗な絵巻物に仕立てて記録する」というようなものでもない。
文学でもなく宗教でもなく儀式典礼でもない絵巻ということになると、後は歴史を語る絵巻物しかない。
後白河法皇の時代より後になれば、《平治物語絵巻》のような歴史を題材にする絵巻物も出てくるし、後白河法皇の時代にも、今は伝わっていない絵巻物だけれども、《後三年合戦絵巻》というのが作られたという。
だから、実在の人物と事件を題材にした《伴大納言絵巻》は、この時代になってようやく登場する、「歴史を題材にする絵巻物」という、新しいジャンルなのかもしれない。
がしかし、果たして本当にそうなのだろうか?
(emaki00.jpg)
《伴大納言絵巻》は、実在の人物である伴大納言(伴善男:とものよしお)による応天門放火炎上事件をその題材としている。
伴大納言の応天門放火炎上事件は、9世紀の事件で、この絵巻物が作られた時代とは、300年ほど離れている。
(中略)
一体この「応天門放火事件の真相」は、なんだってわざわざ《伴大納言絵巻》という立派な絵巻物に仕立てられなければならなかったのか? (略) どうしてこの「伴大納言」なる人物は、300年後も後になってから、立派な絵巻物の主人公になれたのだろうか?
《伴大納言絵巻》のテーマは、「伴大納言の失脚」であって、別に「成功」ではないのだ。
(読み易いように改行を加えました。
赤字はデンマンが強調。
イラストと写真はデンマン・ライブラリーより)
122-125ページ 『ひらがな日本美術史』(その1)
著者: 橋本治
2001年6月5日 第6刷発行
発行所: 株式会社新潮社
著者の橋本さんは「一体これが何のために作られた絵巻物なのか?」という疑問を投げかけていますわね?
そうです。
つまり、デンマンさんがその疑問に答えるということでござ~ますか?
いけませんか?
別にいけないことではござ~ませんけれど、デンマンさんに答えることがができるのですか?
すでに僕は記事の中で次のように答えを書いていますよ。
この大伴家持と言う人は歌人と言うよりも政治家、あるいは政治評論家と呼んだ方がこの人の人物像をより的確に表現する事ができると僕は思いますね。
なぜなら、この人物の経歴を見てみると実に良く分かりますよ。
“藤原政権”に反抗的だった人で、そのために都から追放されたこともある人です。
大伴 家持 (おおとも やかもち)
養老2年(718年) - 延暦4年8月28日(785年10月5日)
奈良時代の政治家、歌人、三十六歌仙の一人。
祖父は大伴安麻呂。
父は大伴旅人。
弟に大伴書持がいる。
叔母には大伴坂上郎女がいる。
鑑真を日本に密航させた大伴古麻呂は、大叔父と言われている。
『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父安麻呂、父旅人と同じく政治家として歴史に名を残す。
天平の政争を生き延び、延暦年間に中納言まで昇る。
天平10年(738年)に内舎人と見え、天平12年(740年)九州の大宰府にて藤原広嗣が起こした乱の平定を祈願する聖武天皇の伊勢行幸に従駕。
天平17年(745年)に従五位下となる。
天平18年(746年)3月に宮内少輔。7月に越中国国守となる。
天平勝宝3年(751年)までに赴任。
この間に220余首の歌を詠んだ。
少納言となって帰京後、天平勝宝6年(754年)兵部少輔となり、翌年難波で防人の検校に関わる。
この時の防人との出会いが、万葉集の防人歌収集につながっている。
橘奈良麻呂の変には参加しなかったものの、藤原宿奈麻呂・石上宅嗣・佐伯今毛人の3人と藤原仲麻呂暗殺を計画し立案した。
事件は未遂に終わり、良継一人が責任を負ったため罪には問われなかったが、天平宝字8年薩摩守への転任と言う報復人事を受けることになった。
宝亀7年伊勢国国守。伊勢神宮の記録では5年ほど勤めたという。
宝亀11年(780年)、参議に昇進したものの、氷上川継の謀反事件(氷上川継の乱)に関与を疑われて都を追放されるなど、政治家として骨太な面を見ることができる。
延暦2年(783年)、中納言に昇進するが兼任していた陸奥按察使持節征東将軍の職務のために陸奥に滞在中に没した。
没直後に藤原種継暗殺事件が起こり、家持も関与していたとされて、埋葬を許されぬまま除名。
子の永主も隠岐国に流された。大同3年(806年)に従三位に復された。
SOURCE:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
つまり、大伴家持は章子さんのような“人道的”な立場から天智天皇の政策にも批判的であったし、後の藤原政権に対しても批判的だったわけです。
この大伴家持が子供の頃、家持の家庭教師をしていたのが、誰あろう、この山上憶良なのです。
山上憶良(やまのうえのおくら)
斉明天皇6年(660年)頃に生まれた。
天平5年(733年)頃に亡くなったとされている。
奈良時代初期の歌人。
万葉歌人。従五位下。
下級貴族の出身
中西進ら文学系の研究者の一部からは百済系帰化人説も出されている。
姓は臣(おみ)。
(sail30.jpg)
702年の第七次遣唐使船に同行し、唐に渡り儒教や仏教など最新の学問を研鑽する。
帰国後、東宮侍講(皇太子家庭教師)や、国司(県知事)を歴任。
筑前守(福岡県知事)在任中に、太宰府長官として赴任していた大伴旅人と親交があり、「筑紫歌壇」を形成。
また、旅人の子、家持の家庭教師を引き受ける。
仏教や儒教の思想に傾倒していたため、死や貧、老、病などといったものに敏感で、
かつ社会的な矛盾を鋭く観察していた。
そのため、官人という立場にありながら、
重税に喘ぐ農民や防人に狩られる夫を見守る妻など
社会的な弱者を鋭く観察した歌を多数詠んでおり、
当時としては異色の社会派歌人として知られる。
抒情的な感情描写に長けており、また一首の内に自分の感情も詠み込んだ歌も多い。
代表的な歌に『貧窮問答歌』、子を思う歌などがある。
万葉集には78首が撰ばれており、大伴家持や柿本人麻呂、山部赤人らと共に奈良時代を代表する歌人として評価が高い。
SOURCE:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大伴家持は、この山上憶良から強い影響を受けているわけです。
万葉集の編集長として山上憶良の歌を78首載せた事からもそのことが良く伺われます。
つまり、大伴家持も山上憶良も、当時としては異色の“社会派歌人”だったわけです。
でも、現実には天智天皇の政策を見れば分かるように、庶民は決して人道的には扱われておらず、防人は“捨て駒”のように扱われていた。
僕はすでに何度も書きましたが、『万葉集』は“政治批判の書”であると見ている訳です。
それは、今述べたように大伴家持も山上憶良も、当時としては異色の“社会派歌人”だったわけですよね。
しかも、大伴家持自身、当時の藤原政権に反抗的だったということからも分かるように、
大伴家持が『貧窮問答歌』を載せた理由には、政治告発の意味があると僕は見ているわけですよ。
ところが藤原政権は、全く当時の庶民の生活には無関心だったわけです。
山上憶良の『貧窮問答歌』など完全に無視されましたよ。
その証拠が平安時代の庶民の実態です。
“平安時代”なんて誰が命名したのか?
けっして平安ではなかった!
いわば地獄時代だった。
ここで書くとさらに長くなるので、関心のある人は次の記事を読んでくださいね。
■『平安時代は決して平安ではなかった』
(注:写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました。
赤字はデンマンが強調)
『万葉集の謎と山上憶良』より
(2006年7月1日)
(すぐ下のページへ続く)