豊田市、気ままに、彼方此方散歩

豊田市在住の者として豊田市内の、あちこちを徒歩で、自転車で、端っこの所は勿論、自動車で、訪れて見たいです。

若宮八幡社(豊田市)

2009-11-30 18:16:13 | 散歩
若宮神社
所在地 地図をご覧ください。



若宮八幡社です。


若宮八幡社本殿へ。


本殿です。




本殿の掲額と提灯です。
ここまで、鳥居に表示されている「若宮八幡社」と書いてきたが、
この写真にあるように、本殿の掲額には若宮八幡宮とある。
ちなみに、地図には「若宮八幡宮」と表記されている。


本殿の左側です。


若宮神社の由緒碑です。


次のように書かれています。

由緒碑
若宮八幡社の鳥居は、天保二年および明治四十二年に修復された。
その後、昭和三十四年九月二十六日の伊勢湾台風で倒壊したが、
昭和三十五年十月九日、復元された。
このたび、県道鴛鴨・三好線の拡幅工事ならびに大森.桝塚線の
新設に伴い、移転されることとなった。
氏子はもとより、近隣の人々から、若宮八幡社の赤鳥居と親しまれて
きたが、木造のため移転に耐えられないので、平成三年七月十日
石造りで、ここに再建された。
    若宮八幡社総氏子



本殿の左側にあった倉庫内には小さな屋台が置かれていました。


また、右側には、お神輿が置かれていました。







寿恵野神社(豊田市)と双幹の松

2009-11-29 18:38:52 | 散歩
寿恵野神社と双幹の松
所在地 豊田市豊栄町

寿恵野神社の鳥居です。


寿恵野神社鳥居と本殿です。


本殿です。


寿恵野神社の幟です。


寿恵野神社由緒碑です。

次のように書かれています。

御由緒
 紀州藩主大納言徳川茂承公廃藩の後西三河の俗称諭地山周辺を
開拓するに先立ち、明治十六年一月八日現在地に神殿を造営し、
天照座皇大御神、持統上皇、東照公の御霊を奉祀し、鎮座祭を行った。
その後天鈿女尊、大山祇神を合祀し、当地の産土神として祭祀を
怠ることなく斎行今日に至る。
 紀州公開拓後、当地を徳川偕楽園と称し、地方史にも掲載された。
この偕楽園の中心をなすものが当寿恵野神社である。
 昭和五十七年十月吉日鎮座百年を記念し、社殿を再建して
崇敬の誠を顕し以って後世にに伝う。
    昭和五十七年十月吉日   豊栄町氏子一同

豊田市の名木第99号 双幹の松です。














豊田神明社(豊田市)

2009-11-27 04:42:32 | 散歩
豊田神明社(豊田市)
所在地
地図をご覧ください。


豊田神明社の鳥居です。


豊田神明社です。


本殿です。




本殿の掲額です。


豊田神明社の由来碑です。

次のように書かれています。
御由緒
祭神 天照皇大神 豊受大神 大山昨命 火産霊命
大祭日 十月十日
往古この地は末野原の一部で碧海の郡の最も高い所の山林・原野で諭地ヶ原藤藪
といわれた.昭和十年自動車工場が諭地ヶ原に建設されるや、当地も開発が進み
上郷村大字渡刈字藤藪となり、昭和三十九年豊田市に合併するに及び
豊栄町一丁目となった。
 昭和十九年上郷村福受の山王神社は同地に海軍航空隊が新設されるに伴い
社殿ともども藤藪へ遷座され、当地の氏神として崇敬されていたが、昭和三十九年
福受の要請により返還し、跡地に海軍航空隊の旧社殿を譲り受け、伊勢神宮を
勧請し、山王神社と合祀して新しく豊田神明社として崇敬奉斎
してきた。
 然し永年の風雨により、社殿の老朽甚だしく氏子一同合議の上新社殿の造営
に着手、平成元年三月二十六日氏子崇敬者相集いてこれを祝い竣工鎮座祭を
奉斎する。   豊田神明社




白山神社のサカキ

2009-11-14 05:17:00 | 散歩
白山神社のサカキ(豊田市)
所在地 豊田市小原 大平町
    地図をご覧ください


白山神社です。






サカキの表示板です。


サカキです。




サカキ(モチノキ科 市指定天然記念物)
樹高25m 幹周 1,4m  昭和46年1月指定
サカキは観賞よりも神事に供される。
亜高木が普通であるのにこの木のように
25mもあるのは珍しい。
細葉、長葉、円葉等の種類がある。




杣路峠へ(豊田市野入の登山口から)

2009-11-11 04:39:28 | 散歩
杣路峠へ 

塩の道 中馬街道の案内板です。ここから杣路峠を目指します。


案内板には次のように書かれています。

杣路峠の由来

中馬街道(塩の道)
今の国道153号線(飯田街道)は、明治26年8月に着工し、同27年6月に竣工しました。
それまでは野入から大野瀬へ通じる道は無く、杣路峠を超えて信州の根羽村へ出る唯一の生活
道路でした.また戦国時代には兵馬の道として多くの部将や大軍が往来し、江戸時代には中馬街道
として人馬の通行で賑わいました。

尹良親王
後醍醐天皇の皇子宗良親王の御子尹良親王
は、応永30年(1423)信州の浪合村で賊に襲われて亡くなりました。
御所貝津の御座所から浪合村に向かわれるときに杣路峠を越えています。
その尹良親王が休まれた所に地元の人たちが建てた「尹良神社」が
今の残されています。

武田信玄
元亀2年(1571)武田信玄は京を目指して本格的な三河侵攻を始めました。
信玄、勝頼の二万五千の大軍が杣路峠を越えて三河に侵入、武節城下を
通過して足助城を攻めました。
信玄が始めて三河に足を踏み入れたのが「杣路超え」でした。

武田勝頼
天正3年(1575)5月21日、長篠合戦に敗れた武田勝頼は、段戸山を
超えて武節城に一泊。翌日、4人の直臣と田峰城主の菅沼定忠らと共に
杣路峠を越えて支配地の信州に逃れていきました。

中馬街道
江戸時代に始まった信州の中馬は、次第に大きな輸送団隣.杣路峠を
超えて信州の産物を名古屋岡崎方面に運び、帰り荷として塩などを
持ち帰りました.杣路峠は毎日数十頭の馬が鈴を
鳴らして往来し賑わったといいます。

歩き始めました。


杣路峠の登り口です。






馬の水飲み場です。


これより長野県です。


尹良社の大ブナです。この木は根羽村文化財第10号に指定されています。








杣路峠付近から眺める風景です。