豊田市、気ままに、彼方此方散歩

豊田市在住の者として豊田市内の、あちこちを徒歩で、自転車で、端っこの所は勿論、自動車で、訪れて見たいです。

緑化センター内(昭和の小径を歩く)

2007-01-30 05:40:33 | Weblog
昭和の小径を歩く
豊田市街からR419号を小原方面に向かいグリーンロード「藤岡IC]「愛知県緑化センター」の案内板に従い右に折れる。「昭和の小道」はこの「緑化センター」の中にある。僕の場合、足助に向かう道路153号で、「大釜」から工業団地を抜けて、左折し「緑化センター」と「昭和の森」の境界線、桑原幹根元知事の書かれた石碑の前に出て其処から「昭和の小径」を歩きました。此処は「平成の小径」の入り口にもなっています。本来此処は入り口ではなく終点なのです。本当の入り口は、本館横にあるのです。



入り口には「昭和の小径」の表示板があり、其の左には「平成の小径」もあって、其処に備えられた椅子に老夫婦が腰掛けて居られた。どちらに行こうかと迷ったが取りあえず「昭和の小径」を歩む。
「昭和の小径」案内図


歩き始めてすぐ急な階段がある。
写真ではあまり急勾配に見えないがかなり急だ。


樹々の囁き聞こえるよう
樹々につつまれて
多くは裸寒寒と寂しそう
アベマキ、コナラ、カエデなど
よくよく見ればもう準備してる
小さな芽たち
ひっそりと動き出しそう



敷き詰められた落ち葉の上を
心和ませる音を聞きながら



花は、花はと探せども、見つからず。ただ、ソヨゴの赤い実とアセビの花を見付けただけ。アセビもまだまだ、始めの一歩でした。 




何故にこの小径を「昭和の小径」と呼ぶのだろう。解からん。すると途中、次の二つの看板を目にした。この存在が「昭和の小径」の根拠なのだと理解した。








青木原神社(豊田市青木町)

2007-01-26 08:15:15 | 散歩
青木原神社(豊田市青木町)
R153を豊田市街から足助方面に向かい、矢作川を渡る平戸橋まで来た時、これを渡らず左方向に進めむ。一つ目の信号を過ぎ、右に「みずほ大学」そしてすぐ左側に神社を見る事ができる。



写真右の表示板には次のように書かれている。
青木原神社由緒
祭神 豊受大御神
昭和16年科事変の真っ只中そして同年12月第二次世界大戦へと突入し
日本国民の食料不足により国の施策としてこの青木原台地に開拓農民を各地より集め
地区の守り神として弥栄神社を祀り毎朝崇拝を重ね開拓精神を燃やし
食糧増産へと励みました。
その後昭和40年9月地区の一層の発展と生活の向上を願って、
衣食住の神である豊受大明神を伊勢神宮の外宮より分祀して戴き祀りました。
地区の発展と共に逐次境内地は整備され宗教法人として昭和48年認可されました。
青木町の高台にあるこの青木原神社は築住民の氏神として住民を守り
幸せを授け賜うことを願う人々の崇敬を受けております。





高さ50cm程でしょうかこのような木彫が片隅に置かれてありました





白山神社(豊田市京町)

2007-01-20 08:37:55 | 散歩
白山神社(京町)

白山神社への参道階段と鳥居
枝下用水沿いの歩道から小さな橋を渡り愛環鉄道下を潜り抜けると神社に至る。



白山神社


社記
1)鎮座地 豊田市京町七丁目拾弐番地 
社名
祭神 伊弉那美命(いざなぎのみこと)
   菊理比賣命(ぐくりいひめのみこと)大気津比賣命(おおけついひめのみこと)
   火産霊命(ほむすいのみこと)
由緒・沿革 白山比神社は加賀国白山と称し、白山神社の総本山であり石川県鶴木町三の宮町に鎮座されている。当白山神社の祭祀勧請の時については詳らかでない。口碑によれば昔梅坪村は村の四方に社を祭祀しこれを守り神として村人の安全と五穀豊穣を祈り生活してきた。これを梅坪四社と称す。当白山神社はその内の一社であり、数百年前の鎮座と伝えられている。四社とは東に弁才天、南に若宮社、西に神明社、北に白山神社。(境内表示板より)

白山神社と秋葉神社


合祀秋葉神社
古文書によれば徳川幕府の中期宝暦13年(1763年)、いわゆる宝暦の大火があり、記録によれば同年6月24日九ッ時土井地内より出火、下町、風呂尾町、永明町、残らず焼失すとあり村の大半を焼失した。このこともあって天明2年(1762年)当所梅坪村庄屋太田定勝本領主となり遠州秋葉宮を勘請し本社に合祀したとある。それ以来村人は通称秋葉山を崇敬し鎮火の神として信仰が深い。祭礼は毎年旧暦11月16日で境内でドンドコという火祭りが行われていたが、第二次大戦後は中断されている。
昭和26年挙母市制施行 同36年豊田市と市名変更し梅坪北区を新しい町名設定により、東梅坪町京町と改め両町の崇敬者を以って氏子となし神社の維持経営にあたっている。
(境内表示板より)


梅坪神社

2007-01-16 10:37:37 | 散歩
梅坪神社
この付近には「第2ひまわり学園」「上水道運用センター」
「西山公園」などがありますがちょっと梅坪神社は気づきにくいかと思います。
道路沿いにひまわり学園への案内表示がありますので、これを目安に進んでください。
すると解かるかと思います。



梅坪神社
1)鎮座地 豊田市梅坪町四丁目五十八番地
2)祭神 天照皇大神(あまてらすおおみかみ)
兎道稚郎子(うじのめけいらっこ)
3)沿革 創立の年代は詳らかでないが古くは「神明宮」と称し、現在の梅坪町九丁目(旧字神明)に鎮座した。
江戸中期に至って水害を恐れ現在地に遷座した。
大正12年 神明宮に若宮神社(現在の陣中町一丁目)を合祀し、梅坪神社と改称する。
昭和2年 村社に列格する。
昭和27年 宗教法人となる。
昭和46年 本殿祝詞殿を改築し遷宮する。
4)境内社
天神社 祭神 天之御中主神
胸形社 祭神 多紀理比売命 挟依比売命 多岐都比売命
山形社 祭神 大山祇命

境内にある慰霊の碑


碑文にこう書いてある。
昭和6年満州事変に端を発し支那事変続いて太平洋戦争へと戦火は拡大する。その間、大東亜共栄圏確立の旗印の下応召し従軍され尊い護国の神となられた勇士の霊をここに奉祀し慰霊の碑と識すものである。顧みるに十五年の長きに亘った大戦に国民は一丸となり艱難辛苦によく耐えた大字梅坪三百余戸の中から百八十余名の男子が極寒の満蒙、広漠果てしない中国、密林昼なお暗きフィリッピン、沖縄を始めとする東南アジア、ソロモン、インド洋にと赴いたまた内地においても戦場となり激しい空襲下の本土防衛に軍人として一身一家をかえりみず尽忠報国の念に燃え勇戦奮闘した。然るに惜しみてあまりある73名の勇士が尊い護国の神となられたこの英霊に対し衷心より感謝の誠を捧げ永遠に安らかに鎮まり給えと祈念するものである。戦後四十余年焦土と化した日本は国民の不撓不屈の努力により今や世界にも勇たる国に隆盛した。ここに梅坪地区四町町民が相計り由緒深い梅坪神社境内に碑を建立し戦争の厳粛なる事実を後世に伝えると共に郷土の限りなき繁栄と世界の永遠の平和を祈念するものです。
平成13年4月吉日 慰霊の碑建立委員会

境内にある日露記念碑




棒の手会館

2007-01-09 07:17:26 | 散歩
棒の手・ふれあい会館
猿投神社の鳥居の前の道を藤岡方面に向かう。
わずか300m~400m位であろうか、左手に大きな建て看板が目に入る
此処が、「棒の手会館・ふれあいホール」
(0565-45-7288 愛知県豊田市猿投町別所23-1 )だ。

愛知県指定の無形文化財「棒の手」に関する資料が展示されている。「棒の手」の起源、流派の説明や「棒の手」の衣装、道具などが展示されていて「棒の手」の一切が理解できるようになっている

ふれあいホール・豊田市棒の手会館 右手にある会館は写っていない


ふれあいホール


棒の手会館


棒の手モニュメント


瑞雲寺

2007-01-05 05:16:30 | Weblog
瑞雲寺
  (愛知県豊田市西中山町榎前9)
小原、瑞浪方面に向かう419号線の八柱神社の鳥居を右に見てから最初の信号を
右折すれば、グリーンロード「中山IC」入り口、「愛知県緑化センター」に行ける。
此処を過ぎ、左に郵便局を見る。左折すれば、瑞雲寺だ。










藤岡町の八柱神社を訪ねる

2007-01-02 11:08:28 | 散歩
八柱神社(藤岡町)
小原、瑞浪方面に向かう419号線の右にメグリア藤岡店、左にアントを過ぎ、
JA藤岡店の道を隔てた横に、八柱神社の鳥居が建っている。
大きな木に覆われた急な階段を上る。

八柱神社




八柱神社(西加茂郡(現在は豊田市)藤岡町大字西中山
由緒
 創祀は天文23年(1554) 明治6年(1873)村社に列格。
 大正15年(1926)指定村社(神饌帛料供進神社)に昇格し氏神として奉斎し、
 村民の尊栄極めて厚く今日に至っている。
例祭日
 十月十七日
境内に末社を合祀する
 八幡社 稲荷社 秋葉社 御鍬社 蚕霊社

上の何れかの社であろうか?


能あるいは芝居の舞台か?