時代の落とし子
ミシュリーヌ・プレールと ジェラール・フィリップ ■ 『肉体の悪魔』 (映画紹介) |
今日は「肉体の悪魔」を書いたレイモン・ラディゲの事についてお話しするのですか?
そうですよう。わずか20才で亡くなってしまったのですからねぇ~。
つまり、デンマンさんはラディゲが早死にして可哀想だと思うのですか?
うん。。。確かに同情しますよねぇ。自分の人生を振り返って、もし、自分が20才で死んでいたら。。。?
どうなっていたと思います?
僕は、全く何もしないで死んでしまった事になるのですよう。。。海外にも出てゆく機会を奪われて、バンクーバーのパラダイスも見ずに死んでしまったと言うことになるのですよう。
デンマンさんはバンクーバーで暮らしている事をマジでパラダイスに住んでいると信じているのですか?
僕はマジで信じていますよう。30カ国以上を放浪しましたからね。それは僕が20才を過ぎてからの事ですよう。いろいろな土地を訪れて。。。それで、最終的にバンクーバーを僕のパラダイスだと決めたのですよう。
。。。で、30才を過ぎてからバンクーバーに住んでいるのですか?
そうですよう。だから、僕が20才で死んでいたら、バンクーバーを見なかったどころか、ネットの世界にも、まったく僕が生きていたという痕跡を残さなかったのですよう。考えてみるだけでも、悲惨と言うか。無念と言うか。。。人生の儚(はかな)さをしみじみと感じますよう。
。。。で、今、デンマンさんが小百合さんのために書いている『ロマンポルノ 第3部』は、もしかして「肉体の悪魔」のつもりで書いているのですか?
うへへへへ。。。それ程力(りき)んで書いているわけじゃないけれど、でも、“遺書”のつもりで書いているのですよう。
マジで。。。?
もちろん、半分冗談ですよう。うしししし。。。
デンマンさん、あまり冗談は言わないでくださいね。真面目に読んでいる人の方が多いのですから。
分かりました。
それで、どうして『時代の落とし子』と言うタイトルにしたのですか?
僕は、レイモン・ラディゲが、まさに、“時代の落とし子”だと思うからですよう。
どう言う事ですか?
つまり、第一次大戦中にレイモン・ラディゲが10代を過ごしていなかったら、おそらく世界の文学史の中でも天才中の天才にならなかったかもしれない。僕はそう思っているのですよう。
それ程、ラディゲが第一次大戦中に10代を過ごしたことが重要なのですか?
僕は、そう信じていますよう。久しぶりにレイモン・ラディゲの経歴をもう一度じっくりと読んでみたのですよう。レンゲさんも、ちょっと読んでみてください。
レイモン・ラディゲ
(Raymond Radiguet)
1903年6月18日にフランスはパリの郊外、サンモール・デ・フォッセで生まれる。
1923年12月12日に、まだ20才なのに腸チフスで亡くなる。
フランスで生まれた小説家、詩人。
生涯
幼少の頃は学業優秀でならすものの、思春期にさしかかる頃から文学にしか興味を示さなくなり、
学業そっちのけで風刺漫画家として活動していた父の蔵書を読み耽るようになる。
そのときフランス文学の古典の魅力にとりつかれる。
14才の頃、『肉体の悪魔』のモデルとされる年上の女性と出会い、結果として不勉強と不登校のため学校を放校処分になる。
その後、自宅で父親からギリシア語とラテン語を習いながら、徐々に詩作に手を染める。
15才の時に父親の知り合いの編集者のつてをたどって知り合った詩人のマックス・ジャコブに詩を評価され、同じ詩人のジャン・コクトーに紹介される。
コクトーはラディゲの才覚を見抜き、自分の友人の芸術家や文学者仲間に紹介してまわる。
数多くのコクトーの友人との交友を通して、ラディゲは創作の重心を徐々に詩作から小説に移しはじめ、自らの体験に取材した長編処女小説『肉体の悪魔』の執筆にとりかかる。
途中、詩集『燃ゆる頬』、『休暇中の宿題』の出版や、いくつかの評論の執筆を行ないつつ、「肉体の悪魔」の執筆を続行。
数度のコクトーを介した出版社とのやりとりと改稿の末に、ベルナール・グラッセ書店から刊行される。
このとき出版社は新人作家対象としては異例の一大プロモーションを敢行したため文壇から批判を浴びるが、作品は反道徳的ともとれる内容が逆に評判を呼びベストセラーとなり、ラディゲは一躍サロンの寵児としてもてはやされることになる。
「肉体の悪魔」で得た印税を元手に、コクトーとともにヨーロッパ各地を転々としながらも、
ラディゲはすでに取りかかっていた次の作品『ドルジュル伯の舞踏会』の執筆を続行。
同時に自分がこれまで書いた評論などの原稿や詩作を整理しはじめる。
1923年11月末頃に突如、体調を崩し腸チフスと診断され入院。
病床で「ドルジュル伯」の校正をしながら治療に専念するが、快方には向かわずそのまま20才の短い生涯を閉じる。
遺作の「ドルジュル伯の舞踏会」は、死後出版された。
コクトーはラディゲの早すぎる死に深い衝撃を受け、その後およそ10年にわたって阿片に溺れ続けた。
フランス文学界での位置づけ
ラディゲのフランス文学史全体における位置づけは、作家としての活動期間が短かく、作品の本数も少ないせいもあってか決して高くはない。
しかし処女小説「肉体の悪魔」は、題材のセンセーショナルさに溺れることなく、
年上の既婚者との不倫に溺れる自らの心の推移を冷徹無比の観察眼でとらえ、
虚飾を排した簡潔な表現で書きつづったことで、
今日もなお批評に耐えうる完成度に達している。
「ドルジュル伯の舞踏会」に至っては、
ラディゲ自らが参考にしたとしているラファイエット夫人の『クレーヴの奥方』を、
高度に文学的な手腕で換骨奪胎し、
別の次元の「フランス心理小説の傑作」に仕立て上げていることからも、
「夭折の天才」の名にふさわしい文学的実力の持ち主であったことが容易に推察される。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
でも、上の経歴の中には第一次大戦の事はまったく書かれていませんよね。
そうです。この項目を書いた人は、ラディゲにとって第一次世界大戦は、それ程重要でないと思っているのでしょうね。
でも、デンマンさんは重要だと断定するのですか?
そうですよう。ラディゲが書いた「肉体の悪魔」を読めば、第一次世界大戦が彼に極めて重要な影響を与えた、と言う事が良く分かりますよう。
たとえば。。。どういうところがですか?
「肉体の悪魔」を書いたレイモン・ラディゲは早熟だった。14才の頃、「肉体の悪魔」のモデルとされる年上の女性と出会った。第一次大戦中のことですよう。婚約者が戦争に行っている間に二人の関係は深まってゆく。
つまり、第一次世界大戦がなかったら、ラディゲは「肉体の悪魔」を書くことはなかったと。。。デンマンさんは、そう思っているのですか?
そうですよう。
でも、「肉体の悪魔」は自伝的要素が強い作品だけれど、ラディゲと実際の年上の女性の関係をそのまま作品にしたのではないと言われていますよね?
その通りです。小説では相手の女性は4才年上になっているけれど、実際には10才ほど年が離れていたらしい。僕は、実際の女性は小説で書かれているマルトよりも、ずっと大人だったよう思うのですよう。
どうしてですか?